トップへ

宮沢りえ、磯村勇斗らが舞台上に生み出す凄まじい熱 『泥人魚』は公演ごとに生き直す

2021年12月26日 08:11  リアルサウンド

リアルサウンド

『泥人魚』宮沢りえと磯村勇斗(撮影:細野晋司)

 宮沢りえが主演を務める舞台『泥人魚』が、Bunkamura シアターコクーンにて上演中である。本作は、アンダーグラウンド演劇の第一人者のひとりである唐十郎が2003年に発表した戯曲を、劇団・新宿梁山泊主宰の金守珍が演出し、初演以来18年ぶりの上演となったもの。共演に磯村勇斗、愛希れいか、風間杜夫らを迎え、舞台上に立ち上がるファンタジックな世界観の中に私たちの生きる現実をも垣間見せる、そんな作品に仕上がっている。


【写真】舞台上の磯村勇斗


 この『泥人魚』は、2003年に唐の率いる劇団唐組により初演され、「第五十五回読売文学賞 戯曲・シナリオ賞」、「第三十八回紀伊國屋演劇賞(個人賞)」、「第七回鶴屋南北戯曲賞」、「第十一回読売演劇大賞 優秀演出家賞」を受賞した、土俗的かつ詩情あふれる演劇作品だ。長崎県諫早市にある通称・ギロチン堤防をモチーフにしたもので、ときに物語が荒唐無稽な飛躍をしたかと思えば、不意に私たちの現実社会に強引に接続する瞬間があるため、たびたびハッとさせられる。


 簡単にあらすじを記しておくと、次のようなものである。都会の片隅にあるブリキ店で暮らす蛍一(磯村勇斗)は、かつては長崎の諫早漁港で働いていた青年だ。しかし、干拓事業のため、諫早湾の内海と外海とを分断する「ギロチン堤防」によってすべては変わった。内側の調整池の水は腐って不漁が続き、池の埋め立てに反対だった漁師仲間は次々と土建屋に鞍替え。この現実に蛍一は絶望し、港の町を去ったのだ。現在はまだらボケの詩人であるブリキ店の店主・静雄(風間杜夫)と日々を過ごしている。そんなある日、少女時代に海で漁師に助けられ、その養女となった、やすみ(宮沢りえ)という「ヒトか魚か分からぬコ」と呼ばれる女が蛍一のもとへとやってくるーー。


 奇想天外、複雑怪奇、奇妙奇天烈……これでも物語の導入部を端的に書いたつもりだが、非常に複雑な作品であることがお分かりいただけるのではないかと思う。夜になると詩人と化すブリキ屋の男や、人魚と思しき女性などの不可思議な存在がありながら、“諫早湾干拓事業”が引き起こした現実の問題が、物語の中心には屹立している。およそ「整合性」というものとは縁遠い物語だ。しかしこれが、俳優たちの身体を借りて喧騒を巻き起こし、舞台上に凄まじい熱の渦を生み出しているのである。


 主演の宮沢りえが唐作品に参加するのはこれが4作目。さすが今回も作品の看板を背負っているだけあって、メインキャストの中でも声と身体とがもっとも“唐ワールド”に馴染んでいるように感じた。ヒロイン・やすみを演じる彼女は開幕直後から、可憐で力強い姿でたちまち私たちを虜にする。その声は劇場の隅々にまで染み入るようで、躍動する肉体はまるで観客の眼前にあるように感じられるのだ。現在放送中のドラマ『真犯人フラグ』(日本テレビ系)にも最重要人物として出演している宮沢だが、改めて各作品、各メディアに適した芝居に徹することができる俳優なのだとこの両作に触れてみて実感する。どちらもリアリズムとは無縁の演技であり、ドラマでは良妻賢母な女性像をオーバーアクトで「具体的」に表現しているが、本作で彼女が体現するのは、“ギロチン堤防によって分断されたさまざまな哀しみ”という「抽象的」なもの。『泥人魚』では作品の主題を背負ってみせている。


 そんな主演の宮沢をリードするのが磯村勇斗だ。彼が演じる蛍一は、作品のナビゲーターともいえるもの。唐作品初参加ながら責任重大な役どころだが、さすがは猛烈なスピードで進化をし続ける磯村のことである。冒頭から歌声を披露し、声と身体の緩急自在な表現力によって、観客を作品世界に誘うことに成功していると思う。演劇界の先輩たちに囲まれたこの座組での磯村は年少組。しかし休憩込みの130分間、彼は作品の中心に立ち続けている。キーマンを演じる岡田義徳や六平直政、てっきり作品全体を締める存在なのかと思いきや、次々とサプライズで魅せる風間杜夫、初のストレートプレイとはいえ舞台に関しては踏んできた場数が違う愛希れいか、そして宮沢りえという演劇界の至宝をリードしなければならないポジションを担うことは、彼の今後に影響してくるに違いない。演劇はナマモノとあって、磯村勇斗の現在形が、この舞台には常に見られるのだ。


 パンフレットに掲載されているインタビューを読んでみると、俳優たちの誰もがこの物語に魅了されながら、(少なくとも稽古段階では)完全に理解できないでいることが分かる。主演の宮沢は本作の印象について「唐さんの世界に登場する人たちに触れていると、心の温度があったかいままでいられます。ただ、辻褄という点ではぶっ飛ばされているので(笑)、個人で埋めてみたものを、みんなでミックスさせていくという作業が必要になる」と答えており、唐作品初挑戦の磯村は「芝居の感覚や表現方法が今まで自分が知っていたものとは全く違う世界だったので、自分に馴染ませるまでに少し時間がかかりました」と語り、本作に取り組むにあたって戸惑っていたことがうかがえる。演劇界の重鎮であり、百戦錬磨の風間をして「今回の台本は稽古が始まるずいぶん前にもらっていたんですけど、ワケがわからないから途中で放り投げていました」と言わしめている。劇中で飛び交う話題は、ときに異常なほど飛躍し、登場人物の感情が一貫しているわけでもない。つまり本作は素直に、“難解な作品”だといえる。しかしアングラ演劇の魅力は、その難解さを超えたところにあるだろう。難解さと荒唐無稽さは紙一重であり、いかようにも解釈できる。


 筆者が観劇したのは開幕初日のこと。いくら稽古を重ねてきたとはいえ、ステージ上に立つ俳優たちに一切の不安がなかったということはないのではないかと思う。しかし、ぎっしり埋まった観客席を前に身体を動かし、言葉を放つことは、ようやく“手応え”を得られることになったはず。観客がいてこそ演劇は生まれ、劇場という場は生命を得る。そこで初めて、『泥人魚』の登場人物たちは肉体を持ち、声を持つことになっただろう。それを何より実感したのは、当事者である俳優たちだ。本作は作品そのものが生き物として、公演ごとに生まれ変わり、そして生き直していくものだと思う。


(折田侑駿)