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『古見さんは、コミュ症です。』は人間関係の本質に触れている コントロールできないコミュニケーションの難しさ

2021年10月27日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『古見さん』は人間関係の本質に触れている

 普段、我々は「コミュニケーションが大事」とよく言う。しかし、「コミュニケーションとは何か」と聞かれて、きちんと答えられる人は少ないだろう。コミュニケーションの正体を正確に把握するのは難しい。


(参考:『古見さん』には少女漫画的な魅力が?


 正体がわからないなら、上手いコミュニケーションのやり方だってわかるはずがない。にもかかわらず、現代社会は「コミュニケーションが大事」と強迫観念のように迫ってくる。


 オダトモヒトの漫画『古見さんは、コミュ症です。』は、そんなコミュニケーションの本来の難しさと不思議さがコミカルに描かれている。ライトな筆致だが、実は人間関係の本質的に重要な部分に触れている作品なのではないかと思う。


■言語コミュニケーションの2つの意味


 本作は、平均的で目立たない高校生活をおくろうと心に決めた男子、只野仁人(ただのひとひと)が、全校イチの美女だが他人と会話ができない「コミュ症」の古見さんと友達になり、古見さんの目標である友達を100人作ることを手伝うという物語だ。


 古見さんは、他者を前にすると極度の緊張で声が出せなくなってしまう。しかし、その美貌ゆえにそのことが周囲に伝わらない。外見のせいで妙に一目置かれてしまい、高嶺の花的な扱いになっている。そんな中、只野はふとしたことで、古見さんがしゃべるのが苦手な人だと判断し、黒板に書くという行為を通じて友達となる。


 古見さんが「コミュ症」と言われる所以は、このしゃべることができないという点にある。なぜなら、人間社会は、言語を中心としたコミュニケーションによって支えられているからだ。社会学者の大澤真幸は、「社会システムは、コミュニケーションを要素とするシステム」であり、「人間のコミュニケーションの大部分、もっとも豊かで多様な部分は言語的コミュニケーションである」と書いている(「コミュニケーションの(不)可能性の条件 沈黙の双子をめぐって」、『現代思想』2017年3月号、P36)。


 大澤は、発話のコミュニケーションには2つのレベルの意味が存在すると言う。「文の意味」と「発話の意味」だ。例えば、「今日はいい天気ですね」と発話をしたとき、文の意味としてはその日の天気が晴れであることを意味するが、それを言った人は晴れていることを伝えたいわけではない。おそらく、会話のきっかけが欲しいとかそんなことだろう。これが発話の意味だ。


 発話者が何か話す時、大抵の場合、上のような2つの意図を持っている。受け手が、その2つの意図に気づけるか、あるいはその意図を受け入れるか拒否するかが問題になる。


 女の子が男の子に対して、「あの店のスイーツが美味しいらしい。行ってみたい」と言った時、「文の意味」はそのままだとして、受け手の男の子は、「発話の意味」を「一緒に行きたい」と解釈するかもしれない。でも、実際は違うかもしれない。「発話の意味」をどのように解釈するかで受け手はリアクションを変える必要がある。受け手はそれを絶えず類推せねばならず、その上で、自分の最適な言動を選択せねばならない。当然、受け手の返答にも2つの意味が存在するので、今度は最初の発話者がそれを類推する。発話者が返したら、さらにそれを類推する……。言語のコミュニケーションとは、実はこんなに複雑なことをやっているわけだ。改めて考えると、すごいことではないだろうか。


 古見さんは友達が欲しい。だから「友達になってください」と言いたい。だが、言えない。只野は最初、古見さんが友達100人作るのは簡単だと考えていた。本人がしゃべれなくとも、只野が「古見さんが友達になりたがっている」と言えば、誰もが友達になってくれるだろうと考えていたからだ。


 言語コミュニケーションに「文の意味」という1つの意味しかなかったのなら、只野の考え通りにすんなりと事は運んだだろう。しかし、受け手は発話の意味も考えてしまう。「古見さんのような超絶美人がなぜ自分と友達に? なんの意図があるんだろう」とか。さらに、そもそも只野がなんでそんなことを言ってくるのかとも考える(実際、古見さんを一方的に溺愛している山井さんは、只野が調子に乗っていると解釈した)。結果、それを伝えるだけでは友達になれないので、只野はいろいろな策を講じなくてはならない。例えば、最初の友達候補として選んだ長名なじみには、一緒に下校させるなどの工夫が必要になるわけだ。


■コミュニケーションを成立させるのは受け手


 古見さんは、相手に自分が近づくと、緊張されたり、逃げられたり、失神されたり、土下座されたりというリアクションを受けたことがあり、嫌われているのではないかと思い、話しかけることができなくなったと只野に黒板に書いて説明する。そういう気持ちが積もりに積もって「どうやって話しかけよう、拒否されたらどうしよう」と思ってしまうようになったという。


 コミュニケーションは発信者と受け手がいて初めて成り立つ。実は、コミュニケーションを成立させるためには、発信者以上に受け手が重要だ。


 前述した大澤真幸は、「文の意味」は辞書と文法に沿えば簡単に確定できるが、「発話の意味」はたくさんの解釈があり得ると語る。この「発話の意味」を受け手が適切に解釈できないとコミュニケーションは成立しないのだ。


 古見さんが話しかけようとすると、多くの受け手は「盛大な勘違い」をして、失神や土下座までしてしまうらしい。それを見た古見さんも「自分が悪いのか」と勘違いをする。こうしてコミュニケーションができなくなっていくわけだが、只野だけは古見さんが会話を苦手としていることを見抜いた。それは、「今までのリアクションでなんとなく」わかったと只野は言うが、これが適切な解釈だったために、古見さんとのコミュニケーションを始めることができたのだ。


 この「今までのリアクションで」気づいたという点も、コミュニケーションを考える上で重要だ。おそらく、只野が見ていた古見さんのリアクションは、会話が苦手だと気づいてほしくてやっていたものではないだろう。只野が勝手にそう「解釈した」だけだ。つまり、発信者が何の意図をしていなかったとしても、受け手が何らかの解釈をして受容すれば、コミュニケーションは成立するということだ。大澤真幸は、『コミュニケーション(弘文堂)』という本で、「コミュニケーションの成立にとって最も重要な選択は、発話者の伝達的意図に対応する受話者側の選択(P81)」と書いている。さらに、「発話者の方に、情報的意図も伝達的意図もなかったとしても、受話者が、そこに、伝達的意図を読み取り、受容してしまえば、客観的には、そこにコミュニケーションが成り立ってしまうのである(P81)」とも書いている。


 コミュニケーション成功の鍵を握るのは発信者よりも受け手なのだ。只野は受け手として非常に優秀だったがゆえに古見さんの最初の友達となれたと言える。


 なじみと古見さんが友達になったエピソードでも、やはり受け手が重要となっている。なじみに、前の学校の不良が絡んでくる。不良が鍵を落とす。古見さんはその鍵を渡そうとするも、しゃべることができないので勘違いさせてしまう。その一連のやり取りを見て、なじみは古見さんを面白い人だと思い、友達になる。古見さんは、ただ鍵を渡そうとしただけだが、そのやり取りを見ていたなじみには、何か別の解釈が生じたのだ。


 コミュニケーションは難しい。何しろ、発信者は、受け手が発話の意味をどう解釈するのか、コントロールすることができないのだから。コントロール不可能なことに乗り出すのは、誰だって怖い。古見さんの感じる恐怖は、何も特別なことではないのだ。


(文=杉本穂高)