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漫画『しあわせは食べて寝て待て』が表現する他人事ではない切実さ 出会いと薬膳が運命を変える?

2021年07月15日 08:11  リアルサウンド

リアルサウンド

『しあわせは食べて寝て待て』

 自分から仕事をとりあげたらいったい何が残るだろう、と考えることがある。20代のころから時にプライベートも犠牲にしながら働いてきて、結婚しないまま30代に突入しても、まあいっか、自分には仕事があるし、と忙しい現実に没頭してきた。それはそれでとても幸せなことなのだけど、40代を目前に控え、ふとおそろしくなるときがある。もしも突然の病気や事故で、働くことがままならなくなってしまったら? 仕事をアイデンティティとして生きてきた自分に、どんな価値を見出せばいいのだろう? そもそも経済的にも困窮していくのは間違いなく、ひとりでどうやって生きていけばいいのか。


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※以下、ネタバレ注意


■ベッドに倒れこむ。その描写


  そんな筆者に、漫画『しあわせは食べて寝て待て』(水凪トリ/秋田書店)で主人公が母親から向けられたセリフは、突き刺さった。〈あんたはキャリアウーマンになるんだとばかり思っていたからさ 命に関わる病気じゃなくても人生つまずいちゃうものなのね〉。


 麦巻さとこ。38歳、独身。突然の膠原病(こうげんびょう)発症で、フルタイムで働くことができなくなってしまい、元上司に紹介された小さな会社で、週4のパートをしている。その月収、11万強。老後どころか今を生き抜くだけでも不安な金額だ。さとこの場合、難病とはいえ障害年金が出るほどの症状ではなく、かといって頑張ればバリバリ働けるようになるわけでもない。寒いとすぐ風邪をひいてしまうし、しばしば頭痛にも悩まされている。


  「38歳…まあ婚活でもして…」なんて、主治医は言うが、そういう問題ではないだろう。経済的な保証を得るための結婚は、相手との対等性を保ちづらいし、そもそも働けない・お金がない・若くもないと自尊心が削られた状態の婚活で、ろくな出会いがあるとも思えない。膠原病を発症している人の大多数は専業主婦というデータもあるが、彼女たちだって生活の不安がさとこよりは少ないだけで、仕事を辞めざるをえなくなった悔しさもあるだろうし、もとから専業主婦だったとしても、自分の職務だと思っていた家事がうまくこなせなくなれば苦しいに決まっている。膠原病は若い女性の発症率が高いそうだが、なんらかの病によって仕事を続けられなくなる可能性は、男性にだってある。男性のほうがもしかしたら、専業主婦(夫)という選択肢をもてる人が少ないぶん、追い詰められてしまうかもしれない。


  そんなことを、さとこのふとした表情や、不意によぎるネガティブで卑屈な感情に触れて、考えた。身に着けているものは上質で、物静かなさとこを、今の会社の同僚たちは、実家が裕福なお嬢様なんじゃないかと噂している。だけど実際は、体調の悪さをひた隠し、虚ろな表情で家のベッドに倒れこむ。その描写が、秀逸だった。「ぐすっ」という音が、涙なのか鼻風邪をすする音なのかはわからない。でも、少なくとも、大声で泣くほどの気力さえ、今の彼女からは奪われているのだと、切実に伝わってくるから。


  仕事ができなくなった。実家には兄夫婦と子供がいるから、帰れない。収入が家賃と同額になった今は、更新料も払えないから出ていかなきゃいけない。目の前の現実だけでも苦しいのに、彼女の心を苛み続けているのは、辞めた職場で同僚たちのことだった。療養から復帰し時短勤務となったさとこに「まともに働けないなら来るな」と陰口をたたき、さとこのメールをすべてスパム扱いしている痕跡を見せられた。そのストレスがさとこの病状を悪化させ、会社に残ることができなくなってしまったのだけど、なんてひどいと憤りながら、激務のうえにさとこのフォローまでしなくちゃいけなくなった同僚の心情を、責めきれない自分もいる。もちろん、人としてやってはいけないこと、なのだけど。自分も働けなくなるかもしれない可能性を一度も考えたことのない人の傲慢さは、他人事ではないと思ってしまうのだ。


 状況のひとつひとつを想像するだけで、胸が苦しくなってくる。だが、身体も心も健康を損ねてしまったさとこは、引っ越しを機に、生活に光を差してくれる存在に出会う。それが92歳の大家・鈴さんと息子の司。そして「薬膳」だ。


■司と薬膳に惹かれ


 内覧の日、頭痛に苦しめられていたさとこは、鈴さんに渡された大根をしぶしぶかじってみたところ、時間をおいて、痛みがすっかり取り払われたことに気づく。次に近くを通りかかり、家に招待されたときは、司に「風邪をひいているのに老人の家にくるなんて非常識だ」と追い返されてしまうのだけど、追いかけてきた彼がジャーに入れて渡してくれたスープは、さとこの身も心もあたたかくほぐしてくれた。鈴を中心に昔ながらの近所付き合いが残っている環境と、司と薬膳に惹かれたさとこは、すぐに引っ越しを決めるのだ。


 が、さっそく司に教えを請おうとしたところ、「病人には責任が持てない」と突き放され落ち込んださとこだが、まずは自分から一歩踏み出そうと、勉強をはじめる。背中を押してくれたのは、鈴のやわらかい笑顔と、言葉だ。


 〈これまでの自分と比べるからしんどくなるのよ〉〈お金が無いなら無いなりに 体力が落ちたなら落ちたなりに けっこう楽しいことって起こるわよ〉〈「果報は寝て待て」っていうじゃない 運が巡ってきたときのために 少しでも元気になっておきなさい〉


  さとこが一から学ぶ薬膳の知識は、読者にも簡単に実践できるものばかりで、勉強にもなる。ゆううつなときには、ジャスミン茶。気の巡りがよくなるように、陳皮(ミカンの皮を干したもの)を加えるのもよし。梅雨の時期は胃や消化器の働きを補ってくれる、黄色い食材がおすすめ。トウモロコシは、体内の水の巡りもよくしてくれる。秋は、白い食材。豆腐やとろろなどがおすすめ。季節の巡りとともに、旬の食材をとりいれて、自分の身体をいたわっていくことで、さとこの心の傷も少しずつ癒え、職場の人や司とも少しずつ距離が縮まっていく。


 とはいえ、あまりに薬膳を徹底した生活は面倒だし、そもそも身体にいい食材は、いいお値段がするものも多い。だから、自分なりに続けられる程度のゆるやかな気持ちでいいのだと、あとがきで著者・水凪トリも書いている。大根をかじって頭痛が治ることもあれば、かえってひどくなることもある。薬膳の効果は、体質だけではなくそのときの体調や痛みの原因によっても違うのだと、身をもって体感しているから、自分の状態にあわせて、実験してみるつもりで楽しめばいいのだと。


  持病があってもなくても、仕事をしてもしていなくても、身体が資本であるのは誰しも同じ。さとこと一緒に、本当の意味で自分を労わることを学んでいきたい。


■立花もも
1984年、愛知県生まれ。ライター。ダ・ヴィンチ編集部勤務を経て、フリーランスに。文芸・エンタメを中心に執筆。橘もも名義で小説執筆も行う。