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星乃せいこさんによる「毎月の運勢グラフ」も配信しているので、こちらもぜひチェックしてくださいね♡
1ヶ月ごとの運勢グラフ 今週のおひつじ座の運勢illustration by ニシイズミユカ
素足であること、酸いであること
今週のおひつじ座は、いきいきとした感覚を見失わないような在り方を、改めて思い出そうとしていくような星回り。
「『素足』とは、何よりもまず、ひりひりとした新鮮な感受性である。また、正確な平衡の源泉である。総じて、大地の直接の感覚である。(中略)さらに、大地の感覚は『地下の異次元世界に通じ』その底から患者を仰ぎみる感覚をもさずけてくれる」
そう書いていたのは、霜山徳壐の『素足の心理療法』の書評を書いた精神科医の中井久夫でした。書名の意味するところは、技法以前の著者が心理療法に臨む「通奏低音」において、「病む者へのつつましい(小文字の)畏敬」なのではないかとも述べていましたが、これは今のあなたにとっても大事なことなのではないでしょうか。
「『靴をはかない』ということは不偏不党という気楽なことではない。自分の素足で歩くということは『雪の上を裸足でよろめいて行く』と述べられてあるとおり、何によっても守られていないということである。」あなたもまた、いま自分がどんな守りや保護を脱ぎ捨てようとしているのか、改めて思い定めていくことになるでしょう。
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滝と花と言葉と
今週のおうし座は、視点の転回によって、まったく異なる在り方に通じていくような星回り。
「瀧壺に瀧活けてある眺めかな」(中原道夫)は、瀧壺(たきつぼ)を花をいける花器に見立て、そこに滝がいけられているという斬新な発想を持ち込んだ一句。さらに面白いのは、作者はそれをさらに「眺め」ているのだという。さながら造化の主と一体化せんとするような、大胆かつ壮大な試みですが、別段力が入っているように感じさせない手さばきも絶妙です。
あるいは、とめどなく流れ落ち続ける「瀧」は、さながら心のおしゃべりを止めることができない私たちの因果な性(さが)そのものとも解釈できますが、それさえもこうした句に触れると、肉体という器にいけられた花のように新鮮で、いきいきとした生命力の現われのように感じられてくるのでは。
あなたもまた、日々の生活の中にそうした透徹した「眺め」を挿入していけるかが、問われていくことでしょう。
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わたしは苔になりたい
今週のふたご座は、ひとつ重荷をおろして、楽になっていこうとするような星回り。
倉敷で蟲文庫という古本屋を営む田中美穂さんのエッセイ集『わたしの小さな古本屋』に入っている「苔観察日常」というエッセイなかに、次のようなくだりが出てきます。
「ところで苔というのは、このような乾燥した状態のまま、当分は『眠って』いるのだそうで、何かのきっかけで条件が揃えば、またなんでもない顔をして、再び胞子を飛ばし、発芽して、それがまた胞子体をつくり……というふうなライフサイクルを繰り返すこともできるというのです。(中略)そして、それがいまもこうしてわたしたちの身の回りで普通に生きているのを見ていると、永瀬清子の『苔について』という詩にあるのですが、『あぁ、人間の負けだなあ』という思いがします。」
「あの人に負けてるなぁ」ではなく、こんな風にときどき思いっきり負けを認めてみることが、私たちには必要なのではないでしょうか。だって、「あの人」くらいだと、本当は負けを認めることができていないし、かえって苦しくなりますから。あなたも、ただぶらぶらするだけの時間を大切にしてみるといいでしょう。
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水底にたたずむ
今週のかに座は、ただシーンとしてそのへんに佇んでいるような星回り。
「これ以上澄みなば水の傷つかむ」(上田五千石)の中に登場する「水澄む」とは、秋の季語。実際季節が秋に変わってくると、夏よりも水が澄んでくるように感じられるのですが、それは秋になると空が高く広く透き通ってくるのと呼応しているのでしょう。
掲句においてもまた、作者の前にはよく澄んだ水がある。ただ、具体的には明示されていおらず、それどころか、「傷つかむ」と普通は水に使わないような表現さえ出てきます。そうすると、目の前にあるのはこれ以上ないほどに透き通っているか、直接触れてはいけないほどに神聖であるか、そうでなければ、こちらから必要以上に働きかけてはならないくらいに繊細な人間が目の前にあるかの、いずれかであるはず。
つまり、ここでは季節の移ろいと人間の内面が直接つながっている訳ですが、この目の前の人間とは、もしかしたら作者自身のことなのかも知れません。あなたもまた、特別大げさなことをしようとするのでなく、何気ないゆらぎのなかで自身の繊細な部分を整えてみるべし。
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近代合理主義の克服
今週のしし座は、複雑なこの世界をその本来の複雑さのまま把握し、示していこうとするような星回り。
哲学は世界記述の新しいジャンルであり、詩のようなものだと考えた数学者で哲学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861~1947)は、彼自身こよなく愛したイギリスの大詩人ワーズワースについて、次のように書いています。
「もちろん、誰も疑わないことだが、ワーズワースは、ある意味では、生物が無生物と異なることは認めてはいる。しかし、それは、かれの眼目ではない。ワーズワースの念頭にあるのは、丘にたれこめる霊気である。かれのテーマは、全体相の自然だ。すなわち、われわれが個体とみなすどんなばらばらの要素にも刻印されている、周囲の事物の神秘的な姿を強調するのだ。かれは、個々の事例の色調にふくまれた自然の全体をいつも把握する。」(『科学と近代世界』)
私たちが住んでいるのは、信じられないくらい複雑で錯綜した世界なのであって、他のものと無関係に独立している訳ではなく、まずはじめに「なんだか分からないけれど、ここで自分も、とめどなく複雑な何かに関係している」という感覚的把握があるのでは。対象と自分を切り離して分析する自然科学的なものの見方を超えられるか、いかにそれを示せるかということがテーマとなっていきそうです。
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未来に戻る
今週のおとめ座は、時間をかけるべき事柄と時間のかけ方とを、丁寧に洗練させていくべし。
「次の間へ湯を飲みに立つ夜長かな」(岡本癖三酔)は、無内容に近い一句。だがそれがいい。江戸や明治くらいまでの俳句には、一句のうちに過剰に要素を詰め込まず、ひとつの対象や要素をじっくりと味わう独特の時間の流れを感じさせるものが多いですが、ここでも過剰な感情は控えられ、ただ平易な言葉が並べられているのみ。
「次の間へ」「立つ」とありますから、夕食後ずっと坐って読者か執筆に入れ込んでいたのでしょう。不意に渇きを覚えて、のどを湿らせに行く。飲むものも特別なものではありませんが、水ではなく、温かい「湯」であるところに、空気の冷えを感じさせます。
そして、次の間までのほんの少しの移動に十二音をかけたことが、かえって「夜の長さ」とその静けさとを際立たせるのです。あなたもまた、時間をかけて丁寧に取り組んでいくということの極意を、作者のように上手に取り込んでみるといいでしょう。
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差異と反復
今週のてんびん座は、かすかな差異が生じるところから、豊かさが宿っていくような星回り。
例えば、舞台演劇やミニシアター系映画の冒頭部などには、「あの」という呼びかけとそれに対する「え」という反応から始まるシーンが時たま見られる。「え」という反応は、すぐに「えき?」という単語にスライドし、「分かりますか?」という交流に変わる。そうして幾度かやり取りをくりかえし、道案内までたどり着くと、当初の不安げな危うい雰囲気はサッと消えてしまう。またもとの閉じた日常へと戻ってしまう。その、少しホッとするような、どこか残念なような、切ない気持ち。
あれは何だろうか。何かはっきりとした課題やテーマがある訳ではない。ただそこに感じられるのは、かすかな喪失の手触りと、あり得たかもしれない、しかし、実際にはあり得なかった可能性へのうっするらとした悲しみだろう。
誰かと交わす言葉の反復と変奏には、単純な発語から取り出される無限の可能性と、閉じた日常が開かれていく可能世界の響きがつねに孕まれているのだ。あなたも、そんな心当たりから少しだけ自分の日常を開いていくことになるはず。
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夕闇はすべてを溶かしこむ
今週のさそり座は、ひとつの終わりをやさしく包んでいくような星回り。
「蜩(ひぐらし)のなき代わりしははるかかな」(中村草田男)という句では、初秋のよく晴れた日の夕暮れに、森でひぐらしが鳴き継いでいるのでしょう。よく鳴いていたひぐらしが鳴き終わると、それを察知して、また別のひぐらしが鳴き始める。そのひぐらしは、かなり遠くの方で鳴いているというのです。
もしかしたら、ひぐらしにとって森が完全に沈黙のなかに没してしまうことは、ひぐらし自体の死滅であり、秋の深まりと結びついているのかも知れません。彼らは本能的にそれを感じ取って、誰かの鳴き終わりを察知すると、自身に残された力を振り絞り、まだ死んでいない、自分たちは、夏と秋が交差する繊細で特別なひとときは、まだ生きているのだと示してくれている。と、そんな風に解釈することもできるのではないでしょうか。
あなたもまた、はるかな距離を隔てたひぐらしの交感のようなやり取りのなかで、自身を取り巻く流れが変わりつつあることを実感していくはず。
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美しい野獣であれ
今週のいて座は、難しいことを分かりやすく説明した時に、どうしても抜け落ちてしまうものをこそ大切にしていこうとするような星回り。
世界的な大数学者である岡潔と、日本を代表する批評家である小林秀雄のあいだで交わされた対談集『人間の建設』の「人間と人生への無知」という章のなかに、次のようなやり取りがあります。
岡「…時というものがなぜあるのか、どこからくるのか、ということは、まことに不思議ですが、強いて分類すれば、時間は情緒に近いのです。」 小林「アウグスチヌスが『コンフェッション(懺悔録)』のなかで、時というものを説明しろといったらおれは知らないと言う、説明しなくてもいいというなら、おれは知っていると言うと書いていますね。」 岡「そうですか。かなり深く自分というものを掘り下げておりますね。時というものは、生きるという言葉の内容のほとんど全部を説明しているのですね。」
注目すべきは「説明」と「知らない」いう言葉の使い方であり、おいそれと人に説明することなんかできないという境地をきちんと大事にしているかどうかを、岡が「かなり深く自分というものを掘り下げて」いるという風に捉えている点です。あなたもまた、本当に危ないこと、知っておくべきことを再確認していくような星回り。
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秋風と世界霊魂
今週のやぎ座は、身をすすぎ、さまざまな垢を払い落していこうとするような星回り。
「秋風に殺すと来たる人もがな」(原石鼎)は、大正三年の句。掲句をそのまま現代語に直せば、「秋風が吹きすさぶなか、(自分を)殺すために来る人がいたらいいなあ」ということになります。一体作者はどういう心境で、このような句を詠んだのか。前書きには「瞑目して時に感あり、眼を開けば更に感あり 二句」とあり、もう一句は「わが庵(いお)に火かけて見むや秋の風」。
当時作者は、宿宿先の寺の住職のご夫人と恋愛関係となって駆け落ちし、同じ鳥取県の別の町に移り住んでいたのですが、この句に込められた激しさは、寺の和尚や夫人との関係に起因するというより、そもそも医師の家に生まれながら度重なる受験失敗や落第でついに医者になりきれず、放浪に身をやつした自分自身へのやりきれなさの方に、根があるように感じます。
涼しさを運んでくる秋風は、植物に枯れを、小動物には死をもたらす、大いなる自然の霊力の作用を象徴しますが、作者はそこに自分に必要なものを見出していたのでしょう。あなたもまた、清めるべきおのれの一部をしかと見定めていくべし。
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“弱き存在”としての自覚
今週のみずがめ座は、「人間的な規格」という前提を外したところで、偶然性や無駄のもたらす可能性を見出していこうとするような星回り。
私たちは、社会の行く末を考えるにも、人生の未来を計画するにも、ついつい「人間的な規格」という前提に基づいて考えてしまう傾向がありますが、現在のようなコロナ禍はそうした発想そのものの機能不全をもたらしているように思います。その点、『ひび割れた日常』というリレーエッセイ集に寄稿された伊藤亜紗の「植物の時間」というエッセイの中に、次のような印象的なくだりがありました。
「先日、同僚の植物学者がしみじみ語っていた言葉に衝撃を受けた。『植物には、なぜそんなことをしているのか分からないことがいっぱいある』。要するに、人間の目からすれば無駄にしか見えないことが、植物にはいっぱいあるのだ。(中略)植物は自分で環境を選べないから、変化に対応できるように可能性をたくさん用意している、ということなのだろうか。いや、それもたぶん人間の目から見た見方だ、とその同僚は諫める。人間はつい、あらゆることに合理的な意味があると考えてしまう。でも、たぶん自然はそんな風にはできていない。」
あなたもまた、ごく身近な未知としての植物や身体にこそ、豊かさのヒントを見出してみるといいでしょう。
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豊かさを招くために
今週のうお座は、異なる豊かさを天秤にかけていくような星回り。
俳句の世界では、「雷」は夏の季語で、「稲妻」は秋の季語。前者が積乱雲の恐るべき放電現象を連想させるのに対し、後者はどこか遠く空で走るかすかな光のラインやその音連れと結びついているのです。長らく続いた農耕社会では、稲の花はこの「稲妻」によって受精し、米を稔らせることができると考えられ、「稲妻」は大切にすべきありがたい自然現象と捉えられていました。
「稲妻のゆたかなる夜も寝(ぬ)べきころ」(中村汀女)の「稲妻のゆたかなる夜」という言い方は、稲妻がたくさん閃いている夜を愉しんでいるのであり、家の中で遠くに感じつつも、睡眠時間を惜しんでさえ慈しむべきものとして向き合っているのでしょう。
一方で、明日の生活を全うするためにも「眠らなければならない」という思いがあり、遠くの未来の豊かさと、直近の明日の安らかさとのあいだで天秤にかけているのだとも言えます。そこには切迫した心細さとは対極の、作者独特のおおらかな柔らかさの感得があるのでは。あなたも、そうした無理のないエロティシズムに自分を浸していきたいところです。
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