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東映70年の歴史を抜きには語れない 『仁義なき戦い』はいかにして生まれたか

2021年10月30日 08:21  リアルサウンド

リアルサウンド

『仁義なき戦い 4Kリマスター版』(c)東映

 東映映画の歴史を語る上で特筆すべき映画は数あれど、『仁義なき戦い』くらい人口に膾炙した作品は類を見ないだろう。「『仁義なき戦い』以前・以後」という区分もあるほどエポック・メイキングな映画はいかにして生まれたか。それを辿るには東映という映画会社の70年の歴史を抜きには語れない。


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■それは東映70年の歴史の中から生まれた


 東映は1951年4月1日、東横映画、太泉映画、東京映画配給の3社が合併して創立された。戦後、GHQの占領政策とそれに沿った日本映画界の自主規制で時代劇映画の製作・配給本数制限がこの年8月に撤廃。戦前から片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太朗らのスターを擁する東映は時代劇の製作を再開、ちゃんばら時代劇に飢えていた観客のニーズと合致してヒット作を世に送る。東映、東宝、松竹、日活、大映、新東宝の大手六社は熾烈な競争を展開するが、後発の東映は1954年、他社に先がけて2本立て興行を開始。これが当たって1956年、東映は配給収入がトップとなり、中村錦之助や東千代之介主演の年少者向け作品もヒットして時代劇ブームを呼んだ。「時代劇の王国」のフレーズの下、東映の興行体制はここに盤石のものとなったのだった。


 東映には京都の太秦と東京の大泉の東西ふたつの撮影所があり、両輪となって量産体制を送っていたが、興行の中心となったのは時代劇専門の京都撮影所である。スターがそろい予算も潤沢、2本立てのメインとなる華やかなカラー映画の京都作品に対して、東京のつくるのは併映の添え物の現代劇、それも低予算のモノクロ映画で出演者もスター未満の若手中心。こうしたなか、京都とはまったくちがったリアリズムの刑事ドラマ『警視庁物語』シリーズ(1956~1964年、全24作)が興行的に手堅く作品も評価されており、犯罪映画、アクション映画、サスペンス映画の土壌が徐々につくられていった。1953年東映に入社した深作欣二が東京撮影所の助監督として現場で汗を流していたのはこうした時代である。


■時代劇からギャング映画、そして任俠映画へ


 約10年間、繁栄を誇った東映時代劇も量産のなかで勧善懲悪のパターンを繰り返して疲弊し、1962年から当たらなくなる。スターを組み合わせたリアルな集団時代劇もつくられたが、延命策にすぎなかった。いっぽう東京では石井輝男と井上梅次といった監督が派手なアクションを見せ場にしたギャング映画がヒットしていた。そんなおり、東京でつくられた『人生劇場 飛車角』(1963年、沢島忠監督)が当たり、東映は時代劇に代わる鉱脈を見つける。尾崎士郎の原作小説は何度も映画化されてきたが、基本的に文芸映画であった。この映画は「仁侠篇」を拡大して侠客の飛車角を主人公としたもので、のちの任侠やくざ映画の雛形となっていた。すぐに続篇や類似作品がつくられ、翌年から東映は鶴田浩二、高倉健の主演する任侠映画路線に本格的に舵を取る。高倉健主演の『日本侠客伝』(1964~1971年、全11作)、『網走番外地』(1965~1971年、新シリーズ含めて全18作)、『昭和残侠伝』(1965~1972年、全9作)の三大シリーズが出そろった1965年(昭和40年)以降、東映は東西の撮影所を使って、京都の着流し任侠物、東京の現代物のやくざ映画の量産体制に乗り出す。スターの中心は鶴田と高倉で、のちに若山富三郎、藤純子らが鮮烈に加わった。


『人生劇場 飛車角』(c)東映


 おりしも時代は高度経済成長期に突入していたが、やくざ映画の主な観客はその繁栄のなかで地道に働くブルーカラー層であった。斜陽の日本映画界にあって東映のやくざ映画は確実に興行成績を上げていた。三島由紀夫が『博奕打ち 総長賭博』(1968年、山下耕作監督)を絶賛したり、学生運動の学生たちに支持されていたというエピソードばかりが語られるが、東映やくざ映画の本質はつねに大衆とともにあったのである。


 東映の主流となった任侠やくざ映画も時代劇と同じく量産のなかで衰退に向かう。1970年ごろからマンネリ化によって鶴田浩二や高倉健の映画の興行成績は下り坂にあり、1972年の藤純子の結婚引退によって東映映画はひとつの節目を迎える。鶴田浩二の任侠映画がつくられなくなり、高倉健の三大シリーズも終了するいっぽう、任侠映画の添え物であった池玲子、杉本美樹主演のスケバン映画が好調、梶芽衣子主演の劇画原作映画『女囚701号 さそり』(1972年、伊藤俊也監督)がヒット、シリーズ化される。興行の柱となる任侠映画をやめてもこれらの小品が代わりを務まるのかというと心もとない。ではどうするか。東映映画は重大な分岐点に差しかかっていた。


■東映映画史を塗りかえる衝撃作の誕生


 1972年、作家の飯干晃一が、元広島やくざの組長だったという美能幸三が網走刑務所の獄中で記した手記を再構成。そのノンフィクションが、週刊誌に連載されて話題となっていた。脚本家の笠原和夫とプロデューサーの日下部五郎が飯干のもとを別の企画の相談で訪れた際、くだんの原稿の存在を知らされて映画化を検討しはじめた。笠原は呉の美能を訪ねるが、本人は映画化は絶対だめだという。そのうち美能が、笠原の戦時中の大竹海兵団の先輩だとわかり、取材を進めた。シナリオ執筆時に徹底した調査で知られる笠原だったが、取材を重ねるうちに困惑する。


 東映やくざ映画はこれまで実際の事件をヒントにした作品はつくってきたが、事件そのものを真正面から取り上げるのはこれが初めて。題材が題材だけに慎重にやる必要があったが存命の関係者が多く、また人間関係と事件の推移の複雑さに、さしもの調査魔の笠原も音を上げる。広島のやくざ抗争全体を一本の映画にするにはむずかしいが、端緒となった呉の抗争ならなんとかまとめられるということになり、映画化が進められた。


 監督にはやくざ映画の筆頭プロデューサーの俊藤浩滋が『現代やくざ 人斬り与太』『人斬り与太 狂犬三兄弟』(ともに1972年)で組んだ深作欣二を指名。東映東京出身の深作にとって京都撮影所は初めて。深作は両作で欲望のままに暴れまわる主人公を描いて、従来の折り目正しい任俠映画とまったく異なるヴァイオレンス表現をつくりあげていた。ジャーナリズムの評価は高いが興行的に当たったためしはない深作の起用は、従来の任侠映画とまったくちがう破格の映画を期待した俊藤の賭けであった。だが、これに猛反対したのが笠原和夫。ふたりは以前、『顔役』(1965年)で組んだことがあったが、深作はやくざ映画の構造や義理人情のありように疑問を感じ、笠原と正面衝突。結局、深作は降板して監督は石井輝男に交代した。今度も無理難題を言うだろうという笠原の懸念に反して、シナリオを読んだ深作は「おもしろい、そのままやらせてもらいます」とスムーズに快諾した。


  物語のはじまりは1945年呉の闇市。復員兵の広能昌三がひょんなことから暴力の世界に足を踏み入れ、山守組の結成に加わり、親分の代わりに刑務所に入り、殺人と裏切りの血なまぐさい年月を過ごす。それまでの東映やくざ映画の基本理念は仁義であり、義理であり、任侠道であった。物語の骨子は時代劇と同じ勧善懲悪であり、いいやくざが悪いやくざを最後に倒す作劇に観客へのカタルシスが用意された。


 この映画はその点まったくちがう。昨日殺し合った敵が今日は味方の組になり、親しい友がいきなり拳銃をこちらに向ける。かつての任侠映画の悪役が使うような手口で他人を蹴落とす、利益を得る。だいいち、仁義と義理を重んじるはずの親分が子分同士を敵対し合うように仕向け、あまつさえ邪魔になれば殺すように命令するのだから、あきれてものも言えない。


 笠原和夫は『博奕打ち 総長賭博』や『博奕打ち いのち札』(1971年)で東映やくざ映画のアンチテーゼというべきやくざ映画の美学を否定したシナリオを書いてきたが、それはあくまで任侠映画路線という枠があってこそである。その枠がなくなり、まったく新しいドラマツルギーを創造するにあたり、笠原がおおいに影響を受けたのが意外にもロマン・ポルノ『一条さゆり 濡れた欲情』(1972年、神代辰巳監督)であった。表現にリミッターなし、人間とまるはだかで向きあう同作に勇気づけられた笠原はこの型破りのやくざ映画のシナリオに全力で向きあう。笠原のシナリオは精緻に組み立てられた構成の巧みさに定評があるが、深作欣二は基本的にそれに準じて撮っている。やくざ映画の方法論をつかみあぐねていた深作だったが、ずっと模索してきた東映やくざ映画、いや自らの映画を体現するシナリオにようやく巡りあったのだった。


 俳優たちも任侠路線とは顔ぶれが一新された。各社を渡り歩いた遅咲きの菅原文太が『人斬り与太』二部作につづいて深作映画で主役を張り、現実の飢えを知っている風貌が殺伐としたドラマに圧倒的な説得力を持たせていた。文太はこの映画から飛躍して、鶴田、高倉に代わって1970年代の東映の屋台骨を背負うスターになるのである。


 共演陣から片時も目が離せない。東映映画でしょっちゅう悪役を演じていた金子信雄が山守親分にふんして、集大成というべき文字どおり怪演をみせる。泣き落とし、土下座、恫喝……コロコロ変わる表情と態度の演技はしだいにエスカレートしてゆき、これが爆笑もの。その周りを固める役者たちも秀逸なシナリオにノッて最高のアンサンブルをみせる。深作も彼ら魑魅魍魎が蠢くさまを演出していておもしろかったのであろう、シナリオのト書きにはツメた指がどこかに飛んで行ってみんなで探す、としか書いていないのに鶏が指をつついていた、と喜劇色をつけ加える。さらに川谷拓三、志賀勝、野口貴史ら主に東映京都のやくざ映画や時代劇の斬られ役、脇役専門だった役者たちを存分に暴れさせ、手持ちキャメラをブン回し、激しく揺れ動く画面に躍動させた。この映画をきっかけに頭角を現した彼らはやがてピラニア軍団なる集団を結成して東映映画に貢献する。


 一度聴いたら忘れられない津島利章の音楽にのせて『仁義なき戦い』は大ヒット。暴力と陰謀が渦巻く血みどろの物語がなぜそこまで人びとの心をつかんで離さないのか。やくざ社会の世界ではあるが、そこに描かれているのは職場や学校に置き換えたら誰しも思い当たる、共感できる人物やエピソードばかり。苛烈なタッチではあるけれど、人間社会の本質を苛烈な普遍的な物語なのである。


 映画はヒットによりシリーズ化された。これ以上は書けないと笠原和夫が第4作『仁義なき戦い 頂上作戦』(1974年)を最後に降板したあとも脚本家を高田宏治に代えて『仁義なき戦い 完結篇』(1974年)がつくられ、さらに新シリーズが3本つくられたのはプログラム・ピクチュアの貪欲な生命力を示している。さらに東映は全国各地の事件に取材した同種の映画を深作や別の監督でつくりつづけて実録路線としたが、過激な暴力描写が増すほどに映画から夢やロマンが消え失せてゆき、やがて実録路線は終了。


 東映映画のシリーズの大半がタイトルやキャラクターだけでつながって一作ごとの関連性はほぼないのに対して、『仁義なき戦い』五部作は緊密なサーガとしてつくられているのが稀有なシリーズである。5部作を通してみると時代の移り変わりとともに、暴力の戦後史がくっきりと浮かび上がってくる。


 今回の特集「東映創立70周年 いま観たい絶対名作30」では『仁義なき戦い』以外のやくざ映画の名作も放映される。『仁義なき戦い以前の仁俠映画の名作『人生劇場 飛車角』、『緋牡丹博徒 花札勝負』(1969年、加藤泰監督)、『昭和残俠伝 死んで貰います』(1970年、マキノ雅弘監督)、『仁義なき戦い』が火をつけて始まった実録やくざ路線の『仁義の墓場』(1975年、深作欣二監督)、『北陸代理戦争』(1977年、深作欣二監督)、その後の大作路線の『やくざ戦争 日本の首領』(1977年、中島貞夫監督)、さらにその後の女性を主人公にした新展開『鬼龍院花子の生涯』(1982年、五社英雄監督)、『極道の妻たち 決着』(1998年、中島貞夫)というラインナップ。『仁義なき戦い』を中心とした東映やくざ映画の豊饒な世界を存分に味わってほしい。


(磯田勉)