トップへ

肩書や属性を越えて人と向き合えるか? 高野ひと深『ジーンブライド』が放つ刃の鋭さ

2021年11月28日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『ジーンブライド(1)』

 『私の少年』で美しき少年と30代OLの交流を描いた高野ひと深が、最新作ではどんな美しい情景を見せてくれるのかと待ちわびていた読者にとって、『ジーンブライド』(祥伝社)から放たれる刃の鋭さは想像以上だっただろう。


関連:『違国日記』ヤマシタトモコが語る、“口うるさいマンガ”を描く理由 「人のあり方は多様でいいと気づくのはすごく難しくて苦しい」


■純粋におもしろいものを


 第1話は、主人公の諫早依知が映画監督を取材する場面から始まる。真剣に映画について問うているのに、「そんなに褒められると男はみんな勘違いしちゃうよ? 君も気をつけないとさあ」と返す監督に、「はァ~~~~うんこたれがよ」と依知が内心でつぶやく大ゴマは、激しい怒りとともに描かれるわけではなく、むしろ依知は諦めきっている様子なのだが、そこによりいっそう著者の強い憤りを感じた。


 ランニングの通り道で、見せつけるように自慰行為をしている男が、ルートを変えても現れること。仕事ぶりよりも先に、服装をジャッジされてしまうこと。打ち合わせで、初体験の年齢を聞かれること。そのどれも、いちいち本気で怒っていたら、身がもたない。恐怖を押し殺し、やさぐれながらも、日々をやり過ごすしかない。そんな理不尽に対する著者の、心の底からの抗議がその一コマには詰まっているような気がした。


 やるせなかったのは、依知と同じ指摘と質問を、とある男性がした際に、映画監督が「そこまでわかってくれるなんて!」とよそゆきモードを崩して破顔した場面だ。同じように監督の作品を愛し、すみずみまで観て、つぶさに分析し、敬意をもってぶつけたはずの依知の言葉は、監督には届いていなかった。よく、「何を言うかではなく、誰が言うかが大事なんだ」なんて格言めいたセリフを聞くけれど、若くて美しい女というだけで言葉が損なわれてしまうのだとしたら、それは絶望以外の何物でもない。ヤマシタトモコは『違国日記』で、医学部入試の女性差別問題を知った女子高生の絶望を描いたけれど、男も女も関係なく、ただ自分にできる精いっぱいで努力していることが、勝手に底上げされたり値引きされたりしてしまう現実に、ただただ疲れ果てている依知の姿が、自分の経験だけでなく、知っている誰かに重なって苦しくなった読者は、多いのではないだろうか。


 そんな依知の前に現れるのが、かつての同級生・正木蒔人。「きみの運命の相手だった男だ」といきなり押し掛けてきた彼は、はっきり言って、うさんくさいし、あぶなげだ。監督にくだんの質問をぶつけ、自分とはちがって正当に評価されたのが蒔人だということもあり、依知は彼に対してかなりぞんざいな態度をとり続ける。けれど、イレギュラーな状態に陥るとパニックを起こしてしまう彼の生きづらさと、男女のバイアスを一切無視して真正面から依知の言葉を受け止める正直さに触れて、少しずつ交流を深めていく。


 ……のだけれど、そのまま現実における戦いの物語が進んでいくと思いきや、まさかのSF展開がぶちこまれ、「どういうこと!?」と心をわしづかみにされたまま、1巻は終わりを迎える。いやほんと、どういうこと!?


 言われてみれば、依知と蒔人の通っていた学園が、遺伝子管理をされた子どもたちが集められている様子だったり、そのなかで「運命の相手」を(おそらく)見つける「ジーンブライド」というイベントあるいは制度があったり、そこかしこにSFの種は蒔かれていたのであった。さらに、どうやら依知は学園を退学したらしいこと、それには行方のしれないかつての親友が絡んでいるらしいこと、と、物語が大きく膨らんでいく仕掛けも潜んでいる。テーマ性を前面に押し出しながらも物語として純粋におもしろいものを描くぞという覚悟も、感じられる。


 高野が本作を描こうと思ったきっかけのひとつが、『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』というエッセイを読んだこと。著者はチママンダ・ンゴズィ・アディーチェというナイジェリア南部出身の女性。作中には、こんな文章がある。


“もっと対等な世界を。自分自身に誠実であることで、より幸せになる男性たちとより幸せになる女性たちの世界を。これが私たちの出発点です。私たちの娘を違うやり方で育てなければいけないのです。私たちの息子もまた違うやり方で育てなければいけないのです。”


 これが、高野の決意でもあるように思う。そして、ふりかえれば『私の少年』で描かれていたことも、根っこは同じだったんじゃないのかと。


 出会ったときは30歳だったOLの聡子と、12歳の真修。母親はなく、ややネグレクトぎみに育っていた真修を夜の公園で見かけた聡子が、保護するように声をかけたのがきっかけで出会った二人は、まるで親戚のような距離感で親しくなっていく。ところが、真修の父親の了解なしに育まれていったその関係はやがて問題視され、二人は引き離されてしまう。


 社会倫理の面で考えれば、当然である。聡子は、間違いなく迂闊だった。けれど、幼い真修が救いを求めていて、その手をとることができたのは聡子だけだったことも、事実。中学生になった真修と聡子が再会したあとも、そのジレンマは常に二人の関係にはつきまとった。


 結果、〈聡子のこと女として思ってるんだろ〉と挑発した聡子の同僚に対し、真修の放った〈聡子さんのことは人間だと思ってます〉の一言は、ジレンマに対するひとつの答えだったのではないかと思う。聡子と真修は、常に互いを、人間として見ていた。大人と子供で、女と男。その属性は決して切り離すことはできないし、社会的に考慮されるべき問題だと自覚したうえで、それでも、子どもだから、女だからといって相手の心を侮るようなことは決して、しなかった。それは同性同士でも、同い年同士でも、あんがい難しいことだからこそ、二人は互いを特別な存在として認めていったのではないだろうか。


 『ジーンブライド』で高野が描こうとしていることもまた、根本では同じなのではないかと思う。男性の放送作家との打ち合わせがセクハラ皆無で進行した際、依知は〈話がめちゃくちゃ上手い…好きだ…〉と思う。インタビューした映画監督のことも同じで、作品が大好きだからこそ真剣に話を聞きたかった。男女の属性をむきだしにされず、対等な人間として接していられる限り、依知は彼らのことを憎まず、愛することができるのである。


 そんな彼らとの対比として、蒔人もいる。経験値による依知の警戒心に肩透かしをくらわせるように、まるで「女」として扱ってこない彼の、そのまんまの行動が依知の心をほんの少しほぐしていく。恋でも友情でもないその「同じ社会で生きている」彼との関係は、とても尊いもののように、読んでいて強く感じられた。


 どうすれば人と人とが、肩書や属性を越えて対等に手をとりあい、生きていくことができるのか、高野は今作を通じて『私の少年』以上に深く探っていくのではないかと思う。SF展開がどのように花開いていくのか、依知の傷はどのように克服されていくのか。高野の覚悟を、2巻以降も見届けたい。