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『鬼滅の刃』我妻善逸はなぜ“桃”を投げつけられた? 「鬼」と「桃」の関係性から考察

2021年12月19日 12:21  リアルサウンド

リアルサウンド

『鬼滅の刃(3)』

※本稿には、『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴)の内容について触れている箇所がございます。同作を未読の方はご注意ください。(筆者)


 いささか唐突ではあるが、『鬼滅の刃』と“桃”の話をしたい。より具体的に言えば、なぜ、我妻善逸の修行の場には、桃の林があったのか――について考えてみたい。


 吾峠呼世晴の『鬼滅の刃』は、宿敵・鬼舞辻無惨によって鬼にされた妹を人間に戻すため、政府非公認の鬼狩りの組織「鬼殺隊」の剣士となって戦う竈門炭治郎の成長を描いた物語だが、その炭治郎の親友のひとりが、前述の我妻善逸である。


 我妻善逸は、天涯孤独の臆病な少年であったが、ある時、鬼殺隊の元「柱」である桑島慈悟郎に窮地を救われ、「雷の呼吸」の修行を半ば強制的にさせられることになる。結局、彼が習得することができたのは、雷の呼吸の6つある「型」のうちの1つのみであったが、鬼殺隊の入隊試験には合格、同期の炭治郎や嘴平伊之助らとともに、過酷な鬼狩りの任務をこなしていくことで、やがて剣士として、人間として、大きく成長していく。


 ちなみに『鬼滅の刃』の物語が進行していく過程で、この善逸の修行時代の回想が時おり挿入されるのだが、屋外の場面で決まって描かれているのが、くだんの“桃”なのである。たとえば、第33話の扉絵には、桃の木の下で桑島に修行をつけられている(叱られている?)善逸の姿が描かれているし、第34話では、苛立ったある兄弟子(後述する)から、善逸は桃の実を投げつけられるのだ。


 果たして、こうした場面で繰り返し描かれている“桃”に意味はあるのか、ないのか。もちろん、「ある」と思っているから、このような原稿を書いているわけだが、「なぜ桃なのか」を説明するには、ひとまず神話や昔話に目を向けていただくのがいいかもしれない。


関連:『鬼滅の刃』の「やわらかクリアチャームBOX」デザイン


■鬼を祓うのは藤の花ではなく桃?


 まず、多くの神話、昔話、伝説などで、「桃が鬼を祓う」という描写が出てくるのをご存じだろうか。その最も有名な例は、桃から生まれた“小さ子”が鬼を退治する『桃太郎』だろうが、その種の話のルーツを辿れば、おそらく『日本書紀』(や『古事記』)に行き着くことだろう。


 たとえば、『日本書紀』神代上 第五段に、次のような記述がある。


“(引用者註・黄泉の国の闇の中で、イザナキノミコトが火を灯してみると)時に伊奘冉尊、張満れ太高へり。上に八色の雷公有り。伊奘諾尊、驚きて走げ還りたまふ。是の時に、雷等皆起ちて追ひ来る。時に、道の辺に大きなる桃の樹有り。故、伊奘諾尊、其の樹の下に隠れて、因りて其の実を採りて、雷に擲げしかば、雷等、皆退走きぬ。此桃を用て鬼を避く縁なり。”


 要するに、黄泉の国で、イザナキノミコトが雷たちに襲われた際、桃の実を投げて退けたことが、「桃を使って鬼を祓う由縁である」と書かれているわけだが、海の向こうの中国でも、桃が悪鬼を祓うという観念が、『山海経』などで書かれている。また、かの地では、古(いにしえ)より桃は仙人が好む不老不死(不老長寿)の食べ物であるとされており、『西遊記』では、孫悟空が桃園の管理を任される場面も描かれている。


 その他、悪鬼(厄災)を祓うための「追儺の儀式」(節分の儀式のルーツとされる)では、桃の木で作った弓が用いられていたという。


 つまり、桃の実や木に鬼を退ける力(魔を祓う呪力)があるという観念は、日本人や中国人にとっては、それほど突飛なものでもなく、むしろ、(昔話や伝説に馴染んでいれば馴染んでいるほど)自然に受け入れやすい考えだと言ってもいいだろう。


 だからこそ、吾峠呼世晴は、鬼を倒すための技を磨く修行の場(さらに言えば、人間の限界を超えようとしている者たちが暮らす“異郷”)の景色に、桃の木を印象的に描き込んだのだと私は思う。むろん、単に、絵的に桃の実の形がおもしろいから描きたかった、ということもあるかもしれない。だが、作品を隅々まで読み込めば、吾峠が様々な資料に取材しているのは明らかであり、となればやはり、善逸の修行の場の描写には、昔話などで伝えられている桃が持つ“破邪の力”が反映されていると考えたほうが自然だろう。


※再度注意。以下、「善逸の兄弟子」についてのネタバレあり。


■桃を投げつけられるのは、本来は獪岳であるべき?


 さて、「鬼と桃」の関係については上記のとおりだが、そのことを踏まえて『鬼滅の刃』を再読した場合、“引っかかる”箇所がないわけでもない。それは、前述の善逸の兄弟子の行為についてである。


 善逸の兄弟子の名は、「獪岳」。桑島のもとを巣立ち、鬼殺隊の剣士になった彼は、(もともと正義と悪の境界線上で揺れ動いている存在だったが)結局、鬼になってしまう。その責任をとって桑島は自決。善逸は、生まれて初めて、鬼殺隊の指令とは別の、師を弔うための“漢(おとこ)の戦い”に挑むことになるのだった……。


 そこで疑問に思うのは、先に書いた、この獪岳が「善逸に桃の実を投げつける」という(回想場面での)行為についてだ。


 繰り返しになるが、桃には鬼を退ける力がある。イザナキノミコトも、雷神を追い払うために桃の実を投げつけた。ならば、本来、桃を投げつけられるべきは、やがて鬼になる運命(さだめ)を持った獪岳の方ではないか。


 しかしまあ、それは、細かい描写の1つ1つにまで象徴的な意味を求めすぎるがゆえの疑問(愚問?)にすぎず、この場面については、単にカッとなった獪岳がそのとき手にしていたモノを投げつけただけ――つまり、象徴的な、あるいは、何かを暗示するような意味は特にない、と考えた方が無難だろう(強いて言えば、この時点では、獪岳はまだ「桃を恐れない」=「人間である」ということを作者は表現したのかもしれない)。


 以上、『鬼滅の刃』で描かれている“桃”について自分なりに考えてみたが、作中で「鬼が嫌う毒」として設定されている「藤の花」については、以前の記事(『鬼滅の刃』藤の花と青い彼岸花  ふたつの花が意味するものとは?=リアルサウンドブック掲載)で書いたので、興味がある方はぜひ読まれたい。


【参考文献】
『日本書紀』(一)坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋〈校注〉(岩波文庫)
『鬼むかし 昔話の世界』五来重(角川ソフィア文庫)