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第165回 直木賞は大激戦? ノミネート作品を文芸評論家・細谷正充が徹底解説

2021年07月12日 07:01  リアルサウンド

リアルサウンド

第165回直木賞ノミネート作品徹底解説

 前回(2020年下半期)の直木賞は、候補作が明らかになった時点で、大きな話題を呼んだ。候補になった作家がすべて初ノミネートであり、さらに男性アイドルグループ「NEWS」のメンバーである加藤シゲアキの『オルタネート』が候補作となったのだ。しかも『オルタネート』を含めて、どの候補作もレベルが高かった。いったいどの作品が受賞するのかとドキドキしていたら、西條奈加の時代小説『心淋し川』が栄冠に輝いたのである。それから半年。2021年上半期の直木賞候補作が発表された。以下、候補となった5作を見てみたい。(細谷正充)


(参考:【画像】ノミネート作品を画像でチェックする


■『スモールワールズ』一穂ミチ(講談社)


 今回、候補作に選ばれたことで、一番驚いたのが本書である。といっても内容に問題があるわけではない。妊活もモデルの仕事も行き詰まっている人妻と、父親から虐待を受けているらしい中学生男子の人生の交差と、その意外な顛末を描いた「ネオンテトラ」や、傷害致死事件により相いれない関係にある男女の、手紙のやり取りで物語が進行する「花うた」など短篇6作が収録されている。歪んだ家族というテーマは共通しているが、各話はバラエティに富んでいる。


 先を読ませないストーリーの面白さと、人間に対する深い洞察に感心。とんでもない作家が現れたものである。とはいえ作者は新人作家というわけではない。BL小説で活躍してきたベテラン作家なのだ。それが集英社オレンジ文庫から2016年に刊行した『きょうの日はさようなら』を経て、本書で一般的に知られるようになった。その才能をすかさず評価した直木賞のフットワークの良さに驚いたのである。


■『おれたちの歌をうたえ』呉勝浩(文藝春秋)


 昭和・平成・令和を結ぶ大河ミステリー。物語の主人公は、元警視庁の刑事で今はデリヘルの運転手をしている河辺久則だ。ある日、幼馴染が死んだという電話の連絡を受けて故郷に行き、騒動にかかわっていく。そんな令和元年のストーリーに過去の物語が挟まる。昭和51年、ある件から栄光の五人組と呼ばれる久則たちだが、彼らのよく知る女性が殺され、大きな悲劇と共に、5人の緊密な関係が失われる。そして平成11年、かつての殺しの件で脅迫事件が起こり、バラバラになった5人の人生が露わになっていく。


 作者には、日本推理作家協会賞と吉川英治文学新人賞を受賞し、直木賞の候補になった『スワン』という作品がある。本書はそれに継ぐ長篇だ。『スワン』で現代が絶望の時代であることを、鋭く突きつけてきた作者は本書で、そこに至る時代の流れを峻烈に表現した。そして今を生きていくには、どんな苦い過去でも受け入れるしかないことを、厳しく示したのである。もちろんミステリーの部分も優れており、しだいに明らかになる事実に興奮した。呉勝浩という作家の凄さを実感できる一冊だ。


■『テスカトリポカ』佐藤究(KADOKAWA)


 2017年に刊行された『Ank: a mirroring ape』にはぶっ飛んだ。SFでありパニック小説であり、そして何よりも暴力を見つめた物語であった。大藪春彦賞を受賞したのも納得の傑作である。それから3年。満を持して佐藤究の、新たなる黙示録が登場した。


 メキシコの麻薬カルテルを潰されたバルミロ・カサソラ。再起を図る彼が選んだ新たなビジネスは、日本人の子供の心臓を売る、臓器ビジネスであった。そのバルミロが見込んだのが、13歳のときに両親を殺した土方コシモだ。祖母から伝承したアステカの神のことを、バルミロはコシモに教えていく。


 本書の主人公はバルミロとコシモだが、その他にも多数の人物が入り乱れ、血と暴力の祭典を繰り広げる。克明に描かれた麻薬カルテルや臓器ビジネスは、読んでいて吐き気を催すほどの迫真性があった。そうした暗黒の資本主義の最前線に、アステカの神が絡まり、ストーリーは異様な熱気を孕んで驀進する。興奮必至の面白さだ。


■『星落ちて、なお』澤田瞳子(文藝春秋)


 今回で5回目の候補となる澤田瞳子は、直木賞常連組といっていいだろう。それだけの実力の持ち主である。本書を読んでいただければ、分かってもらえるはずだ。


 主人公は、河鍋暁斎の娘のとよ(暁翠)。周知の事実だが暁斎は、今でも人気の高い絵師である。その暁斎が死んだ明治22年から始まり、ポンポンと時代を飛ばしながら、とよと周囲の人々の人生を描いていく。巨大な存在だった父に比べ、自分の才能の乏しさを嘆くとよ。父の才能をもっとも受け継いだ兄の周三郎(暁雲)にも、複雑な思いを抱いている。それでも彼女は絵と家族にこだわり、生きていくのだった。


 とよが絵師であることにこだわるのは、それが父との繋がりだからである。絵師の苦悩に家族の苦悩が重なり、彼女は暁斎の影から逃げられない。でも、とよの人生は意味のないものだったのか。そんなことはない。作者はある人物の口を通じて、彼女の人生にひとつの光を与えるのだ。それは、いろいろなものが見えすぎて生きづらさを感じる、現代の日本人に与える光でもある。だから本書は読者の胸を強く打つのだ。


■『高瀬庄左衛門御留書』砂原浩太朗(講談社)


 架空の藩を舞台にした武家物といえば、藤沢周平の“海坂藩”や、葉室麟の“羽根藩”が、すぐに想起される。本書はそのラインを狙っているのだろう。歴史小説でデビューした作者だが、この方向転換は成功したようだ。とにかく主人公の高瀬庄左衛門が魅力的。50を過ぎたくらいの、神山藩の下級藩士。すでに妻は亡く、息子の啓一郎と共に、郡方の本役をしている。だが郷廻りの最中に啓一郎が事故死した。息子の妻を実家に帰し、ひとり暮らしを始め、我流で絵を描くことをささやかな楽しみにする庄左衛門。だが彼は、しだいに藩の政争に巻き込まれていく。


 何事もなければ主人公は、色あせた日々を死ぬまで送るだけだった。だが、思いもかけない成り行きから、さまざまな人とかかわるようになる。そして理解するのだ。誰もが悲しみや鬱屈を抱えて生きているのだと。そのことに気づき、あらためて自分の心を見つめ直す庄左衛門に、いぶし銀の魅力あり。さらに、単純な善悪で人や物事を判断しないことや、窮地に陥っても人としての筋を通す胆力を持っていることも露わになっていく。老境に差しかかった男の気骨を活写した秀作なのだ。


 以上5作、どれが直木賞を受賞しても可笑しくない名作揃いである。だから結果が明らかになっても、受賞作だけでなく、他の候補作も読んでほしい。知らない作家の手による、新たな世界を知る。それもまた読書の喜びなのだから。