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「憲法の色」って知ってる? 学校では習わないトリビア

2022年01月03日 10:01  弁護士ドットコム

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「憲法色」をご存じだろうか。茶色がかった黒色のことで、江戸時代に染物の色として人気を博した。当時は幕府から、贅沢を禁止する「奢侈禁止令」が度々出ており、庶民は地味な色合いの衣装を着つつも、「百鼠四十八茶」(ねずみ黒色が100種、茶色が48種)と呼ばれるほど、微妙な色の変化を楽しんだという。


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もちろん、この「憲法」は日本国憲法の憲法ではない。「憲法染」を普及させた戦国時代の剣術家・吉岡憲法(拳法、剣峰とも)に由来している。



吉岡家は宮本武蔵との決闘で知られる武門で、「憲法」はその歴代当主が世襲した。1614~15年の大阪の役で豊臣方についたため、敗戦後は染物業に転向。大陸出身の門人から教わった黒染め技術で繁盛したとされる。



●「憲法」の意味の変遷

日本は近代化にあたって、西洋の法をモデルにしている。そのため、幕末から明治にかけて多くの訳語がつくられた。しかし、憲法染のように「憲法」という言葉は、古くから日本にある熟語だ。



たとえば、聖徳太子が604年に制定した「十七条憲法」。創作説もあるが、奈良時代に編纂された『日本書紀』に「憲法十七條」の文字があるから、古くから決まりや規範を指す言葉として使われていたのは間違いないようだ。



現在の「国家の基本法」という意味で「憲法」の語を使ったのは、明治期の洋学者・箕作麟祥(みつくり・りんしょう)が初めてとされる。動産や不動産といった訳語もつくったことで知られる人物だ。



この箕作らと共に日本初の法学博士となった穂積陳重『法窓夜話』(1916年、有斐閣)によると、江戸時代にも『憲法部類』や『憲法類集』など「憲法」を冠した法律書があったが、この時代の「憲法」はすべての法令、法令集という意味で使われていたという。



「憲法」という語が定まるまでは、憲法を指す英語「コンスティテューション(constitution)」について、●●国律例、国憲、根本律法など、さまざまな訳語が当てられていた。



中でも「国憲」は有力だったようで、明治天皇が憲法の起草を命じた1876年(明治9年)の詔では「國憲」が使われている。ただ、徐々に「憲法」が浸透。1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が公布された。





穂積によると、明治初期は日本語の用語がなく、法学の授業は外国語の教科書を使い、外国語で勉強するしかなかったという。明治20年(1887年)ごろになって、ようやく日本語で講義ができるようになったそうだ。



ちなみに、国立公文書館は大日本帝国憲法と日本国憲法を所蔵しており、ウェブ上で公開している。撮影の関係もあるかもしれないが、「憲法の色」ということだと、日本国憲法の紙色のほうが黄色がかっているようにみえる。





【参考文献】
吉岡幸雄「吉岡憲法黒について」(『食べ物文化』2007年4月号)