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インテリアスタイリストの草分け・吉本由美が振り返る、70年代の東京と雑誌文化 「いま思えば当時はとても自由だった」

2021年09月19日 12:21  リアルサウンド

リアルサウンド

吉本由美が振り返る東京、そして地方移住

 7月下旬、吉本由美氏の最新エッセイ集『イン・マイ・ライフ』が刊行された。吉本氏といえば、『アンアン』『オリーブ』『クロワッサン』『エル・ジャポン』などマガジンハウスの雑誌を中心に、1970年代から活躍した雑貨・インテリアスタイリストとして知られる。


 また、暮らしのスタイルや猫、動物園に水族館、雑草などなど、その時々の関心に応じてテーマを変え、繰り出されるエッセイの数々に魅了されてきた人も多いはずだ。


 『イン・マイ・ライフ』は、前半に東京での若き日々のこと、後半は郷里の熊本に帰ってから現在のことと明確に2つに分けた構成を取る。「スタイリスト」といえば誰もがファッションしか思い浮かばなかった時代にインテリアを手がけた吉本氏の先見性・独自性は、70~80年代の東京の空気の輝きとしっかり通じていて、カッコいい先輩として眩しい。そして44年住んだ東京を離れ、熊本に帰る時の迷いと決断には、ヒリヒリするようなリアリティがある。


 8月19日、吉本さんへの電話インタビューは、現在の熊本での暮らしを象徴するような、あるハプニングで幕を開けた。(北條一浩)


――もしもし。北條です。


吉本由美(以下、吉本):今日はほんとにすみません。まさかこんなことになるとは……(※電話で行うことになっていたインタビュー。当初の予定は14時からだったが21時スタートになった)。ブレーカーが落ちてしまったので電気屋さんに来てもらったんです。ところがいくら調べてもブレーカーが落ちた原因がわからない。「今度は建築関係の人と一緒にうかがいます」ということでひとまず今日は終わりました。


――えっ。じゃ、いま電気点いてないんですか?


吉本:リビングルームの天井灯は点いてません。卓上ランプみたいなのだけ。おしゃれな間接照明(笑)。今回は電気だけど、2週間前は排水溝がめちゃくちゃになっていて、取り替え工事をやらないといけないと言われました。その前は屋根。考えたら家のメンテナンス料金、300万円以上使っているんです。建てて65年くらい経っている古い家だし、ああ、歳取るってこういうことかと。まるで自分を見ているよう。


――マンションに移る気はないんですか?


吉本:移りたくても、「リバースモーゲージ」(※注)を始めてしまったから。この家を担保にお金を借りているので、家が売れないんですよ。なんて最初からグチばかりでごめんなさい(笑)


■タイトルは平野甲賀の書き文字をイメージ


――『イン・マイ・ライフ』はまず横須賀拓さんの装丁と徳丸ゆうさんのイラストレーションがステキですね。カバーの表側は若い時の吉本さんを思わせるイラストレーションで、裏は現在という。


吉本:装丁については、横須賀拓さんにはほんとうに迷惑をかけてしまいました。というのも最初はこの本、2年前から作ることが決まっていて、平野甲賀さんが装丁することになっていたんです。ところが私がなかなか書けなくて、平野さんから「あんまり待たせたら俺は死ぬよ」と言われたことがありました。そうしたらそれがほんとに……(※編集部注:平野氏は2021年3月に逝去された)。それで急遽、横須賀さんにピンチヒッターをお願いすることになりました。平野さんの後任でしかも時間があまり無いなんて、ほんとにひどい依頼の仕方だったと思います……。それなのにサッと軽快に仕上げてくださった。


――そんな経緯があったんですね。さすが横須賀拓さん。「イン・マイ・ライフ」というタイトルがまたドンピシャですが、スッと決まったんですか?


吉本:これも平野甲賀さんと関係があって、あの書き文字が大好きなんです。そこであんまり長いタイトルだとうるさいと思って、内容をズバッと表すにはこれかな?と。平野さんの書く文字の絵も浮かびました。だから、ジョン・レノンの歌詞とか、正直あんまり関係ない(笑)。


――なかなか書けなかった、というのは、後半の熊本での現在のことが書けなかったということですか? 


吉本:そうです。ずっと家に居るから動きというものがないでしょう。庭のことや、仕事どうしようと悩むばかりで展開がない。高年齢の人が、こうこうこういう経験をして、いまこうなってます、みたいな本はいっぱい出てますけど、皆さんステキな生活をなさってるわけで、私みたいに貧乏でたいへんな暮らしを書いてもしかたないな、と。


――でもそういう「高齢になってからのステキ生活」みたいな本は他にいっぱいあるわけです。いまはむしろ、「貯金が全然ないけど、気が付いたらこんな歳になっちゃった」とか、コロナ禍で東京や首都圏を離れる人も多いわけで、『イン・マイ・ライフ』の当初の意図とは違うかもしれないけど、図らずもタイムリーな部分がすごくあると思います。


吉本:それはそうかもしれない。たまたまね。


■いろいろなことが始まる気配があった「東京」


――この本に書いてある60年代後半から70年代の東京の空気は、ほんとに輝いているように読めます。


吉本:学生運動もあったし、いろいろなことが始まる気配がありました。東京のあちこちで「動いてる」という感じ。あと、いまにして思えばとても自由だった。当時は「自由だ」とは思っていなかったけど、いまみたいに行き詰った東京を見ていると、「ああ、自由だったんだな」と思います。街全体がのびのびしてた。バブルまではそうだったと思います。自分なんか若い時はめちゃくちゃできたのに、いまはコロナ禍も不況もあって、外で容易にお酒も飲めないし、若い人、行くところが無いですよね。楽しみはなんだろう。


――銀座のみゆき通りを歩いていて『スクリーン』編集部を見つけ、いきなり階段を駆け上がって入って行っちゃう吉本さんの行動力に驚きます。そもそもそういう性格と言ってしまえばそれまでかもしれないけど、やはり時代と、当時の東京の空気感みたいなものを読んでいて感じるんです。


吉本:もう少し私に常識があれば、いきなり会社に行って「働きたい」と言ってもダメだということはわかったと思うけど(笑)、映画は小さい頃から好きでよく観ていて、『スクリーン』もずーっと愛読していたから、「ここが編集部か!」と興奮してしまって。


――中学時代からよく映画館に行っていたとありますね。熊本市はすごく映画館の多い街、という記述も。


吉本:ほんとによく観てたし、映画館は当時、九州でいちばん多かったらしいです。小さい頃はもちろん親に連れて行ってもらったけど、中学になってからは基本、一人。


――そしていざ『スクリーン』編集部に入ると、取材などの思い描いていた仕事は回ってこなかったんですね?


吉本:そう。でもよく考えたら、若くていちばん下っ端で経験もないから、いま私が上司でもそんな子にあれこれ頼みませんよね。でも、理解できなかったのは、当時、取材に行くのは必ず男と決まっていて、それは「なんで?」と思いました。でも、「どうして女子じゃダメなんですか?」と編集長には言えなかった……。とはいえ編集部の空気は楽しくて、おじさんばかりだけどみな仲がよかったんです。出張校正で2日間缶詰なんてなると、まるで親戚のおじさんたちと温泉に来てるみたい(笑)。そういうのですごく救われてました。そしてなんと言っても、たくさんの映画を毎回タダで観ることができる。


――『スクリーン』編集部を出て、やがて吉本さんはインテリアスタイリストとして『アンアン』『オリーブ』などで仕事されるようになります。マガジンハウスのほうはどうでしたか?


吉本:こちらは1970年時点で編集部も半分は女性だった気がします。それに出入りしているスタイリストはみな女性だから、編集部は「女の城」という感じ。


■「インテリアスタイリスト」を名乗って


――「スタイリスト」という存在の当時の様子に興味があります。


吉本:高橋靖子さん(『表参道のヤッコさん』等の著者でもある)が、確定申告の申告書に「スタイリスト」と書いたのが、スタイリストが日本で職業になった最初だと言われています。それから脈々と、ファッションの人がスタイリストと呼ばれるようになるんですね。私は部屋づくりがすごく好きで、インテリアを始めた時は、編集長なんか「おまえの肩書はなんだろうね」と困って、最初は「インテリアコーディネーター」と言ってました。ところがそう名乗っていると、住宅関連の人からどんどん電話がかかってくる。それでやっぱり「スタイリスト」でないとマズイけど、ファッションに間違えられないように、「インテリアスタイリスト」にしました。


 でも一度、原由美子さんに「ファッションのほうもやってみない?」と言われたことがあるんです。で、一度だけ原さんと一緒にやったけど、やっぱり「イヤだ」とハッキリ言いました。自分でこのコーディネートが好きだと思っても、モデルが着ると自分がその服に対して持っていた雰囲気が変わっちゃうんですね。私はやっぱり家具やモノのほうがいいなと。


――当時は超忙しかったですよね?


吉本:最初の頃は、インテリアや雑貨はいまみたいにもてはやされてなくて、洋服のシーズンの狭間、雑誌でつなぎの時にしか仕事がありませんでした。だから、インテリアスタイリストだけじゃ食べていけないからライター仕事もするようになりました。やがてどんどんインテリア、雑貨ブームになってからは確かに忙しかったかもしれません。


■62歳にして熊本へ、決心と苦労


――熊本に帰ると決め、東京の自宅で荷造りしている最中に、吉本さんはあの東日本大震災に遭遇します。これも図らずも象徴的なシーンです。62歳の時、44年住んだ東京を離れ、故郷の熊本の実家に帰る、その時の決心についてあらためて聞かせてください。


吉本:還暦ってやっぱり一つの区切りじゃないですか。だから60歳の時、「もうなんか終わりのような感じだな」と感じたんです。老いた両親の介護で東京―熊本を頻繁に行き来してましたから、お金も体力も気持ちもどんどんすり減ってくる。でもそう簡単に決心できないから、そこから決断まで2年かかりました。しかし、62歳の当時はまだ「仕事しなきゃ」と思ったり、荷造りする元気もあったから良かったんです。いま私73歳だけど、73ではやれなかったと思います。


――プロフィール写真がありますが、抱えてらっしゃる黄色い花は本に出てくるミモザですか?


吉本:そうです。ミモザ。


――今のご自宅は写真を拝見する限り、お庭がだいぶ広いですね。


吉本:広くて、しかもいろんな雑草がたくさん生えてるんです。手入れに体力、人にお願いするにはお金。若い時はもちろん貧乏だったけど、歳取ってまでこんなにお金で苦労するなんて思わなかった。まあ貯金してない自分が悪いのだけど。私、とにかく貯金ができないんです。貯金と日記だけはどうしてもできない!


――(笑)。 わかります!


吉本:これでも何回かトライしてるんです。でもダメ。だから本にも書いたけど個人年金ね。これをやっててほんとに良かったと思ってます。解約したら損することになるから、これが貯金の代わりになります。だから私みたいに意志が弱くて貯金できない人にピッタリ。払ってる最中は葛藤があるんですよ。「こんなのは払ってどうなる?」とブツブツ言ってました。でもいま、「やめなくてよかった!」と心から思ってます。


――いまこのインタビューを読んでくれている若い方には特に言いたいですね。ところで貯金ゼロの吉本さん、何にそんなにお金を使ったんですか?


吉本:私はとにかく家賃です。いつも都心に住んでいました。国立競技場のすぐ隣に住んでいた時もありました。Jリーグができた時(1993年)もいたので、もうたいへん。競技場に入れない人たちが千駄ヶ谷の駅からずーっと騒いでる。好きな部屋に住みたい欲望が強くて、私にはぜいたくかな? と思いつつあきらめられないから、いつも家賃のために仕事している感じでした。「貯金ほぼゼロ」といったら兄弟は腰が抜けるほど驚いてましたね。というのも私は相当稼いでいると思っていたらしいんです。「なにやってたんだ」と兄は怒ってました。


――読者だって驚いている方、多いと思いますよ。ずっと活躍していたインテリアスタイリストの吉本由美さんって、こんなにお金無い人だったの!? って。でも、そのことを悔やんでいるわけでもない?


吉本:うん。だって好きな部屋で楽しい時間が過ごせたのだから。タイプの違う部屋を転々としました。家賃が高くても、私には分不相応だと思っても、「この部屋に住みたい」という欲望がいつも勝ちます。


■欲望にいつも忠実だった


――やりたい! という気持ちにいつもストレートなのが本からよく伝わってきます。本気でバーテンダーを本職にしようと思ってたんですよね?


吉本:本気でした。でも10年やって身につかない。まずお酒の名前がなかなか覚えられないんです。カクテルの作り方も覚えられない。お客さんの名前も顔もどうしても……さすがにこれは「合わないんじゃないか」と。そもそもバーは基本、お客さんが来るのを待つところじゃないですか。この「待つ」という行為がどうにもダメ。10時すぎても誰も来ないとイライラしてしまって、マスターと「もう閉めようよ、来ないよ」「ダメだよ、これから来るよ」なんて。私、とにかく受け身がイヤなのかな(笑)。


――バーテンダーになりたかったのは、あこがれから?


吉本:いろんなバーに行って「かっこいいな」と思ってました。だいたい男の人だけど、ある時、杉並だったかな? 古いバーに行ったらバーテンダーがおばあさんだった。着物着て。「わあ」と思って話を聞かせてもらったんです。「私にもやれるでしょうか。もうけっこういい歳なんですが」と言ったら、「あら、死ぬまでやれるわよ。足腰に来たら座ってやればいい」って。でもどうやら向いてないらしいと思い、それでも「お手伝いのプロ」でいいやと決めて10年続いたのは、賄いご飯がとにかくおいしいかったから。しかも居るあいだ飲み放題でしょ(笑)。


――しかしこうやってお話うかがってると、もちろんその時々でよくよく悩んだり考えたりされたと思いますが、失礼ながら行き当たりばったりとも言えますね(笑)。あるいはその時の欲望に忠実。


吉本:そう。欲望にいつも忠実だったと思います。


――この本でぼくがいちばん好きな章は「ヒルデガルドの長いお話」なんです。ほとんど顧みることもなく手放したチェロがまた戻ってくることになって、いまはそれを毎日熱心に練習されている。実に不思議な縁です。


吉本:東京にいる時、周囲の環境のこともあって夕方しか練習できなかったので、いまもその体質になってて、だいたい夕方に練習しています。ただ一つ問題が発生してしまいました。家まで教えに来てくださっていた先生が、お母さんの介護のために引っ越して、来られなくなったんです。家までわざわざ教えに来てくれる人なんてそうそういないから学校に行かなきゃいけないんだけど、私はクルマを持っていなくてタクシーで行かないといけない。大きなチェロを抱えてタクシーに乗るなんてイヤだなあ、と。で、誰に聴かせるわけでもないし、独学でいいかと思っています。あとね、私、手が小さくて弦の正しい位置に指が届かないんです。これは大きなダメージで、必ず音がズレてしまう。そのハンディがあり、しかも憶えが悪いからいつも譜面を見ていないといけない。良い音が出ない自分に腹が立つけど、次こそは出るかも、と思うからあきらめず、そしてやっぱり楽しいんです。集中すると2時間はやるけど、これがあっという間で、「いけない、もうこんな時間、夕飯の用意をしないと」って。


***


 今日のインタビューで、吉本さんはずっと、後悔しない生き方をしてきたのだな、と感じた。人はもちろん一人では生きられないから吉本さんも多くの人と親しく係わり、助けもあったはずだが、「やる/やらない」を決められるのは自分だけ。吉本さんと同世代、中高年の人ももちろんだが、いまいろいろ迷っている若い人にこそ、この『イン・マイ・ライフ』を読んでほしいとあらためて思った。 


※注:リバースモーゲージ
自宅を担保に金融機関から借金をし、その借金を毎月など定期的に年金というカタチで受け取る仕組みのこと。自宅は持っているけどいまは現金収入が少ない、という高齢者が、自宅を手放さずに収入を確保できる。


■吉本由美(よしもと・ゆみ)プロフィール
1948年、熊本市生まれ。作家、エッセイスト。10代で東京に出て、セツ・モードセミナー卒業後、洋画雑誌『スクリーン』編集部に。大橋歩さんのアシスタントを経て、「アンアン」「クロワッサン」などで雑貨・インテリアスタイリストとして活躍する。やがて執筆活動に専念するようになり、2011年から故郷の熊本に在住。『吉本由美〔一人暮し〕術・ネコはいいなア』(晶文社)や『雑貨に夢中』(新潮文庫)、『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(村上春樹、都築響一との共著、文春文庫)、『みちくさの名前。雑草図鑑』(NHK出版)、『キミに会いたい 動物園と水族館をめぐる旅』(新潮社)など著書多数。現在は熊本発の文芸誌『アルテリ』(橙書店アルテリ編集室)などに寄稿している。


(取材・文=北條一浩)