isutaでは今週も、SUGARさんが贈る週間占いを配信。
星乃せいこさんによる「毎月の運勢グラフ」も配信しているので、こちらもぜひチェックしてくださいね♡
1ヶ月ごとの運勢グラフ 今週のおひつじ座の運勢illustration by ニシイズミユカ
月光は謎を映し出す
今週のおひつじ座は、できるだけ心の深いところまで眼差しを届かせていくような星回り。
月夜の晩は、灯を消しても十分部屋のなかでも明るい。「灯を消すやこころ崖なす月の前」(加藤楸邨)もまた、一日の終わりに月を仰ぎながら、何かを思いめぐらせている句なのでしょう。「こころ崖にす」からは、どこか厳しさを感じますが、「崖」とはまず垂直的な落差であり、またさまざまな地層の積み重なりでもあるのかも知れません。
前者については、これから自分が喰らいついて登っていく困難の高さや大きさに対する覚悟であったり、その以前と以後とでは生きる位相が違ってしまうような過去の決定的な変節といったことが想像されますし、後者についてはそれらは急に現れたり、偶然起こったのではなく、長い時間をかけてすこしずつ用意され、準備してきたことの顕在化に過ぎないのだというニュアンスを感じ取れる。
いずれにせよ、掲句において作者が自己をみつめる眼差しは深く厳しく、それはどこか秋の涼やかな外気とも地続きであるような感じがします。あなたも、そんな作者のように自身の心の深いところで起きつつある、変節への自覚を深めていきたいところです。
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空白、そして真空
今週のおうし座は、手垢のついた意味の衣で包まれてしまった身体感覚を、もう一度<散乱>させていくような星回り。
たとえば、マンションの隣りの部屋がいつの間にか空き部屋になっていたことに気付いたとして。時間によって差し込む光がどういう風に変わっていくかとか、空中に舞うほこりの気配とか、ここではどう風が動いているか、どんな匂いがしているだろうかと、なんとなく想像しているときの、なんだかホッとするような感覚。
それでいて、これまでの生活から解放された空っぽの部屋が想像するごとに、妙に艶めかしいものに変わっていくような……。
あれは何なのだろうかと考えてみるに、習慣化された日常空間にポコッと空白ができることで、どこかでマンネリ化していた生の意味に破れが生じ、そこにいろんな感覚が触手を伸ばしていくうちに、生命力が生き返ってくるということなのかも知れません。あなたもまた、ある種のディスコミュニケーションのなかで感覚を研ぎ澄ませていくことがテーマとなっていくでしょう。
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回復への希求
今週のふたご座は、切実な願いや祈りを秘かに込めていくような星回り。
「黒猫の子のぞろぞろと月夜かな」(飯田龍太)で詠まれているのは、親猫のあとに続いて歩く、何匹もの黒猫の子どもたち。月の美しさに浮かれているのか、それとも月のもたらす不思議なちからに突き動かされているのか。「子のぞろぞろと」では、作者の笑みや驚きが率直に現われていて微笑ましく思えますが、案外この句が立っている場所は深いように思います。
もともと日本では平安時代初期の書物に天皇が黒猫を飼っていたという記述があったり、江戸時代にも「黒猫を飼うと結核が治る」とうわさが広まって黒猫ブームが起きたりと、もともと縁起のいい存在とされ、重宝されてきた歴史がありました。
俳人の四男であった作者には、兄たちが病いや戦争で次々と亡くなった結果、父の跡を継いで俳人となったという経緯があり、掲句もまたそうした父と子をめぐる複雑な歴史を背景とした、日常の平安への祈りや願いが込められているのでは。あなたもまた、自身の傷ついた魂の回復や癒しといったテーマに取り組んでいくことになるかも知れません。
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レッツ連帯活動
今週のかに座は、微妙な差異を活かしあう連帯性に基づいていこうとするような星回り。
多くの心理学者が、人間的個我の有機的統一体を象徴するものとして、樹木を使ってきました。そして西洋的とりわけアメリカ人においては、「個人」というのは、もっぱら背が固くて、真っ直ぐで、ひときわ目立ってそびえている、というものであるのに対して、日本の伝統的な庭園では、むしろ横に広がって延びていたり、枯れ木も組みこまれていたりなど、木々はそれぞれ隣り合った木々と調和ある均衡を保つものとして存在しています。
つまり、日本ではどうやら個というものは、緊密な集合関係のなかでの、質的差異を意味するものであって、独立して離れているとか、際立っているということではないんですね。
松の小枝の松葉のように、一見すると互いに非常に相似ているという場合に限り、日本では、そのひとつひとつがほんのかすかに、繊細に異なっているということで真の個別性が成り立っているのだと考えられているのであって、それは西洋において単一性や孤立性のあらわれとして見なされる個別性ということとは、かなり違っているのかも知れません。あなたもまた、そうした日本なりの個性の発揮の仕方ということに立ち戻ってみるといいでしょう。
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特別な交換の実行
今週のしし座は、騙し絵のごとく、視点の切り替えとともに異なる景色がみえてくるような星回り。
「闇の夜は吉原ばかり月夜かな」(宝井其角)は、江戸時代の遊郭であった吉原を題材とした、いかにも遊蕩児だった作者らしい一句。自然に読もうとすれば、真夜中の江戸市中は月もなく真っ暗な闇夜であるが、ここ吉原ばかりは煌々と灯りが灯って、まつで月夜のようであるという賑やかな意味に取れますが、どうも掲句はそれだけでは終わりません。
「闇の夜は/吉原ばかり月夜かな」で切れば先の通りなのですが、これを「闇の夜は吉原ばかり/月夜かな」で切ると、その意味するところががらりと変わってくる。月が煌々とその光がみなに等しく注いで、やすらぎをもたらすなかで、吉原ばかりがその恵みを受け取ることができずに闇に沈んでいる。
これは、江戸時代の吉原の遊女の平均寿命が二十歳程度だったことや、当時の記録などから、非常に粗末な食事しか与えられていなかったことなどを考えると想像がつくのではないでしょうか。吉原にさかんに出入りしていた作者は、ただ遊んでいただけでなく、そういう事情にも自然と通じていたはず。あなたも、まずは一面的にではなく多角的に物事を見通していくことが課題となっていくでしょう。
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後ろ向きのジャンプ
今週のおとめ座は、赤ん坊のような、からっぽの全開状態へと近づいていくような星回り。
神秘体験が神秘たりえるのは、一方でそれを「神秘」として排除してしまえる強固で理性的な現実世界があるからですが、現代ではそうした「現実社会」そのものがゆらいでいた上に、一連のコロナ禍でますますその輪郭が曖昧になるどころか、すでに破れが生じているように思います。
いずれにせよ、時代は「現実」がさらに大きくゆらぐ方向に向かっていくでしょう。そこではもはや「神秘体験」は奇跡でも不思議でもなくなり、むしろ「現実」が現実であることの方が奇跡的であると感じるように、感性や身体性もまた変化していくのではないでしょうか。
時代の変化というのは、いつだって言葉が追いついてくる以前の、身体的反応のレベルで起こっているのであって、少なくとも「時代を生き抜く知恵」とか「サバイバル術」といったものも、そこから組み立て直していくべき。あなたもまた、大脳的な知の領域でこねくり回してしまうのではなく、身体性のレベルで時代のゆらぎに適応していくことがテーマとなっていくでしょう。
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苦しみにひかりを当てる
今週のてんびん座は、心の奥の方がすーっと透き通っていくような星回り。
「秋彼岸濯(ゆす)ぎ慣れたる川瀬あり」(友岡子郷)という句に使われている「彼岸」とは、サンスクリット語の「波羅密多(完全な修得)」から来た言葉。すなわち、迷いと煩悩の世界である此岸から離れた向こう側の世界(悟りの世界)である彼岸へと到達できるという意味です。
流れがゆるやかな川瀬を見て「濯ぎ慣れたる」とは、もはや現代人には想像もつかない連想ですが、洗濯機が登場する以前は川で洗濯をしていたのであり、掲句もそれが習慣だった頃を思い出して詠まれたもの。
秋も深まってくると、手を浸す水の感触もひえびえとしてくる。親しさや懐かしさとともに、住み慣れた地で過ごした月日や記憶のなかの情景が、不意に鮮やかに蘇ってきたのでしょう。かつてうごめいていた情念は薄らぎ、過去の記憶にこれまでとは別な方向から明るいひかりが当たったのかも知れません。あなたもまた、水澄みそめる秋の水のように、意識のひかりを遠くへと届かせていきたいところ。
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漫をひっくり返した自由
今週のさそり座は、我が身をすすいで洗い清めていくような星回り。
かつて宮沢賢治は、友人への書簡のなかで次のように自身の胸中を述べていました。
「私のかういふ惨めな失敗はただもう今日の時代の一般の巨きな病、「漫」といふものの一支流に過(あやま)って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ……」
賢治は自分が陥っていた状態をあえて「漫の病」と呼び、若い友人にそうならないよう諭してみせたのです。SNSが発達した現代社会は、賢治の時代と比べ、はるかに「漫といふもの」に身を加えやすい環境にありますし、有名になることそのものが自己目的化している人が多いように感じますが、「漫」とはどんなに気を付けていてもへばりついてくるものなのかも知れません。
あなたもまた、賢治くらいの姿勢で自身の「漫の病」を見詰め直していきたいところです。
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素朴に、力強く
今週のいて座は、異端を恐れず、人としてあるべき姿勢を追求していくような星回り。
それはまるで「月に飽く夜道を寒き欠びかな」(佐久間法師)という句のよう。月のいい晩に、夜道を戻って来ている。はじめは月の清らかな光に浮かれるような心持ちもあったけれど、次第にそれにも飽きてきて、退屈さゆえか寒さゆえなのか分からないが、しきりにあくびまで出てきた、というのです。
やたらと風流がる人ほど、秋の季節の満月に関しては、否が応でもそれを面白がらなければならないといった伝統にがんじがらめになりがちなものですが、掲句のような反応をあえて句に詠んでみせたのは、それもまた月並な反応でおもしろくないよ、ということを言いたかったのかも知れません。
これは燃えるような熱情とか、鋭く突き殺すような批判精神といったものとは異なれど、かといって単なる冷淡や無関心といったものではなく、むしろ、極めて素朴でありながら、底のほうに静かで深い情を湛えたものなのではないでしょうか。あなたもまた、情緒ということの機微を自分なりに深めていきたいところです。
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生きることに素直
今週のやぎ座は、起こるべくして起こった必要なことを、素直に受け入れていこうとするような星回り。
映画『独立愚連隊』は、日中戦争も終わりに近い北支戦線が舞台となった戦争映画。主人公である軍曹が、馬賊や国民党軍や八路軍(華北地方に展開していた中国共産党直系の部隊)などの色々な戦力が行き交うところを、ひとりで馬で旅をしているところから始まります。
同行した日本兵が「ひとりで旅して怖くないですか」と訊くと、「危険なことが近づくと、手のひらがムズムズしてくるんです」と笑ったあと、「そしたら一目散に逃げ出す」と言う。今いるところから一目散に逃げ出すとか、少なくとも進むルートを変えるとか。これは映画のワンシーンではあるんですが、そういうことで命が助かったということが、実際にたくさんあったのではないかと思います。
それは生き死にがかかっていたから出来たことでもある訳ですが、逆に現代人のように「エビデンスは?」なんて言ってふんぞり返るような野暮なことを言う人なんて戦場にはいなかったのでは。あなたもまた、今後の自分が進んでいく方向性について、何らかの大きな決断が促されていきやすいはず。
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遠くとフッと繋がるということ
今週のみずがめ座は、何でもないようなシチュエーションで、宇宙的な感覚を養っていくような星回り。
「苔寺を出てその辺の秋の暮」(高浜虚子)は、京都を訪れ、実際に苔寺に遊んだ際に詠まれた句。夕方になって拝観時間が終了し、ちょうど苔寺を出たあたりの「その辺」に、作者は何かを感じた。
ただ、それはこれといった何かがあったという訳ではなくて、むしろ特別なものは何もないにも関わらず、それ以前にはなかった感興が琴線に触れてきたということなのでしょう。閑散としていながらも、どこか清らかで、夕闇に漂う空気はそこはかとなく宇宙的―。
そんな寺の周辺のなんでもない風景に宿った情緒を想像させてくれる一句と言えますが、それもこれも「その辺」という漠然とした日常語のチョイスと言葉の置き方による妙に他ならないように思います。あなたもまた、不意に自身の日常に遠くからやってきたものが紛れ込んでいるのを感じ取っていくことでしょう。
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気付いたらデクノボー
今週のうお座は、何ら損得勘定の働いていない、阿呆なことを言っていくような星回り。
文芸評論家のミハイル・バフチンは、ドフトエフスキーの長編小説の基本的特徴は「ポリフォニー」、すなわち「自立しており融合していない複数の声や意識、すなわち十全の価値を持った声たちによる対話的交通」にあるのだと言いますが、その典型例として挙げられていたのが『白痴』のムイシュキンという人物でした。
この小説でムイシュキンは過剰なまでに「ばか正直」な人物として造形されている一方で、心に染み入る言葉、つまり「他者の内的対話のなかに自信をもって能動的に介入し、その他者が自分自身の声に気付くのを手伝えるような言葉の持ち主」なのだと言います。
分かりやすく言えば、この人は宮沢賢治のいう「デクノボー」なのであり、人のじゃまをするのが大嫌いで、またほめられようとすることもありません。つまり、小賢しい思惑がない分だけ、他人の本質をすっきりと見通す力を持っており、ぼんやりしているようで、ぐいっと相手の心をつかむコメント力の持っている、ということなのでしょう。あなたもまた、そんなムイシュキン公爵に図らずとも近づいていくようなところがあるかも知れません。
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