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「袴田事件」は必然だった? 数多くの冤罪を生んだ静岡県警エース「紅林麻雄」の捜査手法

2022年01月16日 08:41  弁護士ドットコム

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『撃てない警官』など多くの警察小説で知られる作家、安東能明さんの最新作『蚕の王』(中央公論新社)は、戦後の静岡県で起こった冤罪事件をモデルとした小説だ。


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静岡で冤罪というと「袴田事件」(1966年)を思い浮かべるかもしれないが、小説で描かれるのはその10年以上前に起きた「二俣事件」(1950年)という一家4人殺害事件。静岡ではその直前にも「幸浦事件」(1948年)という一家4人殺しが起きている。両事件では、被告人に死刑が言い渡されたものの、のちに逆転無罪が確定した。



戦後の静岡県で多くの冤罪が発生したのはなぜか、安東さんに聞いた。(ライター・山口栄二)



●「元刑事の手記」がきっかけに


【二俣事件は、1950年1月、静岡県二俣町(現・浜松市天竜区)で、一家4人が殺害された事件。まもなく、逮捕され、強盗殺人などで起訴された少年は裁判で無実を主張したが、1、2審とも死刑判決。53年最高裁は、これを破棄。差し戻し審で、静岡地裁が無罪判決、東京高裁は検察の控訴を棄却して、検察が上告しなかったため、少年の無罪が確定した。死刑判決が覆って無罪が確定した日本で初めての事件となった】




――警察を舞台とする小説を多く発表されてきた安東さんが今回は、冤罪事件、とりわけ、ご自身の出身地で起きた「二俣事件」を題材とした作品をお書きになった動機は何でしょうか。



「父が、事件発生の翌日、たまたま事件現場の近くを通りかかったそうです。血なまぐさいにおいがして人だかりができていたので聞いてみると、『一家4人が殺された』というのでびっくりして、しかも、犯人がまだ見つかっていないというので、怖くなって慌てて家に帰って震えていた、といった話をよく聞かされて育ちました。



私は18歳まで二俣町に住んでいました。高校も二俣の高校に通いました。そんなことから、いずれはこの事件のことを文章にまとめる日が来るかもしれないと思っていました。実際に書こうと思ったのは、3、4年前お墓参りの帰りに、事件現場のはす向かいにある文具店に立ち寄ったところ、そこにいた旧友の兄から、二俣事件の捜査に加わった元刑事の手記を見せられたことがきっかけでした。



その元刑事は、拷問によって少年を犯人に仕立て上げようとするリーダー格の刑事のやり方に義憤を感じて、新聞に少年の無実を訴える記事を書いたり 、証人として法廷にも立って無罪を主張したりした勇気ある人物です。



しかし、その元刑事が手記の中である人を真犯人と名指ししている部分に疑問を感じました。この手記は様々なメディアで取り上げられていて、新たな冤罪を生んでいるのではないかと思ったのです」





●優秀な刑事が「昭和の拷問王」へ

——この作品では、拷問を含む強引な捜査で知られ「昭和の拷問王」とも呼ばれた紅林麻雄氏という実在の刑事をモデルにした刑事が重要な役割を果たしています。このような刑事が生まれた背景にはどのような事情があったのでしょうか。



「もともと優秀な刑事ではあったのですが、1941年から42年にかけて浜松地方で9人が殺され6人が重傷を負った『浜松事件』という連続殺傷事件を契機に変わってしまいました。



この刑事は、犯人が自分の家族を殺傷した第3の事件の現場に行って、家にいた犯人自身からも事情を聴いていながら、初歩的な確認を怠ったため犯人を見逃し、その後に起きる第4の犯行を防げなかったというミスを犯したのですが、なぜか事件解決に殊勲をあげたとして検事総長捜査功労賞を受賞します。



その後、彼は『浜松事件は自分が解決した』と手柄を誇張するようになり、殺人事件捜査の権威になってしまいます。警察の上層部も、彼を重用し、県内で殺人事件があれば指揮者として呼ばれ捜査を指揮するという絶対的な存在になりました。誰も彼の言うことに反対できなくなってしまいます」



●追従する裁判官、ひっくり返した弁護人

――拷問が疑われるような強引な取り調べによって得られた自白調書を易々と証拠採用して、有罪判決を導く裁判官も描かれていますが、戦後に刑事司法制度が変わったにもかかわらずこのような裁判官が存在したのは、なぜでしょうか。



「裁判では、被告が公判で『私は拷問をされた』と叫びましたから、裁判官も拷問があったことは、わかっていたと思います。それでも、たとえ拷問を受けたとしても『やりました』と言っている以上、犯人に違いない、と考えたようですね」





――上告審から弁護団に加わって、死刑判決破棄、無罪判決を勝ち取る中心となった清瀬一郎弁護士の弁護活動やその人となりも詳しく描いていますが、清瀬弁護士のどんな部分に魅力を感じられましたか。



「何よりも正義感と博愛主義。政治家としては、文部大臣や衆議院議長などを務め、弁護士としては、二俣事件のように、史上初めて死刑判決を受けた被告人に無罪判決を勝ち取るという快挙を成し遂げたり、極東国際軍事裁判(東京裁判)では東条英機元首相の弁護人を務めたりと、多くの業績を残しています。



選挙中もほとんど選挙運動をしないにもかかわらず、衆議院選挙に14回も当選しました。地元で人望があったんでしょうね」



●紅林刑事の退職後も起きた冤罪事件

――後書きで「静岡という狭いエリアでどうして冤罪が続いたのか、という素朴な疑問を自分なりに解いてみたい」と書いておられます。確かに幸浦事件から始まって、二俣事件、その後も小島事件、島田事件、袴田事件と紅林刑事の在職中だけでなく退職した後も重大な冤罪事件が続いています。何が原因でしょうか。



「紅林氏の薫陶を受けた刑事が残っていて、冤罪を生み出すシステムが代々受け継がれていたことが大きいでしょうね。紅林氏の下で捜査をしていた刑事が生き残っていて、袴田事件の捜査もやっているわけですからね。



実際、その後の警察内部向け雑誌に、現役の捜査幹部が『新刑訴法実施以来、我々の行う捜査はややもすると、推理捜査をおろそかにし、現場鑑識によって得る有形証拠に頼る弊が生じているのではなかろうか』などと、見込み捜査の重要性を訴える文章を書いたりしているのです。



袴田事件でも、犯行時の着衣とされるものが、発生から1年以上後になって、みそタンクの中から見つかったというのは明らかに怪しいですよね。推理が大事で、物的証拠は後からなんとでもできるという思想が脈々と受け継がれているように思えます」





●取材でたどり着いた「新しい容疑者」

――作品の最後に、二俣事件の捜査に加わった元刑事が、少年の無罪判決確定後も含めて7~8年もの間、真犯人とみて監視を続けていた人物がいたというエピソードが紹介されています。他の元刑事が別の真犯人を名指ししている中で、このエピソードをあえて挿入されたのはどのような思いからでしょうか。



「警察としては、この『真犯人』がまた、何か事件でも起こして逮捕されて『二俣事件も俺がやった』などと言い出すのではないかということを恐れていたのではないかと思います。そんなことになれば、二俣事件の犯人は少年だと言っていた警察の権威がガタ落ちになってしまいます。無罪判決が確定しても少年が犯人だと思っている人はいましたからね。



それと、この地域の一部の人は、刑事がこの『真犯人』を監視していることを知っていました。当然、本人もわかっているでしょう。それによって、彼に対し『お前を監視しているから、下手なことをするなよ』と威圧する意味もあったと思います。昔の警察は、そのようなこともしていたようです」



(プロフィール)
【安東能明(あんどう・よしあき)】
1956年生まれ。明治大学政経学部卒。浜松市役所勤務の傍ら、94年『死が舞い降りた』で第7回日本推理サスペンス大賞を受賞し創作活動に入る。2000年『鬼子母神』で第1回ホラーサスペンス大賞特別賞、10年『随監』で第63回日本推理作家協会賞・短編部門を受賞。著書に『出署せず』『聖域捜査』など。