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2021年上半期の運勢も配信しているので、こちらもぜひチェックしてくださいね♡
2021年上半期の運勢 今週のおひつじ座の運勢illustration by ニシイズミユカ
消費者←→神の化身
今週のおひつじ座は、みずからの内に既に失われつつあるものを改めて認識していくこと。
日本では子どもの頃から「人に接する時には礼儀正しくしなさい」と教えられますが、その一方で、大人になって親しい間柄でも丁寧語を貫いていれば「人に心を開かない」だの「慇懃無礼で逆に失礼」だの言われてしまいます。これは、孔子の説くところの「恭(うやうや)しい人も、礼がなければ(心)労になってしまう」典型と言えるでしょう。
この「恭しい」とは相手へのリスペクトを持つことであり、相手をひとつの龍(神)の化身として見なすということ。「礼」とは自己を自己で支えるということ。地位や権威や他者に寄りかかって立つのではなくて、あくまで自分という存在が一体どれくらいの力で支えられているかをおおよそ自覚した上で、その責任を自分で引き受けつつそこに立っているということです。
誰か何を真にリスペクトするつもりなら、自分もまたひとつの神の化身として見なし、そんな他ならぬ自分自身を大事にする術を学んでいかなければならない。それがすなわち「礼」ということであり、今週のおひつじ座にとってのテーマなのだとも言えるでしょう。
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瞳の奥に光を通す
今週のおうし座は、視覚と触覚とを繋ぎあわせていくような星回り。
「目覚むれば裸の女もの書ける」(榮猿丸)は、色っぽいのか色っぽくないのかよく分からない句だ。「女」は昨晩見た夢について記録でもしているのか、急な仕事でもしているのだろうか。机に向かって背筋をピンと伸ばしてそうしているのか、ベッドに寝転がったままだらしなくそうしているのかで、まったく印象が変わってしまうが、願わくば後者であってほしいという気がする。
逆に、作者の描写はそういう下世話な現実におりていかないギリギリのラインにとどまって、そこに自分が置かれるように言葉を選んでいるように思える。だから、艶めかしさがあっても気分が悪くならないし、読めてしまうのだろう。それは今日では、貴重なことだと思う。
実際にやってみると、そうしたラインにちょうどよくとどまるのは案外難しいことだし、それをごく当たり前にできてしまう(少なくともそう見える)作者の手つきこそ、いい意味で色っぽいのだろう。あなたもまた、いま現在すでに自分に与えられているものの価値を、最大限に引き出していくための手つきを意識していくべし。
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やがて引き合う私たち
今週のふたご座は、遠くかけ離れた点と点をつないで、一つの星座を浮かび上がらせていくような星回り。
俳人の永田耕衣は昭和30年ごろに出した句集『吸毛集』のあとがきに、出会いは絶景であると書きましたが、昭和が終わる年のインタビューでは次のように語っていました。
『出会いは絶景だと言ったって、誰と会っても絶景だとは言えない。だけど、今日あんたと会うたのは絶景かも知れん。そういう出会いによって人間は個別に、自己の環境を広げていって、その環境を広げるだけじゃなくって深めていって、その人の影響というかな、仏教でいう「善縁」というものを得る。つまり、そういう感覚が絶景感覚よね。』
つまり、自分に生きがいを感じさせてくれたきっかけがあって、それは誰か何かとの出会いだったな、と。永田はそういう感覚を宝物のように大切をしていたし、石川五右衛門の「ああ絶景かな、ああ絶景かな」というセリフも同じことだろうと言っています。あなたもまた、自分の人生を変えた出会いをたどっていくことで、改めて自身の「生きがい」を浮き彫りにしてみるといいでしょう。
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はるかなスケールの中に身を置いて
今週のかに座は、純粋な偶然性に裸身で触れていくような星回り。
俳句はある日ある時のかけがえのない一瞬が言葉で映し出された表現であると同時に、そこに作者の命のきらめきが込められることで詩となり、芭蕉はそれを「ものの見えたる光消えざるうちに言ひとむべし」と言いましたが、「五月雨や降り残してや光堂」(松尾芭蕉)は、まさにそうした光が異様な瞬きとともに灯った句のひとつでしょう。
掲句の「光堂」とは、平泉中尊寺の本尊である阿弥陀如来を安置した金色堂のこと。建立されたのは鎌倉時代で、作者はその間の約500年の時間の流れを感じ取っていると同時に、長い道のりの果てで自分を待っていたものとやっと出会えたという感慨がそこに込められているのではないでしょうか。
つまり、この「光堂」とは、気の遠くなるようなはるかな過去から残された珠玉の時空であり、また自身が歩んできた道のりの先で待ち構えている可能性としての時空でもある訳で、両者と作者は大いなる循環のなかで一体化している訳です。あなたもまた、今ここに在る自分にさまざまな来し方行く末が映し出されていくことになるかも知れません。
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水車、嬰児、母親
今週のしし座は、「みずから」と「おのずから」のあわいに自分を置いていこうとするような星回り。
日本人の思想伝統では、あらゆるものが「おのずから成るもの」として尊重されてきた訳ですが、と同時に、人間は他の動物と違ってそうした「おのずから」の状況環境を「みずから」の働きに則して展開していくという不思議な二重性があるところにこそ生命力の躍動(=たましいの働き)を感じてきたのではないでしょうか。例えば、それは次のような一文の中にも見出されます。
『それ人道は、たとえば、水車のごとし。その形半分は水流にしたがひ、半分は水流に逆うて輪廻す。丸に水中には入れば廻らずして流るべし、また水を離るれば廻ることあるべからず。』
ここで言う「水流」とは、いわば物事のおのずからの働きのことですが、逆にみずからの働きはそれに丸ごと従うのでもなければ、それから離れてそれを一方的にコントロールするというのもでもない、そのあわいにおいて初めて成立してくるものなのかも知れません。あなたもまた、コントロール欲を放棄しつつも、特定の誰かや組織と関わっていくちょうどいい塩梅に当たりをつけていくべし。
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星の時間の到来
今週のおとめ座は、仮定された有機交流電燈の明滅を感じとっていくような星回り。
「翡翠(かわせみ)」は、渓流などで水中の魚を狙う翡翠色の鳥で、高いところから急降下して、魚をたくみに捕らえることで知られています。そして、翡翠がその川に棲んでいるかどうかは、川の清濁や、公害の有無を決定付けるバロメーターともなるそうですが、確かにあの鳥のいろどりは清流にふさわしいものと言えます。
「翡翠は流れをかつと涼しくす」(長倉いさを)は、おそらくそんな翡翠が突然目の前をよぎり、瑠璃色の羽をひるがえして水面すれすれに飛び去った一瞬の印象を詠んだもの。特に作者は「かつと」という言葉で、まぶしいばかりの夏の日差しを負って飛翔する翡翠の姿と、水面が乱反射してきらめいてるさまとを同時に捉えています。
それ以前と以後とで世界がまったく別物に見えてしまうような一瞬の涼感。それは五感を包んでいるより大きな自分の気配が強まった何よりの証しであり、世俗的な自分が相対化されていく際の一つのサインでもあるはず。あなたもまた、関わっていかざるを得ないしがらみの在り様がカチリと切り替わって決定的な一歩を踏み出す瞬間を迎えているのだと言えるでしょう。
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???
今週のてんびん座は、消化のしにくさ、難しさにこそ留まっていこうとするような星回り。
セバスチャン・ブロイは、2017年に刊行されたイギリスの批評家マーク・フィッシャーの『資本主義的リアリズム』のあとがきにあたる「諦めの常態化に抗う」という文章の中で、『資本主義は欲望と自己実現の可能性を解放する社会モデルとして賞賛されてきたにもかかわらず、なぜ精神健康の問題は近年もこれほど爆発的に増え続けたのだろう?社会的流動性のための経済的条件が破綻するなか、なぜ、私たちは「なににでもなれる」という自己実現の物語を信じ、ある種の社会的責務として受け入れているのだろう?』などと問いかけています。
ブロイのこうした問いかけは、あきらかに、私たちがそれぞれに体験している「傷つけられた生」を、単に「個人の物語」として自己完結的に捉えてしまわないように、という忠告を含んでおり(大坂なおみ選手の記者会見拒否の一件もそうであるように)、そうした捉え方をしている限り、先の問いの答えはいつまでも明かされないままでしょう。
今週のあなたもまた、なんとなく感じていた不安感をうやむやにせず、きちんと自分なりの言葉にしていくべし。
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力を取り戻すために
今週のさそり座は、危うくも決定的なバランスから立ち上がっていこうとするような星回り。
「五月雨や大河を前に家二軒」(与謝蕪村)は、作者が62歳のときに詠んだもの。「大河」はすさまじい川の流れを表している一方で、「家二軒」は洪水で孤立無援状態となった、いかにも弱弱しく貧寒としたさまを表しています。ここでは「大河」は力を振るっている強いものの象徴であり、それは現代であれば政治を私物化している政権などにあたるのではないでしょうか。
しかし、本来であれば民衆こそが大河であるはずです。なぜなら、民衆は一人ひとりは弱くても、心を寄せ合って結集していけば、たとえ大雨で濁流となった自然を前にしても、それを凌いでいくだけのポテンシャルを秘めており、少なくとも日本人にはそうした遠い遠い記憶が民族としてのDNAに刻み込まれているから。
本当に強いのは、「家二軒」の側の民衆の力なのです。その証拠に、政権運営は私たち民衆が払っている税金なしには成り立たない露いうこと。あなたもまた、手に負えない力の暴走に対していかに振る舞っていくべきか、改めて原点に立ち返っていきたいところです。
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枠の外へとはみ出していくこと
今週のいて座は、「これだけあればいい」という考え方の反対方向へ振り切っていくこと。
どんな分野の仕事であれ、それなりに長く続けていると、社会的にはインサイダーになってきます。少なくとも、そう見られるようになってくる。それで課される責任まで放棄していけというほど極端な話ではないにせよ、逆に言えば、そこで心中しないようにするということは、案外大切なマインドなのではないでしょうか。
たとえば、雑誌にしてもイベントにしても、ある一つの価値観や傾向でまとめるより、複数のレイヤーが重なりあっていたり、ランダムに繋ぎ合わされていくものを面白いと感じるのがいて座の人たちな訳ですが、やっぱり誰か人をはさんで仕事をしていくと、「色々ある」と言っても、どうしても通り一遍のものに落ち着いていきがちになります。
だから、そこではいかに「普通これはないよね」というものを呼び込んでいけるか、もうひとひねりにこだわっていけるか、ということが問われてくる訳です。あなたもまた、少しでも自分がハマり込んでしまいがちな特定のジャンルの外部に飛び出していくことを意識してみるといいでしょう。
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必要な言葉と沈黙
今週のやぎ座は、心の底からの本音を引き出していくような星回り。
ふつう、言いたいことがあったとしても、なかなかこうは言い切れないものです。「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」(三橋鷹女)は、作者37歳のときの句。とはいえ1930年代の37歳ですから、それはもう甘えたりすねたりといった態度を世の中に見せていい歳ではありませんでした。
そうすると、ここで作者が「嫌ひ」とあえて言い切っているのは、「女は〇〇すべき」とか「もういい歳なんだから××はするべきではない」といった、他者からの無責任な忠告だったり、忠告という口実を利用したコントロールであるだけでなく、そうした忠告やコントロールに自分から従いにいこうとしてしまう心の動きに対してでもあるのではないでしょうか。
つまり、この句は他者に向けられたものであると同時に、自分にも向けられているのであって、単に無茶を言ってそれを押し通そうとしている訳ではなく、どんな人間の心の奥にも潜んでいるものをあっけらかんとさらして見せてくれているのだと言えます。あなたもまた、いまの自分に必要な言葉を自分で自分に与えていくことを意識してみるべし。
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回復への欲望
今週のみずがめ座は、こころやからだの奥底で眠っていたエネルギーを交歓させ、混ざりあっていくような星回り。
今日では1932~62年までの約30年にわたりキューバの首都ハバナに実在した、会員制音楽クラブ「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」の名も世界的に知られるようになりましたが、実際に彼らが活動していた当時はキューバ国外ではほとんど無名でした。というのも、そこに集まってくるのは普段は木工や靴磨き、葉巻作りなど、わずかな賃金労働に身をやつしながら、貧しい暮らしを余儀なくされていた人々だったから。
それでも、彼らは夜になるとそこでお洒落とラム酒と葉巻、そして音楽とダンスとおしゃべりとを愉しみ、何よりも品格と希望を決して忘れなかったのだと言います。
結果的には、そんな彼らの音楽を録音したミックス・テープが映画監督の手に渡ったことがきっかけに、ドキュメンタリー映画が撮られ、そこですっかり忘れられた存在だった彼らと共に作り上げたキューバ音楽のアルバムはグラミー賞を受賞。一転して栄華の中心に躍り出ていくことになったのです。あなたもキューバの人々の中に流れるラテンの熱い血と、哀愁を帯びた独特のリズムとメロディにのって、存在をダンスさせていくべし。
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心地いいかたまりになる
今週のうお座は、ひとつのかたまりの一部になっていくような星回り。
「ねじやか」は“寝釈迦”で、釈迦涅槃像のこと。「足音がかたまつてくるねじやかかな」(阿波野青畝)では、「足音がかたまってくる」という表現が肝になっています。お参りにやってきた人びとが近づいてくるその足音が、大地にかたまって響き伝わってくるということですが、それを聞いているのは作者の心であるのと同時に、寝釈迦そのものの心でもある。
つまり、ここでは作者と寝釈迦とが一体となっているところから詠いだされているのであり、寝釈迦そのものが生命を得たかのような表現となっているのです。これが完全に寝釈迦の方へと心が移動しきっていたなら、もう少し「待っている」というニュアンスの表現になっていたはずですし、掲句のような微妙なあわいには立っていなかったでしょう。
あなたもまた、自分と対象とのあわいに立っていく中で不意に一体感の深まりを感じていくことができるかも知れません。
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