2021年09月25日 09:51 弁護士ドットコム
デルタ株による感染爆発は人々に不安をもたらし、政府に緊急事態宣言より強い規制を求める声が上がった。ピーク時の8月には政府分科会や全国知事会がロックダウン等による私権制限の検討を要求し、世論もそれに同調する傾向があった。自民党総裁選でも、9月23日の党主催の政策討論会でテーマの1つになるなど、未だに関心は高い。
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しかし、政府による自由の制限を更に強めることを許容しても良いのだろうか。現行憲法においてロックダウンはできるのか、編著に『感染症と憲法』『コロナの憲法学』がある千葉大学の大林啓吾教授に聞いた。
ーーコロナ禍であっても、自由の制限は問題にならないのでしょうか?
国家には国民の安全を守る責務があります。感染症の脅威から国民を守るのは国家の責務なので、国家はコロナ対策をしなければなりません。ところが、感染症対策はしばしば国民の行動を制限することがあるので、憲法が保障する自由との衝突が問題になります。
もともと、自由は他者の自由や公益と衝突することがあるので、それを調整する必要が出てきます。つまりコロナの問題は自由と安全の調整の問題と置き換えられます。
それをどのように考えるかは、コロナ対策の利益とそれによって制限される自由の利益の比較衡量が重要になります。規制に必要性や合理性があれば自由の制限が認められることが多いのですが、感染症対策は自由を強く制限することが多いことやハンセン病対策で行き過ぎたことの教訓もあって、必要最小限の規制になっているかどうかが求められます。
ーー自由の保障と安全のバランスが大切ということですか?
その通りです。ただし、自由と安全は両立できないものとする〝トレードオフ〟で捉えるのではなく、〝調整可能なもの〟として考えたほうが良いでしょう。もちろん、どちらかを優先すれば、もう一方を失うことになるわけですが、そういう観点からではなく、むしろ自由と安全の妥協点を探るというスタンスが重要ではないかと思っています。
もともと国家には国民の安全や健康を守るために公衆衛生を維持する責務があります。これは憲法に書いてなくても国家に普遍的に内在する責務だと考えられています。日本の場合、さらに憲法25条2項が社会福祉や公衆衛生の向上・増進に努めなければならないと書いています。
そうすると日本の場合は感染症対策さえすればいいというわけではなく、それに加えて、国民の生活に配慮しながらクオリティの高い衛生状態を維持しなければならないという努力義務が課されていることになります。
ーーでは、自粛要請による感染症対策はどう評価できますか?
日本では諸外国のような罰則がある〝強制型〟ではなく、お願いベースの〝穏健型〟の感染症対策を採用してきました。
穏健型は最終的な判断を個人に委ねるという点で、自由を最大限保障していると言えます。また、お願いされていることだけで本当に十分なのかと考える人も少なくないと思うので、うまくいけば強制型以上の効果も見込まれます。
第一波の対策は憲法的にも自由がある程度担保されて、感染症対策の面でもそれなりに良い結果だったと言えるのではないでしょうか。
その一方で、同調圧力によって事実上の強制が存在する状況が生じました。それによって感染症対策の効果が高まった反面、自由の縮減に対する救済が十分ではなかったという問題が起きました。つまり、事実上自由が制約されても、〝自粛要請〟なので司法的救済を受けることが難しいということです。これは今後の課題になってくるところです。
しかし、国家が誘導した側面があるとはいえ、要請に従うかどうかを最終的に判断するのは国民にゆだねられたので、結果的には国家が強制するよりは自由が担保されたと思います。
ーー強制力のない自粛要請の中、愛知県で開催されたフェスの感染症対策が杜撰だったとして批判を浴びました。どう考えれば良いでしょうか?
今後のライブ等にも影響を与えるでしょうし、規制強化の議論を高めることにもなるでしょう。何か大きな事件が1つでもあれば立法事実として使われて規制をおこなう理由になるからです。今回のような事件が他に数件起きると、より強い規制が必要だという議論につながる可能性があります。
ただし、規制強化を求めるにしても、どのように規制を強化するのかをきちんと考えなければなりません。たとえば、現行法の枠内で規制強化をはかるのか、それとも法改正を行うのか、といった選択肢があります。
現時点でも、あのようなイベントを強制的に規制することは可能です。新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)に基づく緊急事態宣言が出ていれば、不当な理由で要請に応じなかった事業者に対して45条3項に基づいて施設制限や催物制限の命令が行えるからです。命令違反者には79条によって過料を科すこともできます。それでも足りないと考える場合には、法改正を議論していくことになるでしょう。
ーーロックダウンを求める声も出ています
そもそも、ロックダウンの内容は曖昧です。中国・武漢市のような〝都市封鎖〟という強いロックダウンもあれば、欧米のように行動制限や外出制限で対応するロックダウンもあります。どのようなロックダウンを想定するかによって、それができるかどうかも変わってきます。
日本では外出自粛や営業自粛を要請していますが、それを強制的にやったのが欧米諸国のロックダウンなので、さしあたりそれがロックダウンのイメージになると思います。
ーーロックダウンをするためには憲法改正が必要という意見もありますが、政府や国会の権限を強める〝緊急事態条項〟は必要なんでしょうか?
まず法律によってロックダウン規定を設けることができるかどうかを考えて、それができないという結論が出たときに、それでもなお緊急事態条項が必要という場合に憲法改正の議論に移るべきだと思います。
実際、欧米諸国を見ても憲法に緊急事態条項があるかどうかにかかわらず、多くの国は法律に基づいてコロナ禍に対処しています。いずれにせよ法律が必要になるので、憲法改正のコストの大きさを考えると、まずは法律によって可能かどうかを検討することになります。
――実際のところ、現行憲法で可能なんでしょうか?
公共の福祉を根拠に立法すること自体は可能でしょう。問題は中身をどうするかです。ロックダウンは通常の公共の福祉による人権制約と違い非常に広範で強い制限になるので、立法事実の検証等慎重な検討が必要になります。
立法事実の検証では最低でも(1)ロックダウン自体に効果があるか、(2)ロックダウンは自粛要請よりも効果的か、(3)現時点でそれが必要な状況が存在しているか――の3つが必要です。
ただ、外国のロックダウンの検証はまだ済んでいませんし、日本ではワクチン接種が進み、感染者数も減っているので、現状では直ちに立法というのは難しいという印象です。とはいえ、将来の立法に向けて検討を進めていくべきだとも思います。
仮にこの3つを満たしたとしても、公共の福祉に合致するためには正当化理由が必要です。たとえば外出制限ならば、〝危害原理〟の枠を超える可能性があります。
ある行動が他人の自由を侵害する場合に限り、その行動の制限が正当化されるというのが危害原理です。外出制限で感染していない人の自由も制限することは危害原理の枠を超える可能性があります。感染させるおそれさえあれば危害原理を満たすという考え方もあるでしょうし、危険の蓋然性が抽象的すぎるという意見もあるでしょうから、議論を尽くす必要があります。
――このほかに検討することがありますか?
これらはあくまで前提的な要件です。続いてメリットとデメリットを見て、本当に導入すべきかというコストベネフィット的な話になってきます。メリットとデメリットはそれぞれ大きく次の4点があると思います。
【メリット】
・自粛要請よりも高い効果を期待できる可能性がある
・「居酒屋が狙い撃ちされている」などといった自粛要請の対象に関する世論の不公平感が軽減される可能性がある
・してはならない行動が明確になる
・自粛要請の場合と比べて司法的救済を受けやすくなる
【デメリット】
・過度な制限になる恐れがある
・繰り返されてしまうと縮減された自由がデフォルトになる可能性がある
・特に最初のうちは違反者に対する相互監視が高まり監視社会を増長させてしまう
・制約されていることしか守らなくなり、自主的な感染対策が見込まれなくなる
ーー仮に立法するとして、罰則はどのような形になるんでしょうか?
欧米諸国を見ると罰金を科す国がほとんどです。懲役刑のように収容を前提にすると、行為と罰則の均衡の問題があり、また必要最小限の手段であることの要請に抵触しかねません。また、感染症対策の面からも刑事収容施設への収容は現実的ではありません。
日本の場合、必要最小限の制限という観点から、最初は過料(行政罰)が原則ということになるでしょう。それに従わなければ罰金というような段階的なプロセスになると考えています。
実際に違反者が出た場合、どうやって取り締まるのかという問題もあります。ロックダウンをすると、自粛警察みたいなものがまた出てくると思います。効果としては良いのかもしれませんが、過度な取り締まりにつながる監視社会が良いのかという問題が出てくるでしょう。
ーー事業者に対する補償の方はどうなりますか?
本来的には補償というのは財産権をターゲットにしたもので、営業損失は含まれない可能性があります。また、補償が認められるためには一般的な受忍限度を超えるかなどの特別な犠牲の要件を満たす必要があります。
補償の問題を考えるとき、補償がないと違憲かどうかという紋切型のアプローチではなく、より憲法に適った政策運用がなされているかという〝憲法政策〟のアプローチが必要だと思います。
補償がなくてもすぐに違憲にはならないかもしれないけれど、営業の自由や財産権を考えると補償があった方が憲法上望ましいよね、ということです。もっとも、ロックダウンは強制的に営業の自由を制約することになるので、補償の対象にはなりやすくなるはずです。
仮に補償がないとしたら、訴訟を起こすことになりますが、日本では裁判に時間がかかってしまいます。そのため、実効的な救済手段を検討する余地がありそうです。
ーーロックダウン等を求める声がある一方、政府は消極的な姿勢を崩しません
憲法学の観点からすれば、ロックダウンのように強く自由を制限する規制については慎重にならざるをえません。それにいったん強制力のある法制度を作ると、それが権利を侵害していたとしても、それを解消することが難しいという現実があります。らい予防法やエイズ予防法で患者の人権を侵害し、差別を助長してきたというこれまでの反省を踏まえて、感染症法や特措法が人権尊重規定を置いて必要最小限の規制を求めているのもこのことの表れです。
逆に感染症対策で現場にあたる地方自治体や、基本的には感染症の専門家がより強い強制力を求めるのは当然のことです。
世論は強制を許容するような風潮があります。政府は国民の信頼の上に成り立つという憲法前文の信託関係があるので、常に世論を気にするべきではありますが、世論に流されて法の支配や人権という普遍的価値を無視する結果にならないようにしなければなりません。
たとえば第一波では、多くの地方自治体が法令の根拠なく独自の緊急事態宣言を出して自粛要請を求めていました。特措法24条9項に基づく要請という見解もありますが、32条に緊急事態宣言の規定があり、それに伴って45条の自粛要請規定がある以上、それと同等の状況を創造することは解釈上無理があります。実際、その後になって複数の自治体が条例を制定して独自の緊急事態宣言を規定しています。裏返せば、初めからこうした規定があるべきだったことになります。
危機の時代においては強いリーダーシップの発揮が支持される傾向はありますが、法令の根拠のない緊急事態宣言は法の支配という点では問題があったと考えます。
――国家権力ということで考えれば、国民の支持を盾に憲法改正や私権制限をしてもおかしくなさそうですが…
コロナ禍の社会は立憲主義のパラドックスともいえるような状況にあります。古典的な立憲主義は、国民の自由を制限する国家権力から国民の自由を保障するという発想に立脚しています。しかし、現在はむしろ国民の側が自由の制約を望み、政府が望まないという逆転現象が生じています。
従来の憲法学では、個人を国家と対抗できるだけの強い個人として考えてきました。だからこそ、欧米では穏健型ではなく、強制型のロックダウンが必要になったし、それに対して、一部では自由を制限しすぎているとしてデモや裁判も起きているわけです。
しかし、仮に強制型のロックダウンが行われても、日本ではおそらくそこまで大きな動きは起きないような気がします。それどころか、穏健型なのに自粛警察が問題になり、政府がコロナに関連して差別や偏見が起きないように注意を呼びかける事態になりました。
必ずしも強い個人が確立していない日本では、ひとたび強制型のような法制度が根付いてしまうと、想定以上に自由が侵害される恐れがあります。言い換えれば、日本では政府が強い制限をかけるのではなく、むしろ特定の方向に行き過ぎないようにバランスをとる必要があるとも言えます。
権力統制一辺倒ではなく、そういう日本の特徴にあったソフトな立憲主義のアプローチを考えていく必要があると思います。繰り返し話しているコストベネフィットという評価の仕方も、こうした矛盾を解消するアプローチの一つだと考えています。
ーーそうすると憲法学的な観点では、政府の対応には一定の評価ができるということですか?
個別の問題は色々とありますが、世間で批判されているほどではないと思います。第一波に対してはそれなりに成功しましたし、今も効力は弱まってはいるものの、一定の自粛要請で何とか耐えています。
感染症対策は、水際対策、行動規制、ワクチンが重要だと思いますが、日本は当初の水際対策を除き、行動規制とワクチンについては色々と考えてそれなりに上手くやっているように見えます。
台湾やニュージーランドのような徹底したコロナ対策が賞賛されることもありますが、それぞれSARSの経験や自然を守るための外来種対策などをベースにした、予防に重きを置いた法制度を必要とする背景が元からあったことが指摘できます。強い対策というのは初めからしないと効果が薄いわけで、最初期の水際対策で後手に回った日本が、今さら強い対応をおこなうことは難しいというのもあります。
ただ一番大きな問題は、なぜ説明をちゃんとしないのかというところです。 穏健型の対策は国民が納得して従ってくれないと成功しませんので、くどいほど説明を繰り返す必要があります。この説明責任を十分果たしていないのは大きな課題だと思っています。
ーー憲法学の観点から説明責任を求めていくことはできるのでしょうか?
英米型の信託という概念を憲法学の世界に持ち込んで、近年は〝信託的立憲主義(fiduciary constitutionalism)〟という考え方が議論されています。従来の国家と国民の関係は社会契約に基づいているという社会契約論ではなく、信託という関係で捉えていくと良いのではないかという発想です。
一番初めに国ができる時の国家と国民の関係は社会契約で説明できますが、その後、国家が国民の要望に応えていないような場合に、社会契約で何ができるかというとあまりできることがありません。
一方、信託的立憲主義だと、政府は国民の信頼に応えなければならないので、説明を要求できます。これまで民主主義の要請として〝説明責任(accountability)〟が求められてきましたが、政治的要請なのか法的要請なのかが曖昧な感じでした。信託的立憲主義に基づければ、政府は説明責任を果たすことが憲法上要求されることになります。
日本は憲法前文に「国政は、国民の厳粛な信託による」ともあるので、日本にはより親和性もあると考えています。