2021年12月06日 10:11 弁護士ドットコム
日本の賃金は世界各国と比較して増えていない。バブルが崩壊してからの30年間、ほぼ横ばいのままだ。
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賃金が増えない理由については、経済が低成長になってしまったことや、リスクをとりたがらない企業が内部留保を溜め込んでいることなど、様々に指摘されているが、その一つとして、「個人が賃上げの声をあげなかったこと」がある。
従来、賃上げ交渉は、労働組合がその役割を担ってきたが、組織率の低下もあり、目立たなくなっている。賃上げを実現するには何が重要なのか、中村天江・連合総研主幹研究員に聞いた。(新志有裕)
ーーなぜ賃金が上がらなくなったのでしょうか。
働く人たちが、賃上げを求めて「発言」しないことが深刻な問題だと思っています。
個人が会社に対して、賃上げを要望したかどうかを国際比較(日本、アメリカ、フランス、デンマーク、中国)した調査があるのですが、「求めなかった」(もしくは「わからない」)という人が、他国は3割以下なのですが、日本だけは7割にものぼります。
参考記事「なぜ海外では7割が賃金交渉をしているのに、日本は3割に留まるのか? 」
賃金が「個人と会社の個別交渉」によって決まると考える人も、アメリカ60%、フランス63%、デンマーク56%、中国65%に対して、日本は20%しかありません。
一方、賃金の決定要因が「わからない」と答えた人は、アメリカは14%、フランスは13%、デンマークは18%、中国は1%ですが、日本は33%もいます。
まとめると、日本は、賃金決定の仕組みが不透明で、個人が声をあげないお国柄といえます。
この原因の一つは、「賃金についての情報がない」ことです。例えば、窓際部長が大した仕事をしていないのに年収1500万円もらっているにもかかわらず、毎日一生懸命働いている一般社員である自分が年収400万円だとわかった時には、相対的に賃金が安過ぎることを認識して、正当な賃金を得るため何らかのアクションを起こすでしょう。
しかし、今の日本では、雇用の流動性が乏しく、労働市場が企業内に閉じているので、賃金の相場情報が海外ほど流通していないのです。賃金決定のメカニズムがブラックボックスになっていることに大きな問題があります。
さらに、職場の同調圧力が強くて、「私の給与をもっと増やしてほしい」という発言自体が、「空気が読めない」「面倒臭い」とみなされがちであること、そして、企業の経営者も管理職、たいていの社員も、「給与上がらなくても大丈夫」と思い込んでいる「認知バイアス」の問題もあります。
ーー賃上げを求めてもダメなら、その会社をやめて給与アップを目指せばいいのではないでしょうか。
転職によって給与が増えればいいのですが、日本の場合、そもそも転職の際に賃金をあげて欲しいという交渉をしない人が多いですし、したところで上がりにくいのです。興味深いのは、人材エージェントを通して転職すると、賃金が上がりやすいことがわかっています。
賃金の相場感をもっている人材エージェントが入って、「この人はこういう経験があって、こういう評価を他社でされているから、このくらいの金額の給与でどうですか」と交渉すると、賃金が上がるきっかけになります。それほど、個人が声をあげにくいということです。
ーー本来、賃上げというと、労働組合がベースアップ(ベア)を要求しているはずですが、あまり機能しなくなっているのでしょうか。
日本ではこれまで、雇用システムの基盤である「企業別労働組合」が、給与のベースアップをもとめ、勝ち取った成果を分配することで賃上げを実現してきました。
しかし、集団的労使交渉が機能していると、一個人が労使関係に直接向き合わないでも済むという面もあります。とくに終身雇用のもとでは、新卒一括採用で入って、会社が決めた人事コースに乗っていけば、定年までいけるので、組合任せ、つまり人任せ、でもよかったのです。
しかし、経営を取り巻く環境が変わり、ダイバーシティが進む中で、社員全員の給与を一律であげようという方向にはなりづらく、労働条件が決まる集団の単位が小さく、ときには個人によって異なるようになりつつあります。
もはや労使コミュニケーションは、集団だけでなく、個人でも行われると再定義する必要があります。近年、導入が相次いでいる「1on1」(上司と部下の一対一の面談)の浸透は、その象徴に思います。
ーーつまり、昔は経済が成長していたため、個人が労使関係に向き合わなくても、多かれ少なかれ分配があったのに、今はその部分が少なくなってしまったということなのでしょうか。
そうです。会社が成長していれば、それに連動して給与が増えるというのが、高度経済成長期に形成された賃金分配メカニズムだったんです。
経済成長の時につくられた仕組みを、みんながあまりに盲信していて、それ以外のオプションがない前提で議論されていることがおかしいのです。
研究者の間でも、雇用が流動化する中で、労使関係の個別化をどう考えるのかという視点はまだ乏しく、労使関係の議論が本質的に発展していないように感じています。
ーー行き詰まっている状況を打開するきっかけはあるのでしょうか。
私は「ジョブ型雇用」(編集部注:職務内容を特定して、必要な人員を採用・配置する仕組み。職務内容を限定せずに新卒を採用し、企業主導で人事異動を行う「メンバーシップ型雇用」と対比される)は、ポテンシャルを大いに秘めていると考えています。
数年前、DeNAがAI人材にだけ新卒初任給を600万円~1000万円を出す制度を入れたことが話題になりました。その後ソニー、NEC、NTTグループなど、様々な日本企業が高度専門人材に関して、年収1000万円などの特別待遇を打ち出しました。これは、ジョブ型雇用の局所的な導入です。
市場評価を反映して通常よりも高い給与で人を採用することは、個人にとってもメリットがありますし、国際的に価格が低下してしまった「安い日本」のなかで、価格を押し上げるものでもあります。企業も、通常より高い給与を提示することで、人材獲得力が高まることがわかっています。
ーージョブ型雇用は大企業の話に見えるのですが、中小企業にも波及するのでしょうか。
例えば、役職を上げて転職者を受け入れるといったやり方であれば、給与制度そのものはいじらなくても、中小企業でもやれます。
今後考えるべきは、中高年リストラのように、人材を辞め「させる」方向の議論ではなくて、個人が辞め「られる」環境をどう作るかということです。それはつまり、キャリアの上方移動ができるようにすることです。
給与が上がる、役職が上がる転職(中途採用)をいかに実現できるかですね。
ーーそのような状況で、会社にやめずに、賃上げを求めていくということも可能になるのでしょうか。
辞め「られる」環境が整備され、人材が流動化することによって、会社の経営層や管理職の考え方も変わっていくでしょう。
同じ会社でずっと働いている人だけでなく、異なる経験や価値観をもつ人が増えれば、おのずと様々な意見がでるようになります。経営層や管理職にも転職者が増えれば、異なる価値観に対する許容度もあがっていきます。
ーーその中で、労働組合の果たす役割はどう変わっていくのでしょうか。
労働組合はこれまで、雇用維持や賃上げ、職場環境を良くすることに力をいれてきました。個人が安心して暮らしていくために雇用や賃金は極めて重要ですが、技術やグローバル化の進展により、それらを引き上げることが難しい場面も出てきています。
厳しい環境変化を乗り越え、個人が長く働き続けるためには、新たなスキルを身につけたり、副業やボランティアといった「越境学習」により経験の幅を広げたりする必要があります。
ですので、労働組合も「今の安心」だけでなく、「未来のキャリア」のための支援にも力を入れていくべきです。例えば、三井物産労働組合(Mitsui People Union)は、組合がキャリア相談にのるなど、キャリア支援に力を入れています。
参考記事「『賃金のベースアップからキャリア支援』へ。三井物産労働組合のデータ改革」
また、環境変化を乗り越え、ジョブ型雇用のもとでキャリアを築くには、キャリア自律も求められます。
「労働組合という大きな集団が個人を守る」というのは、個人は弱いということを前提にしています。しかし、キャリア形成は、本人の意志や努力がなければ実現しません。
今後は、組合員ひとりひとりが主体的にキャリア形成を考えられるよう、労働組合が賃金やキャリアに関する相場情報を提供したり、ふりかえる場をつくったりすることも期待されます。
労働組合が、集団の力を追求するだけでなく、組合員ひとりひとりを応援していることが伝わると、労働組合への共感が広がり、集団的労使関係の重要性も、あらためて認識されると考えています。
(中村氏の発言は所属する組織ではなく、個人としての見解です)