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岡田将生ら演技巧者が作る“家族の物語” 純粋な俳優の力量が試される『ガラスの動物園』

2022年01月05日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『ガラスの動物園』(写真提供/東宝演劇部)

 岡田将生が主演を務める舞台『ガラスの動物園』が、シアタークリエにて上演された(福岡、愛知、大阪公演が順次開催)。共演に迎えられたのは、倉科カナ、竪山隼太、麻実れい。劇作家テネシー・ウィリアムズの出世作にして代表作であるこの名作戯曲は、1945年のブロードウェイでの初演以降、世界中の演劇人によって上演され続け、愛され続けてきた作品だ。この4人の演技巧者たちによって、いま新たな『ガラスの動物園』が生まれ、多くの観客を魅了しているところである。


【写真】『ガラスの動物園』舞台カット


 ご存知の方も多いことと思うが、まずあらすじを記しておこう。舞台は1930年代のアメリカ・セントルイスにある、ウィングフィールド一家が暮らすアパートの一室だ。母のアマンダ(麻実れい)は、過去の栄光にすがり、もう大人であるはずの子どもたちの将来について気を揉んでいる。息子のトム(岡田将生)は、あれこれ指図してくる母と、靴会社の倉庫での仕事にうんざりの日々。アマンダとの衝突は日常茶飯事だ。足に障害を抱えるトムの姉・ローラはひどいはにかみ屋であり、ガラス細工の動物たちが唯一の心の拠り所。アマンダの心配は募るばかり。そんなある日、トムは職場の同僚・ジム(竪山隼太)を自宅での夕食の席に招く。母の言いつけで、ローラと彼を引き合わせるためだ。そしてこのジムとは、かつてハイスクール時代にローラが恋心を抱いていた相手だったのだーー。


 テネシー・ウィリアムズの自伝的要素を軸とした物語は、トム視点の語りによって始まり、進行していく“追憶の劇”だ。岡田が演じるトムは主人公であり、狂言回しでもある。故・蜷川幸雄や松尾スズキ、英国のサイモン・ゴドウィン、今夏は『物語なき、この世界。』で三浦大輔とタッグを組むなど、岡田は映像のフィールドに軸足を置きながらも、精力的に舞台に立ち続けてきた。本作の演出を務める上村聡史とは、2019年上演の『ブラッケン・ムーア ~荒地の亡霊~』に続いて2度目のこと。座長として舞台上にその姿を見せた瞬間に観客を劇世界に誘い、狂言回しとして一言発するとさらに引き込まれる。


 “追憶の劇”とあって、トムがウィングフィールド一家のことを振り返るのが本作の構成だが、演劇はナマモノであり、現在進行形で進む。登場人物に向ける言葉と観客に語りかける言葉のベクトルは違うもので、岡田はこれを的確に使い分け、境界の曖昧な“現在と過去”との違いをも観客に明示する。世界中の演劇人によって上演され続けている作品だというのは冒頭で述べたが、こういった“古典”とされる作品こそ、純粋な俳優の力量が試されるというものだ。今回の公演では舞台装置に壮大な仕掛けがあるわけではないし、照明や音響による派手な演出や、ましてや歌やダンス(物語上、踊る瞬間がないわけではない)があるわけでもない。詩的な美しいセリフを観客に届けるための、「本当の演技力」が必要とされるのだ。2021年、あらゆるフィールドで“演技者”として高い評価を受けた岡田が1年の有終の美を飾るのに、まさに相応しい作品である。


 もちろん、座長である岡田の気概に呼応する俳優たちがいてこその『ガラスの動物園』だ。麻実れいはさすがの安定感で、母・アマンダの不安定さを演じ上げている。ヒステリックに声を張り上げて私たち観客をドキリとさせたかと思えば、たちまち笑いを引き出してもみせる。まだ“若手”の部類に入るほか3者との掛け合いから生まれる化学反応も毎公演あるのだろう。


 元々テネシー・ウィリアムズ作品のファンで、「テネシーの作品がやりたい」と言っていたところにローラ役がの話が巡ってきたという倉科カナは、ローラという役に対する思い入れの強さを感じた。引っ込み思案なローラをもっともよく表現する声の震えには、舞台上にその姿がありながら、肉体もろとも消え入ってしまいそうなリアリティがあった。倉科の高い技術の証でもあるのだろうが、やはりローラに歩み寄る彼女の役への理解力(共感力)の賜物なのではないかと思う。


 竪山隼太が演じるジムが登場するのは、休憩を挟んだ後の第2幕から。それまでの第1幕でウィングフィールド一家の3者のグルーブ感なるものに慣れていたからか、彼の存在は非常に異質なものに感じる。発声も身のこなし方も、ややオーバー。しかしこれこそが、後に劇全体に効いてくる。本作はある家族のささやかな幸福のひとときと、やがて訪れる崩壊を描いたもの。ジムの存在は一家にとって、圧倒的に外部にある。彼の存在の異質な優雅さは、この一家を幸福にも不幸にもすることができるものであり、竪山の演技はすべて狙い通りなのだろうと思った。


 さて、「家族」について創作された物語は古今東西に存在し、新たに登場するものほど、特別な仕掛けが求められるように思う。しかしこのウィングフィールド家は、ある種どこにでもあるような一家であり、そして、どこにでもあるような問題を抱えている。これをより普遍的なものとし、いかに深みを持たせられるかは、俳優たちの力にかかっているのだ。『ガラスの動物園』は、真に優れ、かつ華のあるプレイヤーたちが揃わなければ成立しないものなのだと改めて思い知らされる。この座組により新たに生まれた上質な演劇作品が、年をまたぎ、日本を回ることになる。


(折田侑駿)