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「もし、あの時こうしていたら」選ばなかった人生を想像する痛切な物語 カツセマサヒコ『夜行秘密』

2021年08月09日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 これは、幾重にも重なった「後悔」の物語だ。「あの時、こうしていれば」「あの時、こうしなければ」彼は/彼女は……と思いをめぐらせ、失ってしまった恋をいつまでも胸に抱いている登場人物たちの物語。


(参考:【写真】カツセマサヒコ近影


 恋は往々にして、自分の予想とは遥かにかけ離れたところで爆発し、気づいたら取り返しのつかないことになっていることばかりだ。彼らの恋は、思わぬところで連鎖していく。意図せずして誰かが誰かを傷つけ、苦しめ、焚きつけ、それゆえに彼らの人生は動かされていく。まるで何かに導かれるように。何に? それはきっと、彼らが信じ込んでいる「愛」というものに違いない。


 「どうしてこうも私は、いとも簡単に、自分は誰かを救えると勘違いできるのでしょうか」と登場人物の一人が言った。


 SNSの熱狂と炎上や、マスメディアの過剰報道、パワハラ・セクハラ、家族や恋人からの暴力。「自分を含め、多くの人が中途半端に汚れているくせにそれを隠して綺麗なフリをしている世界」において、彼らは普段ヘラヘラと取り繕いながら生きていたとして、ある日突然見つけてしまうのだ。自分と同じ匂いがする誰かを。互いを救いたいと思わずにいられない誰かを。「俺たち二人だけ、世界からズレてる」と思わずにはいられない誰かを。それに気づいた途端、相手に向ける「笑顔の質」が変わる。そんな、恋が始まる瞬間の描写の生々しさに、きっと読者もかつての恋の記憶を呼び起こされるだろう。


 そんな「目の前にいる相手を救えるかもしれない/救えたかもしれないのに」という切なく哀しい「奢り」のようなものが連鎖していく後半部分の怒涛の展開は、一息で読まずにはいられない。


 7月2日に発売された小説『夜行秘密』は、2022年に北村匠海主演で映画化も決定している『明け方の若者たち』の著者・カツセマサヒコの新作である。また、川谷絵音率いるバンドindigo la Endとのコラボレーションによる作品であり、同名アルバムの全14曲を1作の小説として、カツセ独自の解釈により紡いだ物語だ。


 映画やテレビドラマのノベライズと違って、あまり聞き馴染みのない「音楽のノベライズ」という新しいジャンルを開拓しているのも興味深い。あくまで楽曲の世界観をモチーフに作り上げた小説であるため、小説は小説、楽曲は楽曲で、全く別物として楽しめる。読んでから聴く、聴いてから読む、聴きながら読む、もしくは、読んでから聴いて、もう一度聴きながら読むなど、楽しみ方は様々である。一冊で2度3度美味しい、これまでにない小説と音楽の試みとしても特筆すべきものがある。


 本作の登場人物たちは、決していい人ばかりではない。小説部分の書き出しとなる2章「左恋」の主人公は、冒頭数ページだけで実に憎たらしい印象を抱かせる、映像作家のトップランナー・宮部あきらである。トップクラスの才能を持つ彼は、意図せずして、彼に魅せられ集まってくる人々の運命を動かし、残酷に傷つける。


 彼と関係を持ち、それ以来執着し続ける富永早苗。「一発屋」で終わりたくないと次の作品を模索する過程で宮部にコンタクトをとり、翻弄されることになる、SNSから突如ブレイクしたバンド「ブルーガール」の岡本音色。そしてスーパーの店員として音色と出会う、劇団員の凛。特にこの、4章『フラれてみたんだよ』をはじめとした、音色と凛の物語は、若者たちの夢と恋の生々しい葛藤に満ちていてとてもよかった。


 そして後半のキーマンとなる、高校生の松田英治。花屋でチューリップの花言葉を交わし合って出会ったナツメとメイ。一見無関係のような群像劇が、宮部あきらという人物を軸にゆっくりと絡み合い、少しずつ輪郭を露わにしていき、終盤に繋がっていく。


 「夜行」をモチーフにした最初の見開き一ページの物語が一体何を意味するのか。終盤読者は驚きと共に、最初のページを読み返すことになるだろう。


 「もし、あの時こうしていたら」と選ばなかった側の人生を想像すること。目の前にいる誰かを「救える」と過信すること。この小説の登場人物たちはそれらを繰り返す。すれ違い続ける彼らは、後悔と共に、もう会えない人の意志を継いで、いや、その意志が確かなのかさえももはやわからないけれど、意志を汲んだフリをして行動する。そうでもないと、自分が自分でいられなくなってしまうから。


 この作品は、「誰かを救う」話ではなく、「救えないと分かっていてもそれでも互いに向かって、手を伸ばし合わずにはいられない」人々の物語。人は人を心の底まで理解することはできないし、「救う」なんてただの奢りにすぎないと、痛いほど理解している人が吐き出す、痛切な物語だ。


(文=藤原奈緒)