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『進撃の巨人』無垢の巨人はなぜ笑っているのか? 諫山創の描く絵の怖さを考察

2021年06月15日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 『別冊少年マガジン』2009年10月号から連載が始まり、社会現象的な大ヒット作となった諫山創の『進撃の巨人』。先ごろ(6月9日)、その最終巻となる34巻が発売されたばかりだが、破壊と再生のループを予感させる謎めいたエピローグはもちろん、主人公とヒロインそれぞれの力強い“決断”を描いた、見事な終わり方だったといえるのではないだろうか。


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 さて、本稿ではそんな『進撃の巨人』の「絵」について、考えてみたい。何しろこの漫画、最初に人気に火がついたあたりから、ことあるごとに「絵が下手だ」と(SNSなどで)いわれ続けてきた作品だ。だが、果たして本当にそうなのだろうか、と私などは以前から思っていたのである。


■諫山創は巨人たちの顔や身体をあえて「変」に描いている


 たしかに、連載初期の――具体的にいえば1~2巻の絵を見てみれば、「稚拙」という言葉が頭をよぎらないではない。しかし「物語を絵で伝える」という意味では、とりわけ、「読者に恐怖を与えて、なおかつ、目を逸らさせない」という意味では、諫山創はこれ以上ないくらい巧みな絵を最初から描いていた、といえはしないだろうか(さらにいえば、コマ割りのテンポ、構図、セリフ回し、キャラクターの感情表現、アクションの見せ方などを含めた、いわゆるネーム作りは、彼が19歳の時に描いたという『進撃の巨人・読み切り版』の段階から実はかなり上手かった)。


 そう――諫山創の絵には、たしかに画家やイラストレーターが1枚の絵に注ぎ込むような意味での高い技巧はないかもしれないが、コマの連なりによって物語を伝える「漫画の絵」としては、初期の頃から充分すぎるくらいに機能しており、かつ、魅力的であったといってもいい。


 それは、彼が描く「無垢の巨人」の絵を見れば一目瞭然である。無垢の巨人とは、知性のない、人を食う恐ろしい怪物だが(その正体はのちに明らかになる)、この巨人たちの顔や身体のパーツのバランスがどことなく崩れている点を挙げて、諫山の絵を下手だという人が少なくない。だが、(もちろんデッサンやパースの知識がないわけではなく)おそらく作者は、すべてわかったうえで、あえて巨人たちの顔や身体を「変」に描いているのだ。


 なぜならば人は、「普通の感覚」では理解できないものに遭遇した時、不安や恐怖を感じるものであり、そういう意味では、無垢の巨人たちのアンバランスな身体表現というものは、言葉では説明できない生理的な恐怖を我々読者に突きつけてくる。このことをよく知っていたのがマニエリスム期の画家たちであり、彼らは、わざと人体を不自然な形でねじらせたり、首や手足の長さを異様なまでに伸ばしたりして、世にも奇怪な絵画の数々を描いた。


 また、無垢の巨人たちはいずれも滑稽な顔をしており(3巻で、主要キャラのひとり、リヴァイも「揃いも揃って………面白ぇ面(つら)しやがって…」といっている)、口元には常に微笑みを浮かべている者も少なくない。これがさらなる恐怖を読者に与えているといっていい。


 恐怖と笑いは紙一重――というのは昔からよくいわれていることではあるが、なかでも「笑顔」というものは、時と場合によっては恐ろしく見えてしまうことがある。


 たとえば、「春のやわらかい日差しのなか、美しい少女が微笑んでいる」という一文を読んで、不気味な印象を抱く人はまずいないだろうが、この次に、「彼女の右手には血まみれのナイフが握られており、その足元にはめった刺しにされた男の死体が――」と続ければどうだろうか。明るいイメージは一変し、ホラーの1シーンと化すことだろう。


 これがなぜ怖いかというと、本来は笑うようなシチュエーションではないにもかかわらず少女が笑っているからである。それは要するに、先に述べたように「普通の感覚」からは逸脱したビジュアルだからおぞましいのであり、『進撃の巨人』に話を戻せば、「人に似た巨大な存在が人を食う」という異常な行為――カニバリズムは人間の最大のタブーのひとつである――のさなかにも、無垢の巨人たちがへらへらと笑っているからこそ、「絵的」に怖いのだ(あなたがもし映画ファンなら、『シャイニング』でジャック・ニコルソンが見せる「例の笑顔」を思い出していただければ、私がいっている「怖さの原理」はなんとなくわかっていただけるはずだ)。


■諫山創の描く「怖い絵」は好奇心を刺激する


 とはいえ、ここである疑問を抱く方もおられるかもしれない。つまり、そんな恐ろしい場面は、それこそ「普通の感覚」では、目を背けたくなるのではないかと。そんな絵のどこが「魅力的」なのかと。これについては、「ホラー」と呼ばれるジャンルの「娯楽作品」が、なぜいまも昔も、少なくない数のファンによって支えられているのかを考えてみれば、わかりやすいだろう。


 人はなぜ、わざわざ恐ろしいホラーの映画を観たり、小説を読んだりするのか。それは、非日常の怪異に取り込まれた登場人物たちが恐ろしい目に合うさまを見る(読む)ことで、自分がいま「安全な場所」にいることを再確認できるからにほかならない。


 そう、このある種「嗜虐的」とさえいえる見方(読み方)は、かつての大衆文化の華――見世物小屋での出し物の多くが、怖さや残酷さを「売り」にしていたことにも通じるだろう。もちろん中にはそこからはみ出してしまうほど怖いものもあるだろうが、人はたいてい、「死」や「タブー」のイメージを恐れながらも、「現時点での自分の安全」を再確認するために、一歩離れた場所からそれを「見たい」とも思っているのだ。


 いずれにせよ、諫山創の描く「怖い絵」には――とりわけ無垢の巨人のビジュアルには、そうした大衆の「怖いもの見たさ」の好奇心に応えられる魅力が備わっており、『進撃の巨人』という漫画が社会現象的な大ヒット作になるには、何を差し置いてもまずは「あの絵」でなければならなかった、というのはそれほど間違った見解ではないだろう。


参考文献:『死の舞踏―恐怖についての10章―』スティーヴン・キング/安野玲・訳(ちくま文庫)