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ライトノベルは“現実”とどう響き合うか パンデミックを描いた『鹿の王』が映画化される意義を考察

2021年08月29日 07:01  リアルサウンド

リアルサウンド

フィクションは現実を導くか

 現実を超える展開を描いて驚きを与えてくれるのがフィクションだが、今はフィクションが現実になったような事態や、フィクションを超えるような出来事が相次いで起こっている。もっとも、これでフィクションの出番がなくなる訳ではない。フィクションとして紡がれた物語のなかに、ときに現実の困難を乗り越えるためのヒントがちりばめられているからだ。


 もともと9月10日に公開される予定が、新型コロナウイルスの感染拡大で延期となった長編アニメーション『鹿の王 ユナと約束の旅』は、『精霊の守り人』や『獣の奏者』が人気の上橋菜穂子によるファンタジー小説『鹿の王』(2014年/角川文庫)が原作となっている。この作品の舞台は、現在世界が見舞われているパンデミックを写したように、伝説の疫病“黒狼熱”が広がり始めた世界だ。


 強大な帝国から侵略を受けた土地で戦士として戦ったヴァンは、捕らえられ奴隷として岩塩鉱で働かされていた。そこが不気味な犬の群れに襲われ、直後に謎の疫病が発生してヴァンと小さな女の子だけが生き残った。ヴァンはユナと名付けた女の子とともに岩塩鉱を抜け出し身を隠すが、岩塩鉱に帝国の調査が入り、生き残り、逃げ出した者がいたということが判明してしまう。天才医術師のホッサルは、ヴァンとユナに謎の疫病“黒狼熱”を治療する鍵があると考え、行方を追い始めるーー。


 ファンタジーの世界ではあるが、ホッサルは地衣類から抗生物質に似た治療薬を探したり、感染者の血液で血清を作ったりと、科学的な治療法を研究し、黒狼熱を押さえ込もうと奮闘する。その試みは、現実の医学史上でも繰り広げられてきたことが原型となっており、現在のコロナも含む感染症への取り組み、その歴史に思いを馳せる上でも意義深いものとなっている。


 作中では、ヴァンやユナが生き延びたことから、特定の種族や生活習慣の中に“黒狼熱”を跳ね返す何かがあるのではないか、という指摘が出る。コロナ禍においても当初、東アジアで感染者や死亡者が少なかったことため、その要因=「ファクターX」に対する考察が行われてきたことが思い出される。そしてホッサルは、「感染しにくい」と警戒を緩めることで変異した疫病が一気に広がる可能性を訴えており、これも、デルタ株やラムダ株などの変異種にファクターXは通じない、という議論に重なるものだ。パンデミックの推移、その過程で起こり得ることが細やかに想定されており、作者の先見性を感じさせる。


 もちろん、本作で描かれた黒狼熱と、新型コロナウイルス、またその終息に向けた道筋を完全に重ね合わせることはできないが、2014年に『鹿の王』が発表された時点では予想できなかったパンデミック下で、作品が長編アニメ化され、人々の関心を呼んでいるのは事実だ。そこに意味を見出すならば、現実に不安を抱える人たちを励まし、また不確かな情報に惑わされず日々戦う、医療従事者に応援の気持ちを向けさせることにつながる可能性がある、ということかもしれない。


川端裕人『空よりも遠く、のびやかに』(文春文庫)

 一方で、コロナのパンデミックで変容した現実が描かれた作品として、川端裕人による『空よりも遠く、のびやかに』(文春文庫)がある。主人公は高校生になってスポーツクライミングを始めた瞬。2020年に開催される予定だった東京オリンピック出場を目指していたが、延期となったことで瞬を始め世界のクライマーたちが結束し、世界中にある岩壁などを上って配信活動を行うことで、困難な状況を乗り越えようとする。


 現実では、2021年夏に東京オリンピックが開かれ、スポーツクライミングも行われた。そこから得られた感動ももちろん忘れられないが、本書でも、困難に打ち勝とうと奮闘するクライマーたちの心意気に、胸が詰まる。まだまだスポーツ界でも苦境が続くなかで、現実になってほしいと願ってしまう物語だ。


白鳥士郎『りゅうおうのおしごと!15』(GA文庫)

 また、コロナ禍から離れると、フィクションの世界が現実となり、さらに超えていったとして大いに話題になったのが、白鳥士郎による『りゅうおうのおしごと!』シリーズだ。


 将棋界で最高位の竜王を最年少で獲得した九頭竜八一が、弟子にした小学生女子の雛鶴あいと、女性として初のプロ棋士四段に挑んでいた空銀子との関係に揉まれる、というラブコメ的な展開のなかで、将棋の世界で生きる大変さが描かれる。


 この小説に書かれた八一の最年少タイトル獲得記録に現実世界で迫ったのが、藤井聡太二冠だ。棋聖と王位という二冠を作中の八一より先に達成し、叡王という三冠目にも近づいている。それどころか竜王への挑戦者決定戦に駒を進めていて、これらに勝った上で王将戦や棋王戦でも勝てば、年度内に六冠も可能というから驚くばかりだ。


 ポジティブな意味でもネガティブな意味でも、フィクションとして描かれたものがときに現実とリンクし、また現実がフィクションを追い越していくことがある。映画『鹿の王 ユナと約束の旅』が公開延期となったことは残念だが、晴れて公開されるときには、現実の困難が解消され、作品に共感しながらもより純粋に楽しめる状況になっていることを祈りたい。