isutaでは今週も、SUGARさんが贈る週間占いを配信。
まーささんによる「上半期の恋愛占い」、星乃せいこさんによる「2022年の運勢グラフ」も配信しているので、こちらもぜひチェックしてくださいね♡
「上半期恋愛占い」「年間運勢グラフ」はこちら 今週のおひつじ座の運勢illustration by ニシイズミユカ
倫理的無法
今週のおひつじ座は、どこまでも子どもっぽいエロティシズムを貫いていこうとするような星回り。
石川淳の『六道遊行』という小説は、千年の時空を超えて現代と奈良時代とを往復するというSF仕立ての物語で、そこには玉丸というスーパー・ベイビーが出てくるのですが、彼の後見人である成り上がりの事業家がおもしろいことを言うのです。
「ばか教師がなにを知ってをるか。こはれたものをあとから継ぐといふ思想がわしには気に入らん。茶碗は割れば消える。ものは消えるといふことを知ればそれでよいではないか。あとの始末は掃除番にまかせておけ。窓ガラスに黄金のボールを投げつけてあそぶのが貴族のあそびだ。窓もボールもどこかに吹つ飛んで、空虚の中に当人がゐる。空虚こそ貴族の立つところぢやよ。」
この小説はいわば男性原理と女性原理の確執を、戯画化された政治史として描いているのですが、作者の「陽根の運動は必ず倫理的に無法でなくてはならない」という子どもっぽい恋愛テーゼは、玉丸の「おれはひとりで行く。おもふままに振舞ふ。たれの世話にもならない。じやまなやつはどけ」というセリフとして結晶化していくのです。あなたもまた、下手に世慣れた振る舞いでお茶を濁すのでなく、むしろ本来の自分らしいやり方に切り替えていきたいところ。
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出会いは願いに変わりゆく
今週のおうし座は、長く忘れていた憧れや願いをスッと気が付いていくような星回り。
「寒林の樗櫟となりて鳥呼ばむ」(大石悦子)では、樗(おうち)も櫟(くぬぎ)も木材としての使い道がないことから、転じて「樗櫟(ちょれき)」とは役に立たない人間のことで、ここでは作者が自分自身のことをあえてそう見なしているのでしょう。
何の役にも立たないのなら、寒林のなかに立ち尽くして、せめて鳥のねぐらにでもなるべく、ただ黙って彼らの到来を待ち続けよう。そんな諦めとも自己犠牲ともつかない自己放下を宣言するかのような掲句ですが、これを母性などと呼んでしまっては、あまりに底の浅い解釈になってしまいます。
作者はあくまで1人の人間として待っているのであって、それはどこか宮沢賢治の『雨ニモマケズ風ニモマケズ』の詩に出てくる「ホメラレモセズ クニモサレズ」、東に、西に、南に、北に、みんなのために奔走する「デクノボー」のような存在への憧れが通底しているのではないでしょうか。あなたも誰か何かとの出会いを通じて目覚める、みずからの中に眠っていた憧れや願いということがテーマとなっていくでしょう。
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息継ぎの練習を
今週のふたご座は、日常のことばの息苦しさから不意に救われていくような星回り。
ドイツ系ユダヤ人の詩人パウル・ツェラン(1920~70)は、かつて「詩―それはひとつの息の転換なのかもしれません。おそらく詩は道を―芸術の道をも―こうした息の転換のために進むのではないでしょうか」と述べていたことがありましたが、これはことばというものが真に詩的に用いられるとき、人はそれによって日常の息苦しさから救われていくのだという、明快な真実を端的にあらわしてくれています。
例えば、人間という生き物の思考の様相について、ゴッホの『星月夜』に着想を得て「糸の太陽たち/灰暗色の荒野の上方に/樹木の/高さの/思考が/光の音律をかき鳴らす」と書き、また終わってしまった愛の時間について「ぼくは咲き終わった時刻の喪章につつまれて立ち」と表現するツェランの詩行を追っていくとき。私たちは現実までもが日常を離れて“異語”として組み替えられ、新鮮さを伴ってこちらに迫ってくるさまに、改めて目を見開かされていくはず。
そしてそれは、現代社会に氾濫することばの、がまんできない軽々しさ、まずしさの対極にあるものという風にも言えるのではないでしょうか。あなたも、そうした意味での「息の転換」に身を任せてみるべし。
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世路は山川より険し
今週のかに座は、意識をより洗練された無色(白)へと導き、大きな循環のプロセスとの調和を促していくような星回り。
「水が責めぬきし白さよ寒晒」(右城暮石)に出てくる「寒晒(かんざらし)」とは、白玉粉などを作るための作業。石臼などで砕いたもち米の粉を、濁りが取れるまで何度も水を替えて冷水に漬け、寒気に晒して陰干しすることを言い、晩冬の季語です。わざわざこんな寒い時期を選んで、そんなつらい作業をしなくても、と思ってしまうのも人情ですが、そうまでしてでも寒ざらしの寒天(寒晒で作るところてんの意味)を食べたくなるのも人の性というもの。
現在ではそうした工程も機械化され、また井戸水や湧き水の冷たさを感じる機会もめっきり少なくなってしまいましたが、「水が責めぬきし白さ」という表現には、どこか時代を超えて伝わってくる霊的体感が息づいているように思います。
特に、暮らしぶりが厳しくなった昨今の日本社会を思えば、小林一茶であれば、世に生きる路は山川よりけわしいとして、地べたに暮らすかそけき者たちの姿をそこに重ねて詠んでしまうところでしょう。あなたもまた、密かに「寒晒」に励んでいる者たちの存在にいかに気付き、そっと身を添わしていけるかがテーマとなっていきそうです。
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欠落者の道
今週のしし座は、転落や欠落を改めて、みずからのアイデンティティの一部として引き受けていくような星回り。
「夜の世界」に集う人たちというのは「昼の世界」に居場所を現に失っているか、かつて決定的な仕方で失ったことがある人たちがほとんどです。
そこには欠落を抱えた者同士の気遣いのようなものがある種の「匂い」として漂っていて、そういう匂いをかぐと人間どうしても格好のつけようがなくなるというか、たとえ格好をつけていたとしても、そのポーズの裏にある深い悲しみが滲み出てきてしまうものなのでしょう。
表舞台で順調に過ごしているときというのは、なかなか自分の欠落には気付けないものですが、理屈では説明のできない運命に絡めとられてしまったり、何かを仕出かしてしまったり、またちょっとした出来事がきっかけで、欠落と向き合わざるを得なくなってしまったとき、人間はある意味で「夜の世界」の住人としての道を歩み始めるのかも知れません。あなたも、そうした「夜の世界」に居心地のよさを感じてしまう人間のひとりとしてこの世をさすらっていくべし。
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交錯の場をつくる
今週のおとめ座は、この上なく個人的なことと、他者のそれとの出会いに直面していくような星回り。
「人が来て人が出てゆく霜の家」(今場忠夫)の舞台は、入っても出ても、なんの変化もない1軒の家。そこにはまざまざと感じられる真冬の静けさが息づいている。しかし、これがもし「雪の家」で締めくくられていたら、どうだったろうか。人影はより一段と鮮明になったかもしれない。ただ鮮明にはなっても、「人が来て人が出てゆく」という森閑とした時間の経過の妙は生きなかったに違いない。
そして辺り一体の表面を霜で覆われた「霜の家」であればこそ、朝日を受けてキラキラと輝く光景を受け、確かな時間の経過とともに、ちょっとした人間の出入りなどでは決して侵されることのない自然の底深さのようなものが感じられてくるのではないか。
そう考えると、ここでいう「家」とは私たち一人ひとりに与えられた生の比喩かもしれない。1回限りの短い一瞬の、この上なく個的な出来事であると同時に、悠久の歴史を重ねてきた普遍の法則のもとにある開かれた、自由な世界であり、その両者が神秘な出会いを遂げる場であると。あなたも、過去と現在、自分と他者の一瞬のこの奇妙な交錯の意味するところについて何らかの気付きがもたらされていくはず。
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地球の男に飽きたところよ
今週のてんびん座は、奪われた世界との接触を取り戻そうとしていくような星回り。
むかしの街というのは、ひとつひとつの家がそれぞれに異なっていたり、家と家のあいだによくわからない空間や隙間が存在したり、横丁も非常に入り組んでいて、鬼ごっこやかくれんぼが自然にできたものでした。しかし、家屋構造も既製のものがほとんどとなり、都市計画で整備された結果、家にも街にもある種のラビリンス(迷路)がなくなってしまいました。
ではその代わりに何が起きているかというと、大人になってからUFOを見たりして、<未知との遭遇>をする訳です。ただ、そうしたUFOというのは一種のデジャヴュ(既視感)体験であって、既知のものとつながることで未知が帰ってくるようになっている。
それは思春期のやり直しでもあって、若いころに世の中からの隠れ場所を見つけることを周囲や時代に許されなかった人ほど、後半生に改めて合意的現実(母船)からインキュベーション(潜伏)しようとして、うさんくさい領域に分け入っていく。昔の人はそういうことをちゃんと分かっていたからこそ、便所や納戸を離して建てたのかもしれません。あなたも、そうした高等なかくれんぼに興じてみるといいでしょう。
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祈りの内実
今週のさそり座は、感覚的にみずからの人となりを思い知らされていくような星回り。
「死に行くときも焼きいもをさはつた手」(宮本佳世乃)という句は、冒頭の「死に行く」で暗い予感を抱かせつつも、「ときも焼き芋」と何か柔らかく包まれるような感触を音の連続で想起させ、最後は「さはつた手」に残された余韻を味わう。
人が死ぬ前に見ると言われる走馬燈はあくまで視覚的な体験だが、掲句に詠まれているのはもっと原始的で本能的な、つまり触覚的なそれだ。いよいよのときにふっと思い出すのは、かつて誰かの背中に感じたぬくもりだろうか、それともある冬の日に寒さで感覚を失った手に抱いた「焼き芋」の熱だろうか。
案外、後者なのかも知れないし、その意外さに自分でも笑ってしまいそうなところが妙にリアルでもある。だが、それは決して滑稽さなどではなく、人間の心象世界というものにどうしたって入り込んでくる一種のユーモアであり、それをその人なりの人間味と呼ぶのだろう。あなたもまた、どうしたって消せないみずからの人間味を味わっていくことになるはず。
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問われる
今週のいて座は、「神」の代わりとなる何かに自らの身をあずけていたことに気が付いていくような星回り。
悪天候、空腹、不潔、足の腫れと痛み、物盗りや野犬などの脅威など。中世の巡礼たちの孤独な旅路には、快適にアレンジされた毎日のなかで、現代の私たちが忘れてしまったあらゆる不快さや危険がつきものであり、それらが結託してたえず彼らをさいなみました。
そうまでしてでも聖地への遠い旅路を歩いてむかったのは、災厄や悲しみの衝撃を和らげようとしたからであり、そうした伝統は中世人にとってほど「神」が明確な存在ではなくなってしまった現代においても、よく目を凝らしさえすれば、そこかしこに受け継がれているように思います。
例えそれがささやかな夢であれ、強固な信念であれ、人生でそれらを実現することの難しさに直面し、保身を超えねばならない瞬間が訪れたとき、夢や信念は少なくともあなたにとってかつての「神」に代わるほどの切実さを伴うものとなるのです。巡礼の目的が目的地にたどり着くことではなく、旅の途上そのものにあり、その本質が「問われること」にあるとするならば、あなたも、これまで身をあずけていた何かにその切実さを問われていくことになるかも知れません。
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化けさせてくれるもの
今週のやぎ座は、単なる一個人がかけがえのない尊い存在へと“化ける”際の、諸条件に思い当っていくような星回り。
「大冬木黄金の棒の如き時」の作者・上野泰には、長野県の小諸に疎開し、俳句を学び始めた頃の思い出にみずからふれた次のような一節があります。
「小諸の冬は寒かった。地の中核から中天に一本の鋭い棒がきりきりと舞ひ立つて行く様であつた。吸取紙がインクを吸ふ様に一歩外を出ると頬も鼻も寒さを吸ひ取つて赤くなつた。」
そうしてみると、掲句における「大冬木」もまた、作者の空想上の「1本の鋭い棒」に重ねられており、こうした擬人法的隠喩による静物の生命付与が作者の俳句上の大きな特色となっていることが分かります。ただ、掲句の「大冬木」が同時に、生きた生命をもって把握された人間の姿―おそらく作者自身の像でもあることが感じられてくるはず。そうして、じっと見つめたものの中からおのずと湧き上がってきた生命感の内在が、この句を単なる比喩を用いた説明文以上のものにしているのでしょう。
あなたもまた、自分がどれだけ他者や時代に支えられ、ツキに恵まれてきたのかということに改めて気が付いていくはず。
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身をよじるような試み
今週のみずがめ座は、合理的・科学的な近代的な学知の領域からは見落とされた日常的実践を評価し、試みていこうとするような星回り。
歴史家のミシェル・ド・セルトーは、社会全体が権力の思惑通りに動かないように出来ている理由として、日常性の細部には監視の編み目のなかにとらわれながらも、その構造の働き方をうまくそらし、ついには反規律の網の目を形成していくような策略と手続きが潜んでいると述べています(『日常的実践のポイエティーク』)。
セルトーはそうした名もなき民衆の知恵や実践を、自分の土俵をもっていて、主体と客体のあいだに明確な境界線を引けるような状況での実践として定義される“戦略”と対置する形で、“戦術”と呼びました。すなわち、どこまでも他人の土俵(アウェイ)において、みずからに固有の領域を持てない弱者が、強者のものを横領し、「なんとかやっていく」狡知こそが、ふつうの人びとの「もののやり方」なのだ、と。
そして、権力とは社会の網の目の全体を管理する独裁者に宿るのでもなければ、それから逃れられる絶対的外部がある訳ではなく、至るところにあり、至るところから生じるものであるからこそ、そうした「戦術」をどれだけ実践していけるかが「なんとかやっていく」上で重要になってくる訳です。あなたもまた、そうした押し付けられた秩序を相手取った、文字通り身をよじるような試みの大切さをしみじみと実感していくことができるはず。
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月並みを崩す
今週のうお座は、いつの間にかみずからの内に宿っていた「月並み」を打ち棄てていくような星回り。
「水仙に狐あそぶや宵月夜」(与謝蕪村)は、日常と硬く対立したところにある詩というのは、どこかで必ず独特のなつかしさを醸し出すものなのだということを思い出させてくれる一句。
冬の日が暮れかかって、宵の月が淡い光を投げかけている。そんな月の光に誘われるように、狐がいっぴき、厳しい寒さをすっかり忘れたように、水仙をあいてに遊び戯れている。冬は花に恵まれない季節ですが、その中にあって水仙の花の存在は格別に尊く、嬉しいもの。淡い花の色合いや、ひっそりとした映え具合といい、いかにも清楚な感じで、どこか地上の宵月のようでもあります。
これが遊びまわる子狐などでなく、静かにたたずむ美しい女性や美男子であれば、いかにもうさんくさく、また通俗的で月並みな印象に堕してしまうところでしたが、画家でもあった作者は掛け合わすべきモチーフの妙をよく心得ていたのでしょう。あなたもまた、ひっそりとあちら側の世界の光を招き入れ、通俗の穢れを払い落していくべし。
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