トップへ

平野啓一郎が語る、疲弊した社会に必要なこと 「知的になることで感情的な苦しさから解放されることはあるはず」

2021年06月15日 12:01  リアルサウンド

リアルサウンド

平野啓一郎

 拡大する経済格差、急速に進む少子高齢化、世界中に災害をもたらす気候変動、AI技術の進化と浮き彫りになる問題点。予想を遥かに超えるスピードで変化し続ける世界において、小説が果たす役割、そして、読者に与えられるものとは何か? 平野啓一郎の新作『本心』は、その理想的な答えの一つだと思う。


参考:朝井リョウが語る、小説家としての心境の変化 「不確定な状態が自然なんだと受け入れられた」


 福山雅治、石田ゆり子で映画化され、累計58万部以上のヒットを記録した小説『マチネの終わりに』、人間のアイデンティティの在り処を描いた『ある男』に続く最新作『本心』は、“自由死”(死を自己決定できる権利)が合法化された2040年代の日本を舞台にした近未来小説だ。主人公は、“自由死”を希望していた母を交通事故で亡くした独身男性、朔也。彼は母親の“VF”(ヴァーチャル・フィギア)の制作を業者に依頼、ヴァーチャルな空間で母親と会話を重ねながら、自ら死を選ぼうとしていた本心を探ろうとする。その過程において彼は、母の友人だった元セックスワーカーの女性、VFのアバター・デザイナーとして成功を手に入れた若者、かつて交際していた老境の作家と出会い、母と自分自身に関係を根底から見つめ直すことになる。


 貧困、ギグワーク、社会の分断といった現代的なテーマを重層的に織り込みながら、まるでミステリーを読んでいるようなスリリングな読書体験をもたらしてくれる本作について、平野啓一郎に聞いた。(森朋之)


■突き放すような書き方はできなかった


——新作『本心』の舞台は2040年代の日本。主人公の朔也はリアル・アバター(依頼者の分身として外出するギグワーク)として働いていて、経済的に不安定な立場に置かれています。さらにAI技術、格差、気候変動なども含めて、現在と地続きな世界が設定さていますね。


平野:近未来小説やSFのなかには、「絶対にこうならない」という世界を描いた作品もありますが、僕はそういうものにあまり関心が持てないんですよ。もちろん、あり得ない世界でこそ描ける物語もあると思いますが、僕自身は、今現在の社会を考えるということが根本にあるので。『本心』のストーリーも、ある程度リサーチしたり、「こうなるんじゃないか」という現実的な未来予測をもとにしています。


ーー現在の社会の状況はかなり深刻だと思いますし、この先、良くなっていくビジョンを持ちづらいのでは?


平野:そうですね。今の状況であんまり希望のない話をするのも何ですが、不確定な未来予測のなかで、世界的な気候変動と日本の少子高齢化は必ず起きることですよね。特に少子高齢化は、相当な数のカップルが3人以上子供を作らないと人口は減っていくわけですから、きわめて高い確率で起きる。あとはそのスピードがどれくらいか、ということですよね。経済的な格差もどんどん開いてますし、この30年くらいの変化、そして、この10年くらいの政治、社会の状況でほとんどとどめを刺された状態だと思います。ここから立ち直っていくにしても、どこからどう手を付けていいかわからないほどダメージを負っているし、どうしても悲観的な予測にならざるを得ない。ただ、僕には小学生の子どもが二人いるんですよ。彼らの世代が大人になって、社会の中心になって活躍するときのことを考えると、夢も希望もない物語を描く気にはなれなかったんです、心情的にも。


——今が絶望的であっても、その先にある希望を見出したいと。


平野:ええ。自分自身がいわゆるロスジェネ世代、団塊ジュニア世代であることも影響しています。経産省が「老後は2000万円以上の貯金がないとやっていけない」などと言ってますが、そんな貯金は出来てない人が大半だと思いますし、年金制度も破綻寸前。最近は国が税金を何に使うかに意識的になっている人が増えていると思いますが、社会的弱者に使われそうになると「そんな連中に使うべきではない」とヒステリックにがなり立てる人が表れますよね。そのことを踏まえると、僕らの世代が高齢者になったとき、「いつまで生きるのか」という問いが突きつけられるのは目に見えていると思うんです。そういう状況を迎えた時期の、一人の母親と一人の子どもの物語を作りたいと思ったのも、『本心』を書いた一つの動機ですね。


——朔也の母親は、70才という年齢で「自由死を選びたい」と言い出します。これは死を自分で決定できる権利ですが、新聞連載時には“安楽死”という言葉が使われていました。あえて“自由死”という言葉を使ったのはどうしてなんですか?


平野:それは僕が以前から提唱している“分人主義”とも関係しています。分人主義は、対人関係や環境によって、いろいろな自分になっていくという考え方。そのなかには心地いい分人もいれば、ストレスに感じる分人もあり、それを総合的に客観視しましょうということを言ってきたんですが、自分が死ぬときのことを考えると、できれば、心地よくて幸福感のある分人でそのときを迎えたい。愛する人に看取ってもらいながら、死の恐怖感をシェアしてもらえるのが理想じゃないかなと。ただ、どんなに気を付けていても突如として死が訪れることはあるし、事前に予定調整をしない限り、理想的な死の状況を作ることはできない。そこから発展させて、人生の他の大事なことと同じように、「死を自分のタイミングで決めることは社会的に許せるのか?」ということから考え始めたんですね。


——穏やかな分人で死を迎えるためには、自由死という権利が必要かもしれないと。


平野:それはあくまでも自由な決定であるべきなんですが、世の中が新自由主義に傾いてからは、“自由”という言葉にネガティブな要素が含まれるようになったとも思っていて。もし自由死が法制度化されたとしても、一見、主体的に決定しているように思えても、じつは社会構造や経済的な理由に追い詰められるケースがいくらでも出てくるだろうなと。


——なるほど。実際、安楽死を認める国や地域も増えているし、とても現実的な問題ですよね。


平野:オランダなどでは安楽死が合法化されていますが、条件が厳密に設定されているんです。決して治らない病気や、苦痛が永続的に続く状態などですが、『本心』では当初、それが無限に拡張された状態を書こうとしていたんです。やまゆり園の事件(相模原障害者施設殺傷事件)に象徴的ですが、優生思想に基づいて、社会において救われるべき人、救う必要がない人間に分けようとする動きがある以上、仮に“自由死”が認められたとしても、そういう思想と対決しなくてはいけないと思っています。さらに加えると、現在の日本で「尊厳死」と呼ばれているものには、概念的に安楽死に含まれているんです。積極的な安楽死は医師が注射をうって絶命させることで、消極的安楽死は終末ケアを施し、最後の瞬間を看取るということなのですが、日本ではその「尊厳死」という言葉の導入のせいで曖昧にしたまま進んでしまっている。世界的には、早晩、「死の自己決定権を認めるべき」という議論が出てくると思いますし、繰り返しになりますが、他者が弱者に対して、「いつまで生きるつもりなんだ」という問いを突き付けることがあってはいけない。その前に「そもそも死の自己決定が可能なのか」という哲学的な問いは立てられるべきだと思っています。


——『本心』のなかで朔也の母親は、自由死を希望した理由について「十分に生きた」と告げます。朔也は「母の本心は何だったのか」「経済的に不安定な自分の負担になりたくなかったのでは?」と自問自答を繰り返しますが、そこにも経済格差の影響が感じられますね。


平野:他者との比較からは逃れられないですからね。小説のなかで復員兵の話を少し書いたのですが、僕の祖父は徴兵されて、今のミャンマー、昔で言うビルマで戦争を経験していて。命からがら帰ってきたのですが、祖父の死生観には「本当はあそこで終わっていた命だし、戦友たちはみんな死んでしまった。自分はいつ死んでもいい」という感じが強くあったんです。ある意味、贅沢な生を生きていると言いますか。それ自体は否定できないですが、今後、同じような感覚を持つ人が増えるような気がしているんです。団塊ジュニア世代には、今も厳しい状況で生活している人がたくさんいますし、人生の途中で自死を選んでしまう人もいる。このままいけば近い将来、ある年齢に達したときに、それに比べれば、「自分は十分に生きた」という境地に達する可能性はかなりあるでしょうね。もしかしたら、僕自身もそう思うかもしれないですし。だけどそれは、社会の状況のなかで生じる感情であって、その人の本心なのかと言えば、何とも言えないところがあると思うんですよね。


——母親の本心を知りたいという朔也の思いを巡る物語は、“最愛の人の他者性”という言葉に辿り着きます。これは小説『本心』の核心となる言葉であり、分人主義の考え方とも重なっていると思います。ポイントは“愛する人が自分以外に見せている側面を受け入れられるかどうか”だと感じましたが、現実的にこの考えを受け入れるのは、かなりハードルが高いような気もしました。


平野:“最愛の人”ではなくて、“仲のいい人”くらいであれば、分人の多様性を受け入れることはできると思うんですよ。ネットの浸透からかなり時間が経って、“ひとりの人が、場所によって違う顔を見せる”ということも可視化されていますし。ただ、親の場合は難しいかもしれないですね。自分が知っている姿こそが親だし、その人自身と一体化しているところもあるので。自分が知らない場所で、親がどういう人間だったのかは、生前も、亡くなってからもよくわからないんですよね。もう一つは、愛する人も他者であるということ。相手の考えや行動が理解できないとき、それを受け入れるのが愛なのか、それとも、しっかり関与して考えや行動を変えさせるのが愛なのか。それも非常に難しい判断です。たとえば親が「自由死したい」と言ったとき、それは倫理的に間違っているとは言えないし、こちらとしては「死んでほしくない」という気持ちもあるわけで。僕自身は、文学を通じて、人間がより良く生きることにつながる思想や哲学を語りたいということを常に思ってるんです。単純なことかもしれないけど、文学史、哲学史を見ても、そういう根本的なものがベースになっていると思うので。


——死に向き合うことで、より良い生につなげてほしいと。


平野:死を賞揚したり、美化するのも良くないです。そういう考えは、簡単に利用されてしまいます。あとは、新聞連載中にコロナ禍になった影響もありますね。この時期に読むことを考えると、生きることに前向きになれるような内容、結末じゃないといけないなと。先ほども言いましたが、自分の子どもの世代が大人になった時期のことを考えると、どうしても突き放すような書き方はできなかったですね。


■「がんばれ」と言われることに辟易してるんじゃないか


——母親の友達で、元セックスワーカーの三好も、この物語の大きなポイントだと思います。彼女は現実を受け入れ、「格差があってもしょうがない」「セレブの世界はそのままあってほしい」という考え方をしてますが、こういうタイプの人は増えてますよね。


平野:そうでしょうね。小説のなかでも、彼女の思想が大きく変化することはなく、社会の在り方を内面化しているところがある。実際、そういう傾向の人は多いと思います。たとえばアメリカのトランプ支持者が、何の利益も受けていないにも関わらず、熱狂的に彼を支持していたり。日本の場合だと、前政権から続く新自由的主義的な改革のために厳しく追い詰められているのにも関わらず、なぜか政府を支持する若者だとか。「この現象は何だろう?」とずっと不思議だったんですよ。政治に対する無知もあるだろうし、「よくわからないし、今のままでいい」だとか、あとは「一生懸命やってるんだから批判はよくない」というレベルまで、いろいろな理由があるんでしょうけどね。格差は良くないと思っていても、「ドラスティックに改革して、全部がダメになるんだったら、今の方がマシ」だとか。


——「上手くいってる人、経済的に成功している人もいるんだから、このままでいい」という考え方もありますね。


平野:そうですね。「もしかしたら自分もそこにアクセスできるかもしれない」と期待している人もいるし、できなくても、セレブの人たちのインスタを見て、彼らの生活をバーチャルでシェアすることで満たされたり。僕自身は「それではいけないのでは」と思いますけど、そういうことを感じながら生きている三好のような人間を責めることもできないんですよね。


——確かに『本心』という小説において平野さんは、どの登場人物も肯定しているように感じました。老作家の藤原は、「小説家として優しくなるべきだと、本心から思ったんです」と語りますが、これは平野さん自身の本心でもあるのでしょうか?


平野:その質問はよくいただくんですが、藤原という作家は、森鴎外のイメージを重ねているところがあるんです。鴎外は子供の頃に神童と呼ばれ、海外留学も経験し、若い頃は文壇でもかなり論争好きでした。軍医としても出世したエリートだったのですが、日清戦争後に小倉に左遷された頃から優しくなったと言われているんです。藤原に関しては、そのイメージを持ちながら描写していたんですが、「これは平野さん自身の変化では?」と感じる方も多いみたいで(笑)。確かに僕自身の変化もあるかもしれないけど、社会全体もそちらの方向に少しずつ変わっています。「厳しい競争を勝ち抜いて、偉業をなした人を讃えよう」という価値観を脱しつつあると言いますか。みんな疲弊していますし、格差が開くなか、「無理にでもがんばれ」と言われることに辟易してるんじゃないかなと。


——そんなにがんばらなくていいじゃないか、と。


平野:そうですね。ちょっと話が飛びますが、オリンピックに対する見方が変わってきているのも、その一つだと思うんです。僕自身は招致の段階から東京オリンピックに反対していますが、以前はオリンピック自体にネガティブな感情を持ったことはなくて、4年に1回、それなりに楽しんできたほうなんですよ。でも、今はIOCという組織に辟易しているし、オリンピックを頂点としてモデル化され、アスリートがそこを目指すというピラミッド型のイメージの弊害も大きいと思うんですね。オリンピックという一発勝負の為に人生のすべてをかけ、ハードな練習を続け、それでも足りないとドーピングに手を出す選手も後を絶たない。その姿を見ていて、多くの人が「努力し、秀でた人だけを称賛する」という価値観に冷めてきてるんじゃないかなと。「みんなが、その人なりにやっている」というほうが社会は成熟していると思いますし。話を小説に戻すと、藤原という作家の変化も、社会的な価値観の変化と軌を一にしているイメージがあるんです。


——なるほど。大坂なおみ選手がフレンチオープンの記者会見を拒否し、大会を辞退したときは、SNSのなかで賛成、反対の意見が飛び交いました。あの様子を見ていると、日本はまだまだ過渡期なのかなと思いますけどね。


平野:記者会見なんて、別になくていいじゃないですか。しかも体調がよくないと言っているのに、「プロならやれ」といった言葉を投げかけるのは、残酷だし、古い固定観念に捉われていると思いますけどね。僕は少年時代から落合博満という野球選手のファンだったんですよ。彼は監督時代も不愛想で、会見をやらないこともありましたが、そういうところも好きでしたね。記者の勉強不足やバカな質問もイヤだろうし、試合中の緊張状態の後の疲れもある。「今日は勘弁して」という日があってもいいと思いますけどね。


■小説のデザインについて考え方が変わった


——平野さんの小説のスタイルについても聞かせてください。『マチネの終わりに』『ある男』そして今回の『本心』もそうですが、ここ数年の平野作品は、物語のアウトラインが捉えやすく、同時に様々な哲学的、社会的なテーマが織り込まれている構造になっていますね。


平野:『かたちだけの愛』(2010年)という小説を書いたときに、プロダクトデザイン(製品のデザイン)を自分なりに勉強して、小説のデザインについて考え方が変わったところがあるんですよ。多くの人にとってリーダブルなものを書きたいという気持ちは以前からあったし、『決壊』(2008年)という小説なども「すごく長いけど、読みだすと最後まで読めた」という人が多かったんです。ただ、その頃はリニア(直線的)な構成というか、おもしろい場面を繋いでいくイメージで書いていて。先が読みたくなるところで切って、別のエピソードを繋ぐという、アメリカのドラマでいうと『ER緊急救命室』や『プリズン・ブレイク』みたいな手法ですよね。ただ、そのやり方で途中に哲学的な問いや社会情勢のことを書くと、読者によっては「物語が寸断されている」という感じを持ってしまうんです。


——「関係ない話が挟まっている」という印象になる?


平野:ええ。そういう経験を踏まえて、リニア構造ではなく、積層構造のようなデザインにしたほうがいいと考えるようになりました。表面ではできるだけ単純な物語がエレガントに描かれていて、下のレイヤーには社会的、哲学的な問題、言葉にできないアポリアのような事柄を込めるようにしたんです。会話のちょっとしたサイン、引用などで切れ込みを入れておいて、そこに気付いたり、興味のある人はさらに深い部分を読み込める。そうすれば、いろいろな読者に対応できます。再読でも楽しめますし。あとは、作品のコンセプトをひと言で表せるくらい単純化できれば理想的だと思ってます。昔の作家は、インタビュアーに「今回の作品のテーマは何ですか?」と聞かれて「それをひと言で言えるんだったら、わざわざ小説なんか書かない」と怒るようなこともあった。それも一つの意見だと思いますが、僕自身はーー最終的にはひと言で言い表せないことを書きたいですがーー小説のレイヤーのトップでは、できるだけ簡潔にテーマを集約したいんですよね。


——『本心』では、“最愛の人の他者性”という言葉に集約されているわけですね。


平野:はい。「この世界の複雑さと情報量をどうやって物語として成立させるか」ということを考え続けていますし、僕としては、かなり新しい書き方だと思っています。


——今の話は、音楽や映画など、他の表現分野にも共通しているかもしれないですね。わかりやすさと複雑さを共存させた表現が増えている印象もあるので。


平野:そうですね。僕にとって物語は、音楽におけるメロディなんですよ。メロディがある音楽と、メロディがない音楽では、聴いてもらえる人口が全然違う。僕自身もキャッチ—で美しいメロディがある音楽が好きだし、自分のポップな気質は大事にしたほうがいいなと。メロディラインが美しく伸びやかに描かれ、それを支える楽器編成やアレンジメントはとても凝っている。小説においても、それが理想ですね。


——平野さんは音楽への造詣も深いですが、現在進行形の音楽から影響を受けることもありそうですね。


平野:(音楽は)20世紀後半はちょっとがんばりすぎたかもしれないですね。だからといって、ドン決まりのベタなメロディに戻るのもどうかと思うし、優れたミュージシャンは絶妙なラインを狙ってますよね。現在のジャズもそうですが、キャッチ—でありながらも、雑多な要素が混ざり込んでいて、しかも決して難解ではない。聴く人を増やす方向に発展しているのはいいことですよね。


——平野さんと世代の近いロバート・グラスパーなどは、まさにそういうアーティストだと思います。


平野:そうですね。ジャズでさえ、ともするとエリート主義に陥りそうになりながら、(ロバート・グラスパーは)ヒップホップなどを融合させながら、一種の第2次フュージョン・ブームを生み出して。(ラッパーの)ケンドリック・ラマーも、ジャズミュージシャンのバックアップがあったからこそ、あれほどの音楽を作り出したわけで。良い作用を及ぼしていると思いますよ。


——『本心』の主人公・朔也は、物語の最後で、未来に向けた行動を起こします。この小説の読者に対しても、より良い生に向かって行動してほしいという思いもありますか?


平野:具体的なアクションまでは考えていませんが、僕自身の体験を振り返っても、この世界で生きていて、辛さ、孤独を感じたときに小説を読み始めて、非常に救われてきましたからね。感情的に共感するだけでなく、思想的にも練られたことは、とても良かったと思います。辛い状況にある人が、どうやってそこから抜け出すかということで言えば、いちばん大きいのは知的になることだと思うんですよ。なぜ、自分はこういう状況にいるのか。そして、なぜ自分たちに対して、社会はこんな態度を取るのか。それを感情的に受け取っているうちはなかなか解決できないんですが、よく考え、よく勉強し、知的になることで感情的な苦しさから解放されることはあるはずなので。作家のほうも、(作品に)心情的に共感してもらうことも大事ですが、“現実に対して知的に対処すべき”ということを書くことがすごく重要です。小説を読むことで、読者が自分の状況を整理できて、共感の先に“自分だったら、こんなふうに生きていけるんじゃないか”と具体的な生が控えているのであれば、それがいちばん望ましいですね。


——小説という形式には、その力があると。


平野:僕はそれを期待しています。僕はソーシャルメディアも使っているし、好きなほうだと思いますが、TwitterやFacebookでは、「じっくり議論した末に、考え方が変わる」ということには滅多にならない。たまに有名な人たちがSNS上で議論をやって、それを眺めながら、いろいろ考えることはあるかもしれないけど、それほど期待できないですね。一人の人間がある考えを持つに至るには長い年月が必要だし、そのためには小説のほうが有効ではないでしょうか。小説にはいろいろな登場人物がいて、その関係が描かれている。そこから生まれる物語を深く読み込むことで、凝り固まっていた思想が解きほぐされ、新しい考えに開かれる。そういう経験をしてもらえたらいいなと思っています。


——平野さんは以前から、「あまりにも社会の状況がひどいので、優れた小説を読むことで正気を保っている」と発言されてますが、それは今も変わらないですか?


平野:そうですね。「そもそも自分が小説を読み始めた動機はそれだったのでは」と思うくらいなので。心が落ち着くんですよ、まともな文章を読むと。日々、メディアを通して政治家のわけのわからない言葉を聞かされていて、それに対して反応もしますが、しょせんは無力じゃないですか。そんなことを繰り返していると、こっちのほうがおかしくなってしまう。優れた小説を読むことで心の平穏を保つことは、社会をまともに機能させるためにも必要だと思いますね。