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マルチ商法にハマった作者による描写が生々しい『マルチの子』 承認欲求に取り憑かれた人間の業

2021年08月26日 15:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 大藪春彦新人賞は、短篇の新人賞である。その第2回受賞者である西尾潤の、初の長篇『マルチの子』が刊行された。マルチ商法にハマった若い女性を通じて、承認欲求に取り憑かれた人間の業を描いた衝撃作だ。


※本稿は『マルチの子』のネタバレを含みます。


 内容に触れる前に、マルチ商法について説明しておきたい。正式な名称は連鎖販売取引。会員が新たな会員を勧誘するという商取引の連鎖により、ピラミッド型の組織が形成される。自分の抱える会員が増えるほど儲かる(といわれる)システムだ。いわゆる〝ねずみ講〟と似ている部分があり、取引の内容によっては、違法行為として摘発されることもある。ただしマルチ商法の形態は多様であり、合法的なビジネスとして展開している組織も多い。本書の主人公が所属しているHTFも、合法的なネットワークビジネスの組織だ。とはいえ法のギリギリのところを攻めている。


 鹿水真瑠子、21歳。大坂の実家で暮らす彼女は、HTFの一員として、カイミン・ツーという健康磁気マットレスを扱っている。妹・真亜紗の彼氏である望月を、自分の傘下会員として抱えているが、それほど成績がいいわけではない。しかし、他のネットワークビジネスをしていた竹田が、仲間と共に真瑠子の傘下会員になったことで、状況は好転する。ゴールド会員に昇格し、大阪のコンベションで紹介されることになった彼女は、さらにマルチ商法にのめり込んでいく。


 本書のヒロインは悪人ではない。ごく普通の若い女性だ。声に独特の魅力があり、会員勧誘の話術も巧みである。しかし三人姉妹の真ん中である真瑠子は、姉と妹にコンプレックを抱いていた。海外留学をして、そのまま就職した、賢い姉。自分の生き方をしっかり持っている、可愛らしい妹。その間に挟まれた自分は、取り柄のない人間だと思っているのだ。だから真瑠子は、マルチ商法に夢中になる。なぜなら傘下会員が増える(=商品が売れる)と、組織の中での立場がアップし、周囲から称賛されるからだ。これにより彼女の承認欲求が満たされるのである。


 そう、本書のテーマは承認欲求だ。承認欲求という言葉は近年になってから広く使われるようになったが、そうした感情は昔からある。誰かに褒められたい、認められたいという気持ちは、人間が持つ当たり前の気持ちなのだ。もちろん私にもある。ゆえに真瑠子の承認欲求への渇望がよく理解でき、彼女に感情移入してしまう。インターネットの発達により自己主張が簡単になると、それと比例するように承認欲求を満たそうとする人が増えた。承認欲求を拗らせ、炎上騒動を起こす人も後を絶たない。本書は、そんな時代が求めた物語だといえるだろう。


 作者は、こうした承認欲求の行き着く先まで描いている。いざゴールド会員になっても儲けは少なく、交通費にも困る真瑠子は、妹や父の定期を借りたりする。HTFから分裂したSBJFという新たなネットワークビジネスの組織に移るが、なかなか上手くいかず、いつしか借金が数百万円に膨れ上がる。そして仮想通貨を使ったネットワークビジネスに参加するのだが、ついにカタストロフを迎えることになるのだ。


 読んでいるこちらとしては、借金をしてまで売り上げを作る時点で、真瑠子のネットワークビジネスが駄目なことが分かる。しかし承認欲求に目がくらんだ彼女は、破滅するまで突っ走ってしまうのだ。そんな真瑠子に同情していると、エピローグで冷や水を浴びせられる。


 HTF時代から真瑠子がライバル視していた女性が現れ、意外な事実が明らかになるのだ。西尾潤、容赦ないなあ。破滅しても終わることなき、真瑠子の承認欲求地獄を予感させるラストに戦慄してしまうのである。


 なお本書は、作者自身の体験を元ネタとしているという。「週刊ポスト」に掲載されたインタビューによると、20歳でマルチ商法の世界に入った作者は、最年少でランク保持者になり、月収は七桁を超えたそうだ。しかし最終的に七百万の借金を抱え、それが親にバレたことで返済生活に入る。このような体験から本書が生まれたのだ。そして自分がマルチ商法にハマった理由を〝〈自分は特別だ〉と勘違いしたことが大きいと思う〟と述べている。


 かつて作者は、マルチ商法で承認欲求を満たした。そして今は、小説を世に問うことで承認欲求を満たそうとしている……という、過去と現在を繋ぐ生々しい表現であるようにも思える。作者の意図の外にある、ちょっと意地悪な見方だろうか、承認欲求地獄を描いた本書そのものが、終わることなき承認欲求地獄を示しているように感じられるのである。