2021年12月08日 10:01 弁護士ドットコム
四国の遍路で生活する人たちは、どのような事情を抱えながら、生きているのか。
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彼らを密着取材したノンフィクション作家・上原善広氏が四国遍路に興味をもつきっかけとなったのは「幸月事件」と呼ばれる事件だった。
たびたびメディアで取り上げられていた「幸月」と呼ばれる有名な「お遍路さん」は、実は殺人未遂容疑で大阪府警に指名手配されていた容疑者だった。
「幸月」は、1991年に大阪市西成区の路上で、仕事の同僚とけんかになり、包丁で胸などを刺して重傷を負わせたとして、12年間逃げ続けた。2003年7月に逮捕されたきっかけは、「お遍路さん」としてのテレビ出演だった。もう80歳になっていた。
以下、上原氏の新著「四国辺土 幻の草遍路と路地巡礼」(KADOKAWA)から、一部を抜粋してお届けする(小見出し、注釈は編集部が修正・追記)。
6年間も遍路を回りつづけていた幸月は「伝説の草遍路」と評判になり、NHKのドキュメンタリーで取り上げられるほどになっていく。
しかし、この「幸月伝説」は6年で呆気なく終わることになる。
2003年7月、高知で幸月を世話していた横矢年夫の元に、刑事が訪ねてきた。テレビ番組を偶然見ていた千葉県警から連絡を受けた大阪西成署の刑事が、幸月を追って高知まで聞き込みにやってきたのだ。
「最初に事件を知ったのは、その大阪からきた刑事さんから聞いたんだと思う。初めはびっくりしたけど、遍路はもともと何かわけがあって回っているから、そういうこともあるだろうとは思ってました」
幸月が逮捕されたのは、新居浜の将棋会館だった。
鵜川(編集部注:将棋会館を主宰する人物)たちと石鎚山へ参拝登山して、帰ってきた翌日のことだった。事件は新聞だけでなく、週刊誌の記事にもなって大きく報じられた。
・「指名手配犯がNHKにお遍路で出演、捕まった不覚」(週刊朝日、2003年)
・「NHK出演で逮捕されたマヌケ男の『お遍路美談』は大ウソ」(週刊新潮、2003年)
・「テレビ出演で逮捕 80歳お遍路さん 逮捕までの八十八札所巡り 白髪束に白いひげ、風格漂う『幸月』さんは91年、仕事仲間を刺した殺人未遂犯だった!」(女性セブン、2003年)
幸月逮捕のとき、鵜川はちょうど畑に出ていた。
警察から電話で「田中幸次郎を連れていきます」と聞いただけで、幸月はそのまま大阪へ移送されてしまう。「田中幸次郎」は幸月の本名だった。
遍路関係者の間で伝説的な存在になっていた幸月逮捕の知らせは、衝撃をもって関係者の間で広まった。これまで幸月を応援し、接待してきた人の中には「裏切られた」と憤る者もいた。
鵜川も逮捕の一報を聞いて驚いたものの、幸月に裏切られたとも、ましてや非難しようなどとも思わなかった。
「だって生活遍路というのは、昔から何か陰のある人が多かったでしょう。なぜ遍路を始めたのかと、こちらから訊くこともないし、訊いても本当のところは答えないというか、答えられない人が多い。もともと遍路している人に『なぜ』と訊くのはタブーだとされているくらいじゃからね。生活遍路に限らず、遍路に出る人はみな何かあるから遍路をする。何もない人は遍路になんか出ない。ましてや生活遍路は、やっぱりいろいろあったから遍路しながら野宿生活することになったわけでしょう。だから幸月さんが犯罪者だと聞いたときは、まあちょっとは驚きましたけど、そういうこともあるだろうなと思っただけでした」
鵜川は、遍路関係者からさまざまな非難を受ける。
「幸月さんはお遍路さんの中では目立っていたから、それを快く思っていない人もいたでしょう。200回以上遍路をまわったという高齢の先達さんから、うちに電話がきて『幸月みたいな詐欺師をかばうなんて何事だ。呪いをかけてやる』と脅されたこともありました。幸月さんは一部で神格化されていたから、事件が発覚して裏切られたと思った人たちは、一気に批判するようになってしまった。しかし、ぼくもべつに犯罪者と知って世話をしていたわけではないし、知ったからといって、幸月さんを非難しようとは思わなかっただけなんよ」
鵜川と幸月の付き合いは、ここからさらに活発になっていく。
逮捕された幸月と接見するため、鵜川は大阪に幾度となく通うことになる。さらに四国中で幸月を世話していた人たちに連絡をとり、1300人ほどの署名を集めて減刑の嘆願書を作り、裁判所に提出もしている。
「被害者のSさんにも慰謝料、見舞金として寄付金を100万ほど集めて渡しましたが、見舞金は受け取ってくれました。Sさんは事件後も西成に住み続け、高齢になって生活保護を受けて暮らしていたようです。それから『事件を許すことはできないが、罪は軽くしてあげてください』と言ってくれたんです」
鵜川はなぜそこまでして、ただ路上で出会っただけの幸月を世話したのだろうか。そう訊ねると、鵜川は「うーん……」と苦笑いしながら言った。
「ぼくは、自分はかろうじて罪にならない隙間を歩んできただけであって、ただ運が良かっただけかもしれないと思うことがあるんよ。人間はみんな、暗い部分をもっていると思うんよね。もしかしたら幸月さんは、一歩違ったぼくそのものではないか、だから力を貸さなければと思うのかもしれない。そもそも、接待するのは気持ちいいものですよ。一度やってみたらいい」
後日、私も鵜川の勧めに従って、大雨のなか歩いていた遍路に余っていた小銭300円を接待したのだが、たったそれだけでも、どこか清々とした気分になれたので驚いた。遍路というのは当人だけでなく、接待する者にも何かをもたらすものなのだ。鵜川の言葉の一端が理解できたような気がした。
歩き遍路は以前に一度、それ以外は自宅近くの寺で時々座禅を組むが、鵜川にはとくに熱心な信仰があるわけでもない。
「基本的には、ただ困っている人がいたので助けたというだけのことなんよ。遍路というのが何かというと、ぼくは『縁』だと思うんです。幸月さんと知り合ったのも、彼が遍路していたから。ぼくが遍路道沿いの家で生活していただけで、前からの知り合いではない。あなたがぼくを訪ねてこられたのも、幸月さんの縁でしょう。だから遍路というのは詰まるところ、人と人との『縁』であり、それを大事にしたいと思っているだけなんよ」
鵜川はそれ以上、あまり語らない。高知の横矢にも同じように訊ねたが「私はお大師さんが好きだから」と答えるのみであった。
なぜと訊かれても、うまく言葉にはできないことなのかもしれなかったし、逆に多くの思いがあるため、簡単に話せないようでもあった。
こうした接待という歴史的文化には、四国遍路の特異性も関係している。
お伊勢参りや西国巡礼などの巡礼地では、巡礼者が金を落とすことで街道や参道にある商店や宿が栄えるのだが、四国遍路は逆に地元住民が遍路に施しをするため、巡礼者によって遍路道が栄えたりはしない。近世では飢饉が起こると全国的に巡礼者が減るのだが、四国遍路だけは増えていたことがわかっている。
現在ではバスやタクシーでの遍路や、いくつかの遍路ブームから一般の遍路が増えたため、四国遍路でも寺の納経ビジネスや遍路宿などが盛んになったが、それはここ数十年ほどの変化であった。
もともと四国遍路というのは、故郷を追われた困窮者が最後に頼る、一種のセーフティ・ネットのようなものであった。今もその伝統は細々ながら続いている。これが四国遍路が他の巡礼地と違う特異な点であり、四国遍路の本質もそこにあるといえる。だから私は、草遍路の幸月に「遍路の本質」を感じとったのだと思う。
草遍路が、信仰を守りながら寺を巡るのは、自身唯一の生活規範であり、それゆえ地元住民も畏れ敬う。
ハンセン病や身体障害などで、若いうちから故郷を追われて遍路になった者の中には、歪んでしまって不良遍路になる者もいたが、そうした者も住民や僧侶の信仰によって立ち直ることも稀にはあったし、延々と寺巡りをするのに絶望して極道になる者、またはそのまま道端に斃れる者もいた。そうした意味では遍路は一種ゆるやかな自殺行為という側面もあったが、少なくともどのような道を選ぶかは遍路自身にゆだねられていた。
そうした歴史と文化をもつ四国という土地に、個々の地元住民の想いが重なることで「接待」の伝統が脈々と続いてきたといえる。
鵜川が大手企業に勤めながら、実際には定年の数ヵ月前に退職した事実も、私との初めての出会いから2年後くらいにようやくポツリと話すだけであった。鵜川もまた、何らかの暗闇を抱えているのだろう。「遍路する人は、何かを背負っている」と言われるが、遍路を手厚く接待する人もまた、何かを背負っているのだといえる。
四国遍路の世界が広くて深いのは、遍路はもちろん接待する側にもさまざまな思いがあるからだ。
だが、それすらも四国遍路のただの一面に過ぎない。