トップへ

天性の速さと裏表のなさに誰もが夢中。F1ファンの心のなかに“最高のキミ・ライコネン”がいる

2021年09月21日 18:11  AUTOSPORT web

AUTOSPORT web

2021年限りでF1からの引退を発表したキミ・ライコネン(アルファロメオ)
長いキャリアの末にいつかその時が来ると分かっていても、寂しさは否めない。一杯のコーヒーを淹れて、彼が描いた色とりどりのシーンを思い出してみると──途切れることなくよみがえる記憶に、我ながら驚くファンはきっと数多い。

 2006年モナコGP。リタイアした後、クルーザーで飲酒するキミ・ライコネンの様子がレース中の国際映像に映し出されたレースだ。インターネット上にアップされた“続編”、デッキの2階から転落する豪快な酔いっぷりも話題になった。褒められたことではないけれど、裏表がなく、人目を気にして取り繕うようなことをいっさいしないキミの一面が表れたエピソードを、ファンはむしろ微笑ましい気持ちで受け止めた。それは、彼のなかに厳然と存在するもうひとつの一面、ドライバーとして一点の曇りもない清廉さを、誰もが感じ取っていたからだと思う。

 あのモナコGPを、ライコネンは勝利のチャンスを握りしめながら走っていた。スタート直後に3番手から2番手にポジションを上げた彼は、終始、首位フェルナンド・アロンソから1秒以内の位置を走行。1回目のピットストップはライコネンが22周終了時点、アロンソが24周終了時点。ふたりのポジションが入れ替わることはなかったが、ピットでの静止時間=給油時間はライコネンが10.3秒だったのに対して、アロンソは7.9秒。

 レース後、ロン・デニスは「1回目のピットストップを終えた時点で、キミがフェルナンドより7周分多くガソリンを積んでいることは明らかだった。キミはタイヤとエンジンを労わりながら走行していた」と語った。2回目のピットでアロンソをオーバーカットする、というのがマクラーレンの作戦だったのだ。

 しかし49周目、マーク・ウェーバーのウイリアムズがボー・リバージュに入ったところでストップ。セーフティカーが出動し、ふたりが同時にピットインしたため、マクラーレンの持っていた作戦上のアドバンテージは消えてしまった。そして追い打ちをかけるように、セーフティカー先導のスロー走行のおかげでライコネンのマシンに火災が発生した。

 2006年の、数少ない(実際には一度も実現することのなかった)勝利のチャンスを奪われて、どんなに落胆したことだろう──? それなのに、感情に流されることなく“競技を妨げないこと”を最優先したキミの行動は感動的ですらあった。

 ミラボーの先で異変に気づいた彼は、ほかのマシンに道を譲りながら、下り坂を利用して火のついたマシンの停止場所を探していた。ヘアピンの先の右コーナーでは歩道に乗り上げていったん停止。そこでオフィシャルによる消火作業を受けながらもステアリングを離さず、再びマシンを転がしてポルティエ手前の退避スペースまで運んだ。このスマートな対応のおかげでセーフティカーは直後にピットに戻り、レースは無事に再開した。

 当時のF1はピットストップ時やスロー走行時のオーバーヒートに弱く、とりわけモナコのセーフティカーはチームにとってもオーガナイザーにとっても悩みの種だった。ライコネンは自ら犠牲になりながらも“モナコの低速走行”によるリスクからレースを守ったのだ。本人に聞けば、きっと「当たり前でしょ」のひと言で片づけられたと思う。でも、それが心情的にどれほど難しいことかは、ウェーバーの例が示していた。

 彼のウイリアムズがラスカスを通過する時点で異音を発していたことは、プレスルームにいた私たちにも明らかだった。ピットインには間に合わなくとも、最大の退避スペースがあるサン・デボーテで停まるものだとばかり思っていた。しかしウェーバーは、力尽きたマシンをボー・リバージュの上り坂まで運んだところで停止した。マシンを降り、悔しさを体現する彼の気持ちも理解できる。シーズンベストの3番手を走っていたのだから……。

 対照的に、勝利のチャンスもレースも失いながら、他者の競技を最優先したキミは、レースの神だった。

 2009年のマレーシアGPでは、レース中断中にアイスクリームを食べている様子が放映されて話題になった。3年後にはロータスが引き継ぎ、プレスへのアイス配布、翌年のUSBメモリへと発展したエピソードの起点だったが、KERS元年の2009年、帯電の危険があるマシンのどこにも触れず、コクピットからジャンプ脱出した最初のドライバーであったことを忘れてはならない。しかも、大雨のなか──最悪の事態も恐怖も言葉にすることなくアイスと一緒に飲み込んだのは、キミだからこそ。

 ドライバー、キミ・ライコネンの魅力はもちろん、天性の速さにある。どんなコースも不得手としないが、自然の起伏を活かしたスパ・フランコルシャンや鈴鹿サーキットでは、山野を駆け巡る動物のような、敏捷でしなやかな走行が際立った。複数のラインが可能なスパ、プーオンの出口からファーニュ、スタヴロにかけては、キミだけが違うコースを相手にしているように映った。上海のターン11~13も然り。稀有なドライビングの才能とともに、レースでは一貫してフェアであることもライコネンが生まれつき備えた資質だった。

■この21年間、誰もがキミ・ライコネンに夢中だった
 2000年9月、ジュニアフォーミュラの経験しかないライコネンをイタリア・ムジェロでのテストに招いたペーター・ザウバーは、マネージャーの話を聞いただけでキミのドライビングについては何も知らなかったと言った。テスト2日目に現場で会うまで話したことすらなかったし、言葉少ななドライバーとの会話は「0~0.5くらいのレベル」。首の疲労を訴えたライコネンは4周以上アタックしようとせず、そのタイムも取り立てて騒ぐものではなかった。しかしドライビングに専心する姿、そこで浮彫りになった確固たる意志に感銘を受け、ザウバーはスーパーライセンスの獲得に奔走した。

「ライコネンというドライバーがいったん目標を定めたなら、自分とターゲットのあいだに壁があろうとも、その壁をすり抜けてしまうだろう。そこに壁があることさえ、感じないままで」

 デビュー当時のライコネンを語ったザウバーの言葉を、私たちは何度も思い返すことになった。鈴鹿史上に残る名レース、2005年の日本GPは代表的な一例だ。最終戦ブラジルGPで大逆転、チャンピオンに輝いた2007年も然り。シーズン終盤のタイトル争いでプレッシャーが最大限まで高まるなか、堂々とミスのないレースを実現できるドライバーは多くはない。アイルトン・セナの後はミカ・ハッキネン、フェルナンド・アロンソ……。キミの口からは「プレッシャー」という言葉すら聞いたことがない。

 何から何まで人工的なF1のパドックに放たれた自然児は、そこでさまざまなエピソードを生み、意図せずとも人々に笑顔をもたらし、憧れの対象となった。あらゆる無駄や論争を嫌いながら、誰よりも敏感に空気を読み、真顔のまま、ときには1秒でパドックを爆笑の渦に巻き込んだ。

 パストール・マルドナドが初優勝を飾ったのは2012年のスペインGP。2位で表彰台に上がったアロンソは、世界中に中継映像が流れるなかで、脚元のトロフィーやらシャンパンボトルをもそもそと片づけ始めた。何をしているのかな? と思った瞬間、アロンソとぴったり息を合わせ、騎馬戦のように真ん中のマルドナドを持ち上げたのがライコネン──何気ない仕草に見えて、事前に何の打ち合わせもなく、最高のかたちで勝者を祝福したのは、人並み外れて鋭い勘を備えたふたりの技であったと思う。

 スペインGPで、スペイン語圏のドライバーふたりとともに表彰台に上がったライコネンは、その後のテレビユニラテラル会見で『母国語コメント』で史上最短を記録した。プレスルームでは誰もスオミを理解できなかったが、ライコネンであることと、コメントの短さそのものが爆笑を生んだ。FIA会見であらためて意味を訊ねられたライコネンは「今日は母の日」と答えて再び笑いを巻き起こした。

 それは、初優勝を飾ったマルドナドと地元のアロンソにその場を明け渡すための、キミ流のやり方──話すのが面倒だっただけかもしれないが、キミのほかにいったい誰が、こんなふうに脈絡のないひと言で、こんなに温かい空気を生み出すことができただろう?

 結局のところ、この21年間、誰もがキミ・ライコネンに夢中だったのだ。思い出は無数で、それぞれの心に“最高のキミ”がいる。教訓めいたところをいっさい持たないスマートさが、軽やかに私たちの心に届く。コーナリングのひとつ、立ち居振る舞いのひとつ、問題発言のひとつさえ宝物。ライコネンというドライバーに出会えて、私たちは本当に幸福だった。

※この記事は本誌『オートスポーツ』No.1560(2021年9月17日発売号)からの転載です。