2021年09月04日 08:11 弁護士ドットコム
「自分にとって必要のない命は、僕にとって軽いんで。ホームレスの命はどうでもいい」。メンタリストのDaiGoさんによる差別的発言が波紋を呼んだ。ホームレスという大きな主語を使って話された内容は、漠然としたイメージだけで語られていた。
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大阪市西成区にある「日雇い労働者の街」、通称・釜ヶ崎は、野宿者(「ホームレス状態」の人)も少なくない。
そこに根付いて音楽活動をしているまちゅこけさんは「西成の歌姫」と呼ばれている。初めてライブをしたときには飛んできたヤジに逆ギレをし、出演者でありながらイベントを出禁になった過去がある。
それでも釜ヶ崎で歌いたいと願い、10年という歳月をかけて復帰。本を読み、ライブハウスや立ち飲み屋で働く人に話しを聞き、街に住む"おっちゃん"たちと会話をするうちに、釜ヶ崎という街が抱えてきた差別とそこに住む人の背景に目がいくようになった。
「きれいごとばかりではないけれど、釜ヶ崎は人を排除しない街」。そう語るまちゅこけさんは、今日も「変わらず明日も愛し合おう」とメッセージを発信し続ける。(成宮アイコ)
――まちゅこけさんが西成に住むようになったきっかけを教えてください。
高校を出たら音楽をやろうと決めていたのですが、実家を出て一人暮らしをはじめるときに、一番生活費が安かったのが大きな理由です。当時は朝5時から路上でいろんなものを売る"朝市"があって、その前から買い物に行っていたんです。商品には、値段が書いていなくて、売っているおっちゃんとその場で交渉して決まる。そういったやりとりも含めておもしろかったですね。
おっちゃんもわたしも話すのが好きだからどんどん会話がふくらんでいく。その距離感やコミュニケーションが楽しかったです。服もすごく安く買えたし、レコードとかCDとかおもちゃとか、とにかくフリーマーケットみたいな感じで掘り出し物がいっぱい。オークションですごく高く売られていて買えなかったバンドのオフィシャルグッズを破格の値段で見つけたこともあります。
だから、引っ越すと決めたときに、周りから「こわい場所やで」と言われたりしましたが、わたし自身は安く買い物ができる楽しい場所という印象をもっていました。近くに住んでいる人のほうが「昔は暴動があった街」といったイメージがあるようで、「あの街には近寄らないほうがいい」と思っているかもしれないです。
――遊びに行くうちに、なぜ定住しようと思ったのでしょうか?
物価が安いし場所も便利、それが単純な理由なんですけど、西成で一番好きなのは街中に音楽があふれているところです。立ち飲みとライブハウスをしている「難波屋」さんをはじめ、毎日のようにあちこちでライブをしていて、しかも投げ銭で気軽に見に行くことができる。年に何度もお祭りがあって音楽が流れる。実際にミュージシャンも多く住んでいる街なんですよ。
人と人の距離感が近いし、商店街もいっぱいあるし、いろんなものが安く買える。西成のなかでも特に釜ヶ崎と呼ばれる地区は、日本の中でも独特な雰囲気があるのかなと思います。釜ヶ崎の中心地にある通称「三角公園」でやっていたお祭りに行ったときには驚きました。
街に住んでいるおっちゃんたちがいて、遊びに来た若い人や実行委員がいて、いろんな人があふれている。初対面でもやけに話しかけてくる人が多いし、会話も多い。こんなにいろんな年齢の人が一つのお祭りを一緒に楽しむことができるんだ!と衝撃的でした。
一番最初に西成に歌った日も、出番前におっちゃんたちと話したことを覚えています。「どんな歌を歌うねん? 安室奈美恵みたいなイマドキの音楽やったら聴かへんからな」って言われて、「わたしはわたしの歌を歌うし!」って強気で返しました。若気のパワーでとがってたんです(笑)。その距離感は純粋におもしろかったです。あの街が持つパワーですね。
母も初めは反対していたのですが、今では、わたしが西成でライブするとサプライズで観に来るようにもなりました。西成って言っても、たくさんの人が住んでいるし、普通の住宅街もあるし、実際は、ほかの街とは何も変わらないんです。
――今でこそ、音楽フェス「釜ヶ崎SONIC」を主催されていますが、西成での音楽活動は始めから順調だったのでしょうか?
実はわたし、最初は全然受け入れてもらえませんでした。初めて三角公園のお祭りに出たときに出禁になったんです。歌い始めたら、ヤジがたくさん飛んできたし、みんなほぼ聴いていなかった。そんなライブは初めてだったから驚いて、ヤジに対しても、「なんでそこまで言われなあかんねや!」って逆ギレをしてしまったんですよ。そうしたら、「おまえはこの街の人を差別しに来たんか?」と言われて大きな問題になってしまったんです。実行委員の人には「もう来るな」と言われました。
――そこで諦めてしまわずに活動を続けたのはなぜでしょうか?
悔しかったんですよね。自分では差別なんかしてへんって思っているのに。そんなの逆差別だって思ったりもしました。だけど、西成のライブハウスや立ち飲み屋さんでライブを続けて、いろんな人に出会っているうちに、「差別しに来たんか?」って思われても、仕方なかったのかなと感じるようになったんです。そう言いたくなるくらい、長い間、差別をされてきた人も多い街だと知ったんです。自分はこの街の人のことを何も知らなすぎました。
ただ、人は自分が差別されたからといって、自分も誰かを差別をしないわけではないんですよね。差別が差別を生むこともある。だから、人に街の歴史を聞いたり本を読んだり。話しかけてくれたおっちゃんから話を聞くこともありました。震災で仕事がなくなって引っ越してきた人、家庭環境が悪くて家から逃げ出してきた人、親戚づきあいがなくて絶縁状態で孤独な人・・・みんな何かしら理由があってここに住んでいる人も多かったんです。
人それぞれの事情があってみんないろんな背景がある。三角公園で歌う人って、街で働いていたり、街で活動をしていたりと、普段からおっちゃんたちと関わっている人が多いんです。音楽自体も大事だけど、みんなまずは人間を見ているんですよね。
それを知ったら、「もう来るな」って言われたけれど、わたしは釜ヶ崎で歌いたいと思ったんです。いろんな人に手助けもしてもらって、お祭りでビールの売り子をしたり、別のイベントに出るようになり、時間をかけてだんだんと顔を覚えてもらううちに街の人と距離が近くなっていきました。そうして10年くらいたって、ようやくお祭りに復帰できたんです。
――実際にまたお祭りに出られるようになって、前回受け入れてもらえなかったというこわさはなかったですか?
復帰するまでの間、ずっと街で歌っていたんですけど、西成のことがとても好きになったんですよね。自分の人生で一番多くの人と出会った街だし。三角公園でやっている「夏祭り」と「越冬祭り」というのは、40年以上前から続いているお祭りだし、わたしもこの街に住んで根ざしてやっているつもりなのにそこに出演できへんっていうのは悔しかったんですよね。だから、また出られるときはうれしかったです。もちろん、もう逆ギレしないとは思いました(笑)。
――今では「西成の歌姫」とも呼ばれていますが、ご自身のどういうところが街に受け入れられたと感じますか?
街の曲を書くようになったことで、徐々に受け入れてもらえたのかなと思います。
釜ヶ崎の風景を歌いたいって思うようになり、おっちゃんたちの背中を見て「男は泣いている」という曲を作りました。普段は冗談ばかり言っているおっちゃんが一人で歩いている背中を見たときに、すごく寂しい背中をしていたんですよ。空き缶を集めて大きなリヤカーで運んでいるおっちゃんの背中、あいりんセンターに早朝から並んでいる背中。
仕事の現場あがりでライブに来てくれる人は、「今日はこんな仕事やったんや」とか「昨日まで地方に行ってきててん」とか話してくれます。そしてまた一人の家に帰っていく。"一人きりで帰る安宿の鍵を開ける音が身にしみる"という歌詞があるんですが、「俺もその気持ちわかるわ、歌ってくれてありがとうな」って言ってもらいました。
ほかにも、釜ヶ崎で働いている人へのリスペクトを込めて作った「W.W.W」で、"勇ましい勲章はちからこぶ"と歌ったら、「俺もがんばるわ」って言ってくれたり。街の曲を書くようになったことで、徐々に受け入れてもらえたのかなと思います。自分の音楽が誰かの力になれたんやって思うとうれしいです。「はだかんぼ」という曲の歌詞、"心の底から人間を叫べ"は、まさに街そのものです。みんな身一つで感情をむき出しにして生きている。そういう意味で"はだかんぼ(裸の人)な街"だと思います。
――ある人にとっては距離感が近いことが居心地が良かったり、ある人にはこわいって思ったり。ネットでのイメージだけで偏見を持つ人もいる。それでもいろんな人に街へ足を運んでほしいと思いますか?
西成に住んでるっていうだけで、「どうしてそんなこわい街に?」と驚かれたりします。今はまだ偏見が残っていると思うので、お祭りをきっかけに来てもらえたらいいなと思います。独特な街なので合う合わないもあると思うけれど、普通のライブハウスとは違う雰囲気で音楽を味わってほしいし、まずは街を自分の目で見てほしい。西成を知らない人が足を運んでくれて、街への見え方も変わってくれるとうれしいです。初めて来たミュージシャンも「西成めっちゃ好きや」って言ってくれる方もいっぱいいます。ライブの反応もダイレクトです。
わたしも、三角公園で歌うときは特に気合いが入るんです。自分が今まで一生懸命生きてきたんだ、ということを表現しないと聴いてもらえない。生半可な気持ちではあの場所には立てないです。もし、わたしが明日生きるか死ぬかの瀬戸際にいたら心から感動する歌を聴きたいはずです。一人ひとりの時間は限られているし、人の人生の時間をもらっているんだから、覚悟をもって活動をしていきたいです。
――根強く街で活動を続けて、その風景を歌い続けているまちゅこけさんには、メンタリスト・DaiGoさんの発言はどう映りましたか?
実際に人に出会ってみてほしいです。もちろんいろんな人がいるし、きれいごとだけではありません。だけど、心をむき出しにしてピュアに話をしてくれる人も多い。一人ひとりと会って話をしないと、それぞれの人生があることには気づけないんです。もしかしたら「生活保護」というワードにも偏見が残っているかもしれない。でも、誰もなりたくてなったわけじゃない。そうならざるをえなかった人が大半やと思うんです。だから、直接、現場を見て話さないとわからないことがもどかしいです。
道で会うと、「まちゅこけ、がんばれよ。続けていれば大丈夫やからな」と励ましてくれるおっちゃんがいるんですよ。根拠はないのに、とにかくいつも励ましてくれる。「いつも歌ってるねえちゃんやな」って声をかけてくれる人もいる。とにかく人々が声をかけあって、自分の気持ちを伝え合っています。毎回みんなとじっくり話すわけじゃないけれど孤独ではない街だなと思います。この風景を見てほしいんです。
――きれいごとだけではないとおっしゃられましたが、他人に期待をしすぎて裏切られたと感じることもあると思うんです。それでもSNSで発信されていたように、「変わらず明日も愛し合おう」と思い続けられるのはなぜでしょうか?
釜ヶ崎って、人を排除しない街だなと思っています。悪いことをして逃げてきた人も、仕事が何もなくなった人も受け入れてくれる。ほかの街だったらそういう人は孤立しがちだと思うんですけど、ここは流れ着いた人もいれば、この街を抜け出さなあかんって思っている人もいる。だけど、ここに行けば仲間に会えるっていう場所がこの街にはたくさんあるんです。
三角公園にしても、難波屋さんにしてもそう、人が集える場所がちゃんとある。わたしがもし今からほかの街に行ったとしても、西成と同じくらいたくさんの人に出会えて、声をかけあえる仲間ができるのかなと考えたりします。
西成だからこそ、この街を知っている者どうしの「ふるさと」って思える気がするんです。実際に出会わないとわからない。だから、「わたしたちは変わらず明日も愛し合おう」って思っていたいんです。