「LGBTQ+という言葉の認知度が広がっている」という文章を何度書いたかわからない。当事者たちは突然現れたわけではなく、ずっといる存在なのに、勝手にカテゴライズをして"そんな言葉が広がっている"と書く。そのたびに違和感を抱いていた。
7月1日公開の映画『スーパーノヴァ』(脚本・監督:ハリー・マックイーン)は、簡単にいえば、人生の終わりを見据えた男性と、彼を愛するパートナーを描いたゲイ映画だ。それでも劇中では、誰のセクシュアリティについても言及されていない。「LGBTQ+」という言葉でカテゴライズしなくても、人間誰しも感じうることが描かれている映画だった。
"愛する人を最期まで看取りたい"というと、感動超大作!という感じだが……
映画は、古ぼけたキャンピングカーで主人公たちが旅に出るところから始まる。作家のタスカー(演:スタンリー・トゥッチ)は助手席で皮肉たっぷりのジョークを繰り出す。運転をするサム(演:コリン・ファース)は呆れながらも笑ってしまう。20年間を共にしてきた2人、いつものやり取りなのだろう。
タスカーはこの数年、少しずつ記憶と能力をなくしていく病と闘っている。サムは励ましながらも胸中は穏やかではない。ピアニストのサムはこの旅の最終目的地で行う演奏会を最後に、愛するタスカーと最期まで一緒にいようとしている。
"愛する人を最期まで看取りたい"というと、感動超大作!という感じだが、自分が病に苦しむタスカーの立場ならどうだろう。徐々に記憶が失われて、身体も動かなくなる。最愛の人の顔もわからなくなる。
一緒にいたいけど、愛する人に"自分のすべてがままならなくなる姿"を見せてしまうのは非常に怖くはないか。申し訳なく、いたたまれない気持ちにならないだろうか。それは異性相手でも、同性でも、親子でも、友人でも、どんな関係性でも言えることではないか。
筆者は映画でも小説でも「この作品に共感しました!」と訴求するCMが得意ではない。それでも同作で描かれているのは"人間の在り方"や"一人の人間として、相手にどう接するか"だ。それは普遍的で、誰もが一度はぶつかったことがある問題ではないだろうか。
"お互いを尊重してずっと一緒にいられる人生"を否定しない人たち
映画に限らずLGBTQ+を取り扱う作品には、当事者に対して差別的な感情を持っている人物が登場しがちな印象がある。こうした人々が当事者と接するうちに"和解"するシーンが描かれることも少なくはない。
同作で、家族や知人らがサムとタスカーの在り方を誰も否定することはない。"愛し合っていて一緒にいる2人"と捉えている。サムの姉夫婦は2人を喜んで迎え入れるし、タスカー主催のサプライズパーティーに友人たちが駆けつけてくれる。
ユーモアや文化を愛している人たちが、お互いを尊重してずっと一緒にいられる人生は最高だし、それを周囲の人たちが否定しないことも素敵だ。日本ではまだまだセクシュアリティについて話題にしにくい空気がある。誰を愛しても愛さなくても、全員が生きやすい世の中でなればいいと改めて思った。
同作は、何かに打ち勝とうとする映画ではない。淡々としたストーリーに感じる人もいるだろう。個人的には、このような描かれ方が誠実に感じられ、嬉しかった。劇中ではLGBTQ+であることが当たり前のように受け入れられ、「認知度が広がっている」という言葉が不要だったからかもしれない。
2人の関係性やお互いへの思いについても、静謐だけど情熱的で、目が離せなかった。"普通"や"普遍"とはどういうものか、改めて考えてしまう映画だ。これが95分に収まっているのもすごいと思う。
同作は7月1日(木)から、TOHOシネマズシャンテほかで全国順次ロードショー。