2021年09月28日 09:51 弁護士ドットコム
憲法学の研究者からなる全国憲法研究会憲法問題特別委員会は9月18日、「裁判官の弾劾と表現の自由:岡口基一裁判官の訴追を契機に考える」と題したシンポジウムを、オンラインで開催した。岡口氏の訴追に対して制度上問題ないとの見解を示す学者がいる一方、表現の自由の観点から問題視する意見が出た。
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初めに登壇したのは日本大学の柳瀬昇教授。柳瀬氏は、弾劾裁判について、制度の観点から、報告した。現在の裁判官などを弾劾する制度ができて以降74年間で、8人の裁判官に対して9件の訴追がなされており、1955年以降、訴追された裁判官全員が罷免されていることについて、「(裁判官を訴追するか決める)訴追委員会は、明らかに罷免されるであろうものを訴追し、そうでないものは訴追しないという運用をしていると推察される」とした。
一方、過去7件の「訴追猶予(弾劾罷免事由はあるが、訴追しないという判断)」があった点も紹介。「(訴追猶予となった)対象裁判官としてはグレーなまま、身の潔白の証明もできないので、司法権の独立の侵害といえる」と述べた。
その上で、今回の岡口裁判官の訴追事例については、「訴追委員会は、裁判官の私的表現活動の問題というより、司法制度や国民の裁判を受ける権利に関する問題だと認識していると思われる」と述べた。
柳瀬教授は、裁判官弾劾法で3年経過した行為について訴追理由とできない法律があることも紹介。今回訴追事由として、3年経過したものが含まれている点について、「(3年経過した行為と)同じ文章がSNS上に残されていて、岡口裁判官がブログでリマインドしたことをとらえて、訴追委員会は『事件は終わっておらず、継続している』というのが認識なのだろうが、論理構成はやや苦しいものだとおもう」とした。
一方で、殺人事件被害者の遺族について「洗脳されている」とした発言については、発言から訴追まで3年以内であったことから、「私見では、この発言が主たる弾劾罷免事由であり、その他の部分は総合的な評価をする際に用いることのできる補充的な事由として、扱うにとどめるべきと考える」とした。
岡口裁判官は、訴追された内容について、最高裁から戒告の懲戒処分も受けている。訴追事由と懲戒事由が同じ場合、憲法が禁じる「二重処罰」にあたる可能性があるとの指摘が出ている点について、柳瀬教授は「公職者を追放する弾劾と、裁判官の身分統制をする懲戒処分は、明らかに性質が異なるというべき。2つの制度の本質が異なる以上、二重処罰にはあたらない」との見解を示した。また、過去に1955年の事例では、2回の分限裁判で科料の懲戒処分を受けたあと、同じ事実で罷免された事例があることも紹介した。
刑事犯罪にあたらないことを理由とした訴追については、「近代以降、刑事裁判と弾劾裁判は分化された」「(日本の弾劾制度が影響を受けた)米国でも、犯罪であることは弾劾事由の要件ではない」として問題ないとの認識とした。
柳瀬教授は、過去の最高裁の懲戒処分と弾劾裁判の判決の書き方の分析も紹介。「裁判官に対する国民の信頼」という言葉が懲戒と弾劾の両方に用いられている一方、最高裁の懲戒処分では使わないものの、弾劾裁判所が必ず使う言葉として「裁判官の倫理規範」があると指摘。「弾劾裁判所は、裁判官たるものは人権意識にすぐれ、人格的に高潔でなければならず、倫理規範を有していないといけないと繰り返し述べている。裁判官が信頼を失うとその裁判官の問題だけでなく、司法、裁判、裁判所に対する信頼も広く傷つけられてしまうという風に議論を構成する傾向にある」と述べた。
批判のある岡口裁判官の訴追委員会の事情聴取については「事情聴取されたことで、自分の意見を述べる機会に恵まれたと好意的に評価することもできるのでは」と問題提起。訴追された以上「弾劾裁判所は公開。公開法廷は、被訴追者にとっては、自分の見解を国民に対して、主張する絶好の機会であるはず。堂々と身の潔白を主張すればよい」との見解を示した。
対して、立命館大学の市川正人教授は、表現の自由の観点から、報告した。「表現の自由」が憲法上認められた権利であることを紹介した上で、市川教授は、萎縮的効果について言及。「表現の自由は、不利益を被る可能性があると表現をやめておこうと思うような、萎縮的効果がある。そうでない(萎縮的効果が及ばない)人もいるが、萎縮的効果を前提として考える必要がある」と強調した。一方で、裁判官の表現の自由について「裁判や裁判所に対する国民の信頼の確保という見地から、制限をうけうる」と指摘した。
表現の自由が認められるかどうかについて、市川教授は「表現の自由と、侵害している他者の利益との間の調整がなされないといけない。(問題となっている岡口裁判官の)『洗脳』という発言も、その言葉の使用で一発アウトになるような表現ではない。発言の背景や意図を考慮しないと、表現の自由の限界を超えたかどうかはわからない」とした。
その上で、市川教授は、岡口裁判官の最高裁による戒告の懲戒処分の問題点にも言及した。かつて、政治的な集会への参加を理由に戒告された寺西和史判事補(処分当時)の事件と比較し、「寺西判事補のときの決定文は、表現の自由との関係を理屈を立てた上で、説明していた。しかし、岡口氏の決定文では、ほぼ説明していない。そもそも、懲戒事由該当性の判断の中で、表現の自由との比較衡量や調整をしていない」と批判した。「洗脳」発言について、市川教授は「言わないほうが良い発言ではあるが、著しい非行といえるのか、戒告事例にあたるのかも微妙」との見解を示した。
表現の自由を重んじる理由として、市川教授は、「裁判官の表現活動を制限していくと、裁判官は浮世から離れる。裁判は浮世のもめごとである以上、浮世から離れた裁判官が血も涙もある判断ができるのか」と疑問を投げかけた。
さらに、今回の岡口裁判官の事例について「裁判官の表現の自由にかなり強い萎縮的効果をあたえたという点で、かなり大きな問題とおもう。裁判官が、市民として表現活動をおこなうことが、結局裁判官が適切な形で、裁判をするうえで重要。裁判官の人権の問題ではあるが、司法権の問題、司法権が適切に行使される基盤に関わる重要な問題だと考えている」とした。
コメンテーターとして意見をのべた京都大学の毛利透教授も、表現の自由の観点から、懸念を表明。毛利氏が専門の1つとしているドイツの判例においては、表現者に不利な内容認定をするためには、表現者に有利な意味内容を明確に否定する傾向を指摘している点を紹介。岡口裁判官の決定について、本人の主張と決定の内容に乖離がある点を踏まえて、「表現者にとって不意打ちの意味が読み込まれるのであれば、萎縮的効果がある。意図と違ったことが認定されうるとなると、ざっくばらんに表現がいえなくなるだろう」と見通した。
毛利教授は、裁判官の表現の自由について「一部に反対する人がいることを理由に(表現活動を規制すると、裁判官の表現活動は)できなくなる。『傷ついた』という人について、それをもって、国民の信頼として考慮するかは問題」と指摘。対して、柳瀬教授は「司法の役割として、少数者の人権を守ることがあるので、人数は、関係ないのでは。1人ならよくて、2000人は無視してはいけないのか。線引きはできない」と話した。市川教授は「1人の裁判官の行為が司法府全体を損なうかは相当慎重な判断が必要だ」と述べた。
シンポでは、不罷免になったあとの岡口裁判官の再任の問題についても質問がでた。裁判官は10年に1回再任されることになっていて、法曹三者や学識経験者からなる下級裁判所裁判官指名諮問委員会が再任を拒否することができるシステムとなっている。柳瀬教授は、「指名諮問委員会ができて、制度上(再任拒否は)難しくなっている」とした。対して、市川教授は、「すでに2回、戒告されており、不罷免であっても、かなり問題があると指摘してきた場合、再任されない可能性は十分あると思う。指名諮問委員会ができてから再任拒否は増えている」と述べた。