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『三体』劉 慈欣×大森 望 対談 「空間や時間がどれだけ拡大しても、わたしたちはちっぽけな存在」

2021年07月04日 12:01  リアルサウンド

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劉 慈欣『三体』(2021年5月14日/オンライン対談)


■『三体』、その衝撃について


大森:第一作である『三体』邦訳の発売から二年半かかりましたが、いよいよ『三体』の完結篇である『三体Ⅲ 死神永生』の邦訳版が店頭に並びます。


劉:本当にありがとうございます。


大森:『三体』は日本でも人気が爆発していて、第一部は日本のSFファンが投票で選ぶ星雲賞を受賞しましたし、『SFが読みたい!』の「ベストSF2019」でも一位になりました。第二部の『三体Ⅱ 黒暗森林』もネット上で熱狂的な讃辞が多く寄せられて、第一部以上の盛り上がりでした。


劉:ありがとうございます。翻訳が素晴らしかったからですね。


大森:『黒暗森林』は、後半の展開が日本の読者にものすごく評判がよくて、とりわけラストが素晴らしいと絶賛されています。


劉:後半のSF要素が強くなってくるところが人気なのではないかと思います。


大森:そうですね。〈水滴〉が活躍する決戦シーンや、羅輯と三体文明とが勝負する場面は、ふだんSFを読まない人からも熱烈に支持されている印象です。


劉:ありがとうございます。


大森:『三体』はものすごくスケールの大きなSFであり、とくに『黒暗森林』の後半では現代の日常とかけ離れた未来の話になりますが、日本語版がSFファン以外の読者層にも幅広く受け入れられたのはどうしてだと思いますか。


劉:いろんな要素がからみあってのことだとは思います。私が出した過去作品の影響や、他の地域での反応を見てのことかもしれませんし、いま未曽有の災難に多くの人がさらされていることと、もしかしたら照らし合わせて考えた人がいるのかなという気もします。ですが、はっきりいってわからないですね。ただ、日本にはかなり成熟したSF文化の土壌がもともとあって、日本の読者のみなさんも、SF小説に熟知していると思っています。なので、SFファン向けに書いたはずのものにたくさんの日本の読者が反応してくれるというのは、さほど驚きませんでした。台湾や韓国では、とくにこの第三部の『死神永生』はそんなに売れなかったんですよ。


大森:劉さんは以前あるエッセイで、『死神永生』に関しては内容的にSFファン向けにならざるをえないから、あまり売れないだろうと思っていた、とお書きになっていましたね。ところが実際は広い読者から支持されて、三部作がブレイクする原動力になり、すごく驚かれた、と。


劉:確かにそうでした。


大森:中国での反応というのは、三冊目で変わったのでしょうか。


劉:そうですね、個人的な考えではありますけど、おそらく第三部で、読者にSFとしての魅力が伝わったのではないかと思います。これまで中国の読者は古いタイプのSFしか知らなかったけれど、第三部が出たことでこれもSFなのだということが周知され、人気が出たのではないかと思います。


 いま、世界で発売されているSF小説はけっこう内に向かうような作品が多い気がしています。私は、SF小説は広く大きなものを書くべきだと思っていまして、それが『三体』三部作の創作の原則ともなっています。それが結果、読者層を広げたのではないかと思います。


大森:確かに、SF小説の歴史をふりかえると、すごく大きなスケールで人類の未来や宇宙の未来を描くSFというのは、世界的に見ても、1980年代以降、あまり流行らなくなっていました。小松左京やアーサー・C・クラークがかつて書いていたような、そういうスケールの大きな、昔風のSFのおもしろさが、『三体』によって再発見されたのではないかと思うんです。


劉:個人的には、SF小説は、人の視界を広げる手助けができるものではないかと思います。自分だけじゃなくて、宇宙全体を見るようなそういう目をはぐくむことができるのではないか。昨今の欧米のSFはそういった方向性が少し減ったように思います。


大森:そうですね、日本のSFについても、同じようなことがいえると思います。そこに『三体』が大きな衝撃を与えて、SFのありかたそのものが問い直されている気がしました。個人的にもおおいに反省したところです。


劉:日本のSF小説は、大きなところを見る部分が残されていると思います。『三体』は日本のSF、具体的には小松左京先生の『日本沈没』の影響を受けています。日本のSFからインスピレーションを得たものは多いです。


 日本人にとっては、島国ということもあり、沈没というのは大きな恐怖だったのではないかと思うんです。中国人としては、沈没といわれてもピンとこないんですね。では、中国人にとってなにが一番恐怖に感じるのかというと、未知のものが侵入してくるということではないかと思ったんです。それで『三体』を書こうと思いました。私が書くようなSF小説は、中国のSFの主流ではなくて、むしろちょっと特殊分野に入る感じです。『三体』のようなSFを中国で探そうとすると大変ですね。


大森:日本のSFにとっても、『三体』は、いま主流になっているのとは全然タイプの違う作品だったので、それが衝撃的だったと同時に、新しいスタンダードになるのではないかと思っています。しかし、いまのお話だと、中国でも、劉さんのあとに続く人はなかなかいないということでしょうか。


劉:時代が進むにつれて中国SF小説界も変化しています。流れを止められないような状況になっていて、まさに今中国のSF業界はアメリカSFの黄金時代のような状況ではないかと思います。自分はだんだん小さくなっていく土地を最後まで死守する人間のような気持ちです。


大森:ただ、その小さくなっていく領域が、読者にはものすごくアピールするということですよね。日本では、1980年に、ジェイムズ・P・ホーガンの『星を継ぐもの』という長篇が邦訳されて、SF読者以外にも熱狂的に支持され、いまも読まれ続けています。『三体』を読んで、この『星を継ぐもの』を思い出したという読者が非常に多かったんですが、劉さんは『星を継ぐもの』はご存じですか。


劉:はい。英語版はちょっと探せなくて、ネットで一部を見ただけなんですが、好きな本です。


大森:日本のSFでも、ジャンルの草創期、1960年代から70年代にかけての黄金時代に書かれていた名作が折に触れてリバイバルしています。小松左京さんの作品で言えば、震災があれば『日本沈没』が脚光を浴び、パンデミックがあれば『復活の日』がベストセラーになるという具合です。ところが日本では、そういう作品がなかなか新しく生まれないという問題があります。これは、英米のSFに関してもそうかもしれません。ところが『三体』は、現代の作品であるにもかかわらず、小松左京やクラークの古典的名作に匹敵する人気と知名度を獲得していますし、これから先も長く読まれつづけるでしょう。その要因はどんなところにあるのでしょうか。


劉:いま、中国ではSF文学がたくさん出てきていますが、それは時代背景のせいもあると思っています。いまの時代によって一連の作品が押し出されている感じですね。なかには一部、現実的な問題を描いたものもあります。わたしはSF作品を書いているので、あまり現実的ではない、もっと長期的に物事を見つめたものを書きたいと思います。大きな災難が発生するさいに、そういった作品を読んでいると、まったく読んでいない場合と比べて、受ける衝撃は小さくて済むのではないかと思います。少なくともそれを読んだことがある人たちは心の準備ができていたのではないか、あるいはこういった災難が起こりうるということを意識していた、知っていたということになりますから。そういう点では、わたしの作品は一定の役割を果たしているのではないかと思います。


■『死神永生』について


大森:第三巻の『死神永生』についていくつかうかがいたいと思います。多くの日本の読者は、これから初めて第三部を読むことになりますが、いきなりコンスタンティノープル陥落のシーンからはじまるのでびっくりするのではないかと思います。この時代をオープニングに選んだ理由はあるのでしょうか。


劉:のちの四次元や多次元、地球の衝突という展開の伏線にあたるシーンですね。ローマ帝国、あるいは東ローマ帝国はすごく繁栄した帝国で、長期にわたって存在したにもかかわらず、最終的には滅亡した。そのことを最初に持ってきたかったんです。どんなに長い歴史があったとしても終わりがある。決して永遠なものはないということです。いまの人類の歴史に対するちょっとしたヒントでもありますね。


 補足ですが、すべての文学的な題材の中で、SFだけが歴史の終わりをきちんとはっきり書けるのではないかと思っています。SF小説の中で、歴史が終わるとか、ひとつの文明が終わることを書くことは可能ですが、これは悲劇として書いているわけではなく、かならず発生すること。すべての人には終わりがあるのだけども、それは悲劇ではないということです。
大森 『死神永生』では歴史の終わり、人類文明の滅亡、太陽系の滅亡がたいへん美しく詩的に描かれていると思います。三部作を通しても、もっとも印象的なシーンのひとつですね。《三体》三部作では、終末決戦のような破壊の場面や、太陽系の二次元化のようなシーンを、壮大なスペクタクルとして華麗かつリアルに描く点が特徴だと思うんですが、そこに関していちばん苦労したことはなんでしょうか。


劉:『死神永生』では、多くの滅亡の場面が出てきます。しかも、なにかの一部だけの滅亡ではなく、大々的な滅亡です。もっともこれは、SFではよく扱われるテーマだとは思いますが……。


 わたしが苦労したのは、滅亡していくなかでの詩的な感覚です。大々的な滅亡であり、大いなる悲劇であり、すべての命が消えていくのだけども、なぜか美しく詩的で、残酷なのだけどポエジーがあるというように描くことに苦労しました。


大森:作中では、ゴッホの『星月夜』がたいへん効果的に使われていますね。非常に美しいシーンで、日本の読者にも強い印象を与えるのではないかと思いました。


劉:この絵は、初めて見たときのことを印象深く覚えています。とても興味があったんです。ゴッホはなぜこのような絵を描いたのだろうと。SF小説のファンとして、もしかしたら画家はこれを未来の宇宙で見てきて描いたのではないかと思い、そこからインスピレーションを得たんです。あの絵を見て、宇宙の天体がなぜこれほどまでに大きいのだろうか、この絵の中でなぜこんなに大きく描かれているのだろうか、と不思議に思いました。天体の質量が変わるわけではないので、SF作家として解釈すると、「これは三次元が二次元に変わったからこんな状態になったのではないか」と思ったんです。だとしたら、ものすごい恐怖ですよね。ゴッホは宇宙の次元がひとつ減ったところを描いたのではないかと思って、あのシーンを書いたんです。


大森:なるほど、主人公の程心が作中で思うことは、劉さんの実感だったんですね。『死神永生』では、その二次元化攻撃が、大きな核のひとつになっています。これは、第一部の『三体』を最初に書いたときから、こういうふうにして太陽系を滅亡させようと考えていたんでしょうか。


劉:はい、考えていました。第一部の最初を書き始めたときに第三部も終わっていました。じつは、第一部を書き終えたときに、第三部の二次元化による滅亡の話をうっかりバラしてしまったことがあったんです(笑)。浙江省の杭州で友人と酒を飲んでいたとき、杭州を壊滅させるのにはどうしたらいいかという話になりました。杭州は絹がとても有名な場所なので、絹の中に落とし込んでしまえばいいのではないか、ひいては、織物ではなく、絹の糸一本に、町を落とし込めばいいんじゃないかという話をしたんです。そのあと、相手はどうやらそのことを忘れてしまったらしいんですが、『死神永生』を読んで思い出したそうです(笑)。


大森:まさかそれが、三部作を締めくくるネタになろうとは。相手のかたは、さぞかし読んでびっくりしたでしょうね。一方、日本の読者の中には、『黒暗森林』のラストが非常に美しく鮮やかに決まっているので、もうこれで終わりでいいんじゃないかとか、このあといったいどうやって続けるのかという声が多かったんです。それに対して、中国の読者は、『死神永生』の滅亡シーンがトラウマになっている人が多いのか、日本の読者に向かって、SNS上で、「これから覚悟して第三部を読め」とか、「震えて待て」とかコメントしていました(笑)。中国ではこのラストはショッキングにとらえられたということでしょうか。


劉:たぶん、その中国の読者たちは、異星人との接触というのがいままで自分たちが経験してきた災難とは異なる、いままでの常識で考えられないものだったから衝撃を受けたのだと思います。異星人の持っている力が、わたしたちの想像をはるかに超えてくるということで、大きな衝撃を受けたのではないでしょうか。ただ、滅亡ということ自体は、中国のSF作品でも数多くありますし、中国のSF読者の人たちも知らないわけではないと思います。


 別の角度からいうと、中国の読者に、「世界最後の日」を受け入れさせるのはとても難しいんです。中国の文化に「最後の日」という概念がないんです。仏教は最後が存在せず死んでも輪廻するので、本当の最後ではない。しいていえば滅亡というのは、キリスト教から中国に入ってきた考え方ではないかと。滅亡という概念をSFという空想の中で考えるしかないので、中国の読者が最後の日を受け入れるのは難しいのではないでしょうか。第三部でことごとく滅亡してしまうのは、大きな驚きだったのではないかと思います。


大森:日本の読者が実際に『死神永生』をどう受けとめるかが楽しみですね。そういう破壊の要素とは対照的に、『死神永生』では、ラブストーリーの要素も強いですね。全体を通して、程心と雲天明の恋愛が軸になっているともいえます。こうした恋愛要素は、劉さんにとってはテーマのひとつなのか、それともSF的な物語を描くための道具なのか、どちらなのでしょうか。


劉:恋愛は、伝統的な文学、あるいは現実を描いた小説の中では、永遠のテーマとして数千年にわたって描かれてきました。しかし、SF小説の中では、恋愛の要素は薄いと思っています。SF小説のスパンは時間軸でみても空間軸でみてもあまりに大きすぎるので、その中でたったふたりの恋愛というのは、必然的に小さくなります。ただ、『死神永生』では、現実の伝統的な恋愛を、ものすごく長い時間軸と巨大な空間の中に努力して落とし込んでいます。これだけ長い時間軸からみると、わたしたちはとてもちっぽけな存在だなと思います。時間軸がこれだけ長大になったからといって愛情も大きくなるかというと、そうではないからです。ほかの小説では、愛は偉大だというようなことが出てきますが、それとはちょっと違うかなと思います。空間や時間がどれだけ拡大しても、わたしたちはちっぽけな存在なのだということが書きたかったのです。


大森:日本の読者にとって『死神永生』の中でとくに印象的なキャラクターは、ソフォン=智子だと思います。着物姿でお茶を点てたり、ニンジャ装束で日本刀をふるったり、その日本的なファッションが目を惹きますが、日本の読者に読まれることは想定されていましたか。


劉:特に複雑な理由はなく、智子はもともと中国語からきている言葉なんです。それがたまたま日本人の女の子の名前みたいだったというだけですね。


大森:たまたま日本人みたいな名前だったから日本風のファッションにされたということですか。


劉:もともと中国語で「知恵のある粒子」みたいな意味の言葉があって、それが省略されて智子になったんです。それが日本人の女の子の名前のように響くということですね。


■「世界SF作家会議」について


大森:『三体』の話からは少し離れますが、劉さんにも出演していただいた「世界SF作家会議」というフジテレビの番組が本になりました。これから番外篇が放送されるので、そちらに向けて、二つ、コメントをお願いしたいと番組からリクエストされています。この番組は、日本のSF作家に加え、劉さんのほかにも、『三体』の翻訳者でもあるアメリカのケン・リュウさん、中国の陳楸帆さん、韓国のキム・チョヨプさんに参加していただいて、いろんな問題について話し合うという内容です。まず、番組が本になったことについて、ひとこといただけますでしょうか。


劉:番組に出演したことは、忘れられない思い出でした。早く本の実物が見たいですね。


大森:最初に出演していただいたときに、コロナ禍についてうかがいました。そのとき、劉さんは、パンデミックという災害はまったく予想できないものではなかったとおっしゃっていました。過去に何度も前例のあることだから、備えられたはずだ、と。実際、中国は早期に収束させたわけですが、世界ではいまだにCOVID-19を制圧できていません。あれから一年近く経って、コロナの世界的な状況についてはどうお考えですか。


劉:わたしの周辺ではコロナは去年の五月に終わっていて、記憶の一部になっています。わたしたちのところでは過去形になっていますが、世界的にコロナ禍が続いているのは、各国の考え方によるものなのではないかと思っています。直線的に発展を続けてきて、そのまま発展が続いていくとみんなが思い込んでいたところに想定外の事態が発生した。それに対する予防措置がきちんととれていなかったのではないか、考える能力が欠けていたからこうなっていたのではないかと思います。想定外のことというのは、必ずしも今回の大規模な感染症だけではなく、それ以外のことも起こりうると思います。


 それともうひとつ、平和な状況の時と、災難がふりかかっている時とでは、社会の動き方が同じではないということです。大きな災害が降りかかった時、すぐにそれに対応する状況に移れないと、すみやかに抑え込むことはできない。今回の新型コロナウイルスがパンデミックを起こしたことは、その教訓になったのではないかと思います。


大森:『三体』三部作を読むことも、そういう予想外の災害に対する備えになりうると思います。


劉:小説はあくまで、こういったことがありうる、あるいはこういうことを考えた方がいいという思考回路を提供するだけです。本当にやろうとするのであれば、もっとしっかりやらないといけないですし、大変だと思います。


大森:最後にひとつ。これから『死神永生』を読む日本の読者に向けて一言メッセージをいただけますか。


劉:日本の読者のみなさん、こんにちは。『三体』を読んでいただきありがとうございます。読者のみなさんも私と一緒にこの長い紆余曲折の道のりを歩んでくださっていることに感謝します。一緒に人類の未来を考えて、大きな災難が来ることをともに疑似体験し、異星人との接触も体験しましょう。ぜひ、ほかのSF小説を読むときと同じように楽しんで読んでいただきたいと思いますし、いろんなことを考えてほしいと思います。私たちは同じ世界にいます。ぜひ、楽しんでください。ありがとうございました。


大森:ありがとうございました。