2021年08月11日 10:01 弁護士ドットコム
「足の上に物を落とされてね、うっかり『イタイ!』なんて日本語を口にしたら殺された。だから母の部族の刺青を腕に入れて、フィリピン人のふりをして生き延びてきた」
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かつて、そう話してくれたのは、フィリピン南端のミンダナオ島ダバオ郊外に住む高森義鷹さんだった。1931年生まれの高森さんは、戦前にフィリピンに移住した広島出身の父と、ミンダナオの山岳民族であるタガバワ族の母を持つ。
当時、米軍の統治下にあったフィリピンは、太平洋戦争における日米の激しい地上戦に巻き込まれた。フィリピン戦線での日本人の戦没者は軍民あわせて51万8000人だが、フィリピン人はその2倍を上回る110万人もの犠牲者を出したといわれる。
戦後、高森さんのように日本人の父を持つ子どもたちが多数、反日感情の渦巻くフィリピンに取り残されたことは、あまり知られていない。
冒頭の高森さんの言葉は、残留した子どもたちの過酷な戦後を物語る。日本国籍の回復を果たせないまま他界した者も少なくないが、今も700名以上もの残留者たちが日本政府から「日本人」と認められる日を心待ちにしながら、残り時間の少なくなった人生を生きている。
戦後76年目の夏を迎えたが、彼らの戦争はまだ終わっていないのだ。(ライター・大友麻子)
高森さんの父親は戦前に広島からミンダナオへ移住、タガバワ族の女性と結婚し、生まれた4人の息子とともにフィリピン最高峰であるアポ山の山中で暮らしていた。仕事のかたわら、猟師として野生の豚などを仕留めては日本人に売っていたという。
太平洋戦争前夜、フィリピン全土に暮らす日本人移住者は3万人を超えていた。
明治期以降、決して豊かではなかった日本は、積極的に移民送り出し政策を進めてきた。新天地での可能性に賭けて、多くの日本人が北米や南米、南洋群島や中国大陸などを目指して海を越えた。
フィリピンには、ルソン島バギオやミンダナオ島ダバオなどを中心に、東南アジア最大の日本人社会が築かれた。高森さんの父親のように地元の女性と結婚した人も多く、たくさんの2世たちが誕生していた。
フィリピン各地で地域に溶け込んで暮らしていた在留日本人たちの生活は、太平洋戦争の勃発とともに一変する。米軍の統治下にあったフィリピンに日本軍が侵攻、在留日本人は軍人や軍属として徴用されるなど、国家総動員体制に組み込まれていったのだ。
日本語と現地語の両方を話せる2世たちは重宝され、母の国と父の国のはざまで引き裂かれていく運命を辿ることになる。
冒頭の高森義鷹さんは開戦当時10歳の少年だったが、田野隊という部隊と行動を共にするようになり、食糧調達などの雑用係として協力した。
「米軍の攻撃が激しくなり、部隊はバラバラになった。僕は三宅さんという軍人と一緒にジャングルに逃げ込んだ。そこでは多くの人が餓えて死んでいったけれど、僕は食べられる野草やオタマジャクシなんかを集めてきて三宅さんに食べさせて生き延びた。
三宅さんが衰弱した時は、野生の猿を捕まえてその脳みそを食べさせたよ。前に父が日本人に猿の脳みそを売っていたのを思い出したんだ」
義鷹さんが戦中のことを屈託なく話す一方、軍属として徴用されていた兄の明さんの口は重たかった。猟師の父から猟銃の扱い方を仕込まれていた明さんは、日本軍と山中を共に敗走していく際、優れた銃の腕前で抗日ゲリラを撃ち殺していった。
混乱の中、敗走ルートが敵に漏れることを恐れた日本軍は、手当たり次第に山岳に住む民間人も殺害するようになったという。その相手は、高森兄弟にとっては母の同胞であり、幼少期にはともに遊んだ仲間であったかもしれない。
1945年8月に迎えた日本の敗戦。日本人の父は収容所に入れられたのちに日本へ強制送還され、高森兄弟はフィリピンに残留した。兄の明さんはフィリピン人の報復を恐れてアポ山に隠れ住み、2年もの間、山から降りようとはしなかった。百発百中の腕前で敵を撃ち殺してきた彼の首には、賞金が懸けられていたという。
義鷹さんはタガバワ族の刺青を腕に入れ、高森義鷹という日本名を封印し、エスタカ・オティと名乗って戦後のフィリピンを生き抜いてきた。
高森兄弟のように父と離れ離れになり戦後フィリピンに残留した2世たちは、支援団体による調査で4000人近くいたことがわかっている。
当時の国籍法は、フィリピンも日本も父系血統主義をとっており、法律上、彼らの国籍は日本である。しかし、日本政府が彼らを日本人だと認めなければ、「無国籍」という極めて不安定な状況に置かれたままになる。
彼らが日本国籍を回復したければ、自力で証拠を集め、両親の婚姻と自身の出生を証明して日本の役所に届け出るか、あるいは日本の家庭裁判所に就籍を申立てなければならない。
だが、日米の大規模な地上戦に巻き込まれたフィリピンの惨状を思えば、保管した記録もろとも焼失した市役所や教会が数限りないことも想像に難くないだろう。また、迫害を恐れ、父につながる証拠を自ら山中に埋めたり焼き捨てたりして戦後を生き延びた残留者も少なくない。
その結果、700名以上の2世が、日本国籍の回復を果たすことができずに無国籍状態のままフィリピンに残留しているのだ。平均年齢80歳を越えた彼らに残された時間は少なく、日本国籍を切望しながら年々多くの2世が他界しているという現実がある。
こうした状況に対し、2021年4月、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)フィリピン事務所が報告書を作成、フィリピンに残留した日本人を「無国籍のリスクにある人々」と初めて公式に認め、国家が解決すべき問題であるとの認識を示すに至った。フィリピンに残留した日本人に日本政府がいかに対応するのか、国際社会の注目が集まっている。
UNHCRの報告書が出た翌月の5月25日、参議院の外交防衛委員会で白眞勲議員(立憲民主党)がフィリピン残留日本人問題を取り上げた。
「UNHCRの報告書には、日本とフィリピンによる二国間協力に関する合同委員会の設置を緊急事項として検討することが提起されている。どう対応するつもりか外務大臣にお聞きしたい」
これに対し茂木敏充外務大臣が「フィリピン政府と連携していきたい。どういう形でできるかを含めて検討していきたい」と答弁すると、すかさず白議員が手元の資料を読み上げ始めた。
それは、現地で徴用されて戦死した日本人移民の橋本茂さんが妻のロザリオさんに宛てて書いた1通の遺書だった。
「汝の一生に対する余の希望は、和枝(筆者注:茂さんとロザリオさんの一人娘)を日本人として育て、名誉ある父の子として誇りを以て育てよ。汝、もし一身上のことで思案に及ばざることあらば、日本帝国政府に懇願し、援助を受けよ。天皇の国、大日本帝国は、すなわち汝らの父の国にして、同時に汝らの保護者たること疑いなし」
遺書を読み終えた白議員は和枝さんが今も日本国籍を回復せずフィリピンに残留していることに触れ、再び茂木外務大臣の決意をただすと、答弁に立った茂木大臣は「橋本さんの思いにもしっかり応えていきたい」と決意を述べた。
なぜ白議員は、国会の場であえて橋本さんの遺書を読み上げたのか。後日、その真意を聞いた。
「この問題に与野党は関係ありません。右も左も関係ない。フィリピンに残留した方たちの国籍回復は、日本が戦後残してきた課題であり、もはや先延ばしにはできないことは明らかです。早期の解決のためには一人でも多くの議員に共感してもらうことが重要だと考えました。
これまで、政府の議論の場において、フィリピン残留日本人問題は数字として論じられることがほとんどでした。生存者は何人か、就籍の許可が出たのは何人か、身元未判明の人は何人なのか。
もちろん数字を正確に把握することは重要ですが、この問題の本質を捉えるには、彼らがいかに生き、語り、そして亡くなっていったのか、といった状況を共感とともに理解する必要があります。
少なくとも、外交防衛委員会に出席していた委員たちは、あの遺書に込められた橋本さんの思いを受け止めたはず。そうして共感を得ていけば、事態は必ず動かせるという確信が僕にはあります。いや、動かさなければいけないのです」
白議員は、韓国人の父と日本人の母を持つ日本生まれ日本育ちの在日2世である。出生当時は父系血統主義のために韓国籍となったが、40歳になった時、さまざまな葛藤の末に日本国籍を取得する道を選択した。それゆえに2つのルーツを持つフィリピン残留日本人の複雑な胸中を見つめる眼差しには特別な思いがある。
「フィリピンに残留した方たちに対し、フィリピン国籍を取ってしまえばいいだろうとか、なぜ今になって日本国籍が欲しいのだ、といった論調で語られることがあります。
確かに、フィリピン国籍を取得してしまえば、おそらくこれほど苦労することなく生きてこられたことでしょう。
しかし、日本人というルーツゆえに苦しみを味わったからこそ、あえて日本人として生きることを選ぼうとしている方たちの気持ちが、私には痛いほどわかります。
当時は、就職するにも部屋を借りるにも理不尽な扱いを受け、参政権もないという、日本で生きていく上で何のメリットもない韓国籍に私が40歳までこだわり続けたのは、日本国籍を選ぶこと=差別に屈服することだったからです。
フィリピンに残留した方たちが、日本人というルーツゆえに苦労したからこそ、日本人であることにこだわる、その思いには深く共感します。だからこそ、この問題の解決は、私が議員として取り組むべき仕事の一つだと感じています」
フィリピン残留日本人たちが求めているのは、「日本国籍」の回復のみである。平均年齢が80歳を超えた今、中国残留孤児のような帰国支援を求めているわけではなく、経済的な保障を求めているわけでもない。ただ、自分が父の国に確かに連なっているのだということを、人生の最晩年にあって確認したいと願っているのだ。
自分たちの戦前の穏やかな生活が跡形もなく破壊され、母の国と父の国のはざまで引き裂かれ、父と離れ離れになり、日本人という十字架を背負わされ、息を潜めて生きてこなければならなかったのは一体なぜなのか。その答えを示すことができるのは日本政府をおいてほかにない。
長年、彼らの支援に取り組んできたNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」代表理事の猪俣典弘さんは言う。
「フィリピン政府は、フィリピン残留者問題は深刻な人権問題だと認識しており、司法省と外務省が積極的に実態の把握と問題解決のために動いています。
日本側も外務省が長年、我々と一緒に全国調査を継続してきましたが、この調査がさらに拡充される流れとともに、二国間での調整が進みつつあります。これまでの調査データをもとに残留者名簿を作成し、両国で足並みをそろえて動く時がきたと感じています。
残留者たちの置かれた状況は様々です。就籍という方法が難しい残留者も含めて一括で国籍取得を実現するには、最終的には日本における特措法が不可欠となってくるでしょう。だからこそ立法府の議員の皆さんとの連携が重要なのです。
年々、生存者が減っている状況で、残された時間は少ない。日本政府が責任を果たせる最後のチャンスと言えるでしょう。UNHCRが問題提起してくれた今年が、一つの正念場になるのではないでしょうか」
筆者に多くを語ってくれた義鷹さんや明さんもすでにこの世にいない。日本政府の返答を辛抱強く待ち続けてきたフィリピン残留者たちの長い戦後を思う。まもなく76年目の夏が終わろうとしている。