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千葉雅也、李琴峰らがノミネート「第165回 芥川賞」はどうなる? 候補作を徹底解説

2021年07月14日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

第165回芥川賞候補作を徹底解説

 第165回芥川賞選考会が本日(2021年7月14日)行われる。受賞作の発表前に各候補作のポイントを紹介したい。


(参考:【画像】候補作を画像でチェック


■石沢麻依「貝に続く場所にて」(『群像』6月号)


 先日、第64回群像新人文学賞を受けたデビュー作で初ノミネート。


 率直に不思議な作品である。小説は「私」がドイツ・ゲッティンゲン駅前で知人・野宮の幽霊を出迎える場面から始まる。それは9年の時間を隔てての再会だった。野宮が消えたのは2011年3月11日、言わずもがな東日本大震災の日だ。目の前に現れた野宮は死者の幽霊か、それとも過去からの漂流者か。読者はいきなり寄るべない感覚に陥る。だが、ページを捲れば捲るほど、さらなる事件がしかし静謐な筆致で淡々と語られていく。列挙しよう。今は存在しない冥王星像の目撃情報。街外れの森で友人・アガータの飼い犬「トリュフ犬」が発掘する誰かの記憶の断片たる持物(アトリビュート)の数々。アルブレヒト・アルトドルファーの油彩画《アレクサンダー大王の戦い》の光景。かつてこの地に滞在した寺田(寅彦)氏の幽霊。私の背中に生えた歯……と一見バラバラに見える(し、おそらく何が何だかまったく伝わっていない)だろうこれらの要素が幻想的な街を舞台に緊密に結びつくのだ。


 人間的なタイムラインから離脱し、行方不明になった者が「幽霊」と呼ばれる。本作が描くのは物、場所、人を頼りに、幽霊との失われた時を求める記憶の巡礼者たちの姿だ。ある登場人物は言う。「比喩や何かのイメージを重ねることでしか、俺たちは野宮のことを描写できないんですよね」。だが逆に言えば、「比喩」と「イメージ」だけに幽霊の居場所があるのだ。本作はそれをなし得た、傑作だと思う。


■くどうれいん「氷柱の声」(『群像』4月号)


 短歌やエッセイなどでも活躍する著者が芥川賞に初ノミネートされた。


 本作は東北を舞台に三つの時制からなる。盛岡での高校時代、仙台での大学時代、再び地元岩手に戻り、タウン誌の編集となった現在である。だが、本作で「私」(加藤伊智花)が一貫して拘泥する問題がある。「震災」という物語に絡め取られることのない表現の在処だ。たとえば、高校2年生の「私」は、祖母との思い出である大きな不動の滝の絵を高校最後のコンクールに向け、描き上げようとしていた。しかし、完成を前に東日本大震災が起きる。自身は幸い大きな被害を受けなかったものの、津波を連想させる「私」の絵は大会で落選し、べつの被災者の作品(というよりその「感動的」な不遇)が評価されてしまう。


 伊智花やその友人・トーミ(冬海)を筆頭に、本作に描かれる登場人物たちは皆、それぞれが、それぞれの仕方で、震災に遭い、いまなお、向き合い続けている。彼女たち一人一人の人生はそのまま、「震災当事者」という言葉が塗り潰してしまうグラデーションなのだ。青春小説的な爽やかさと、現実のままならなさを兼ね備えた小説として、ひろくおすすめしたい。


■高瀬隼子「水たまりで息をする」(『すばる』3月号)


 2019年、『犬のかたちをしているもの』で第43回すばる文学賞を受けた著者が芥川賞初ノミネート。


 小説はこう始まる。「夫が風呂に入っていない」。ある日から唐突に、主人公・衣津美の「夫」(研志)は「風呂」を嫌い、「雨」で髪や顔、体を洗い始め、やがて衣津美の郷里を流れる「川」に興味を抱き始める。古今東西の物語で、水/女はセットで語られてきた。でも、水に結びつくのが男でもいいはずだ。風呂に入らず、自然のなかで水浴びをする夫の姿は、衛生的には不潔なはずだが、どこか不思議と美しい。


 作品後半、主人公らは自分たちに性の合ったロハスな田舎暮らしを開始する。ある意味では凡庸な帰着とも取れるのだが、良くも悪くも夫には一定の解放感がある選択と言えるだろう。だが、衣津美はどうか。一線を超えて変化する夫に対し、彼女はいつも、何かを思っている自分を俯瞰的に見守り続けているように見える。じつは本作は、衣津美が幼少期に耳にした、父から母への呪いの言葉をめぐる話でもあるのだ。その言葉はやがて衣津美を母同様の「持ち堪えてしまう」人間にした。そして結末を読んでもなお、その呪いは解かれていないように思うが、どうだろう。


■千葉雅也「オーバーヒート」(『新潮』6月号)


 哲学者、批評家としても知られた著者の小説作品である。「デッドライン」(『新潮』19年9月号)が第162回芥川賞候補となって以来、二度目のノミネート。


 本作の「僕」は京都の私立大学の准教授として働いている。ざっくり言えば、私小説とも、恋愛小説とも、紀行文とも読める文章だ。物語的な展開より「僕」の内省を記述する、つまりきわめて「文学」的な作品と言えるだろう。「僕」はいう。「僕」の周りでは夥しく言葉が蠢き、壁のような言葉に囲まれている、と。言語過剰気味の「僕」は壁の向こうの世界をときに憎み、ときに憧れながら見つめる。


 本作の見所のひとつは「僕」が「土地」や「街」に向けるオーバーに分析的な視線だ。学生時代を過ごした東京、馴染みのない大阪、生まれ育った栃木。「僕」は観察眼となり、土地や街を移動しつつ、言語化をやめない。そしてだからこそ、それらを繋ぐ道(線=ライン)もまた本作の重要なモチーフだ。心斎橋キタからミナミへの一方通行、日光道を逆走する車、そして隣合いながらも交わらない平行線のような恋人・晴人との関係。いくつもの線が複数方向に走り、土地と土地が繋がれる。この点と併せて触れておきたい本作の文体的特徴が「比喩」の多様だ。作中の言葉を借用すれば、比喩とは「似た違うもの」を一瞬のスパークのなかで連想させる回路のようなものだからだ。だが、そこで引き合わされる言葉たちもまた隣合いながら、本質的には決して交わらない別のものである。だから可笑しく、悲哀を帯びている。本作を読むことは、そんな一瞬の「凪」のような時間に身を晒す体験だ。


■李琴峰「彼岸花が咲く島」(『文學界』3月号)


 「五つ数えれば三日月が」(『文學界』19年9月号)で第161回芥川賞候補となって以来、二度目のノミネート。


 彼岸花が埋め尽くす島の浜辺に記憶を失った少女・宇実(ウミ)が漂着する。そこで人々は独自の暮らしを営んでいるのだが、とりわけ特徴的なのは言語に関する慣習だ。島では公用語として〈ニホン語〉という独自の言語が話される。だが一方、〈女語〉という言語は、ある年齢以上の女性のみが習得を許され、歴史の伝承に用いられるのだ。だから島では女性だけが〈歴史の担い手〉=島の指導者〈ノロ〉と呼ばれる存在になれる。宇美は、島の責任者・大ノロからこう命じられる。同世代の游娜(ヨナ)とともにノロとなり、今後も島で暮らすこと。


 本作の重要な存在は同年代の男の子・拓慈(タツ)だ。男性でありながらノロになりたい拓慈は内緒で独学し、女語の苦手な游娜より遥かに達者に女語を話せる。にもかかわらず、「そういう習わしだから」という理不尽により、拓慈はノロになれない。宇実と游娜は拓慈に誓う。男もノロになれるよう島の規則を変える、と。受け継いだ歴史を必ず教える、と。作品終盤で明かされる島の歴史を聞くまでもなく、本作が何の戯画で、何を討たんとしているかは明白だろう。最後に彼女らが選ぶ道は楽観的にも見える。だが、悩み硬直する者にとり、その選択は確かに救いだ。



 予想は千葉氏・李氏のどちらかの単独、ないし同時受賞が本命だが、石沢氏が食い込むと個人的には嬉しい。いずれにせよ、発表が待ち遠しい。


(文=竹永知弘)