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『呪術廻戦』『DEATH NOTE』『ヒカルの碁』……ジャンプ漫画における「憑依」を考える

2021年06月04日 10:11  リアルサウンド

リアルサウンド

ジャンプ漫画における「憑依」を考える

 天使、悪魔、幽霊、妖怪など、いわゆる“人外の者”に憑依(ひょうい)されたことで、魔性の力を得た――そんな主人公の戦いを描いた物語が、少年漫画のヒット作には少なくないということにお気づきだろうか。


 ちなみにこの「憑依」という言葉を広義でとらえるならば、「“人外の者”との合体」も含まれるだろう。となれば当然、永井豪の『デビルマン』なども入ってくるわけで、その数は「少なくない」どころか、それなりに多い、とさえいえるかもしれない。とりわけ、90年代以降の『少年ジャンプ』のヒット作にはこの種の作品が多く、本稿では、その、「『ジャンプ』における憑依系漫画」について考察してみたいと思う。


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 だがまずは、この「憑依」という現象が、漫画(をはじめとしたエンターテインメント作品)においてどういう風に描き分けられているのかを整理してみたい。というのは、単に憑依といっても、主人公に憑く“人外の者”は、前述の天使、悪魔、幽霊、妖怪のほかにも、神、仏、妖精、天女、死神、術師が使役する精霊、宇宙生命体、自然に宿るエネルギーなど、さまざまな存在が考えられるからだ。なかでも「幽霊」のパターンは豊富であり、人間の死霊と生霊(いきりょう)、動物霊、植物霊、器物の霊と、いくつかの種類に細分化できる。


 さらにいえば、これらの“人外の者”たちが、憑依される側の人間にとって「善」の存在なのか「悪」の存在なのか、という違いもある。一概にはいいきれないが、おおむね、神や天使、あるいは死んだ恋人や先祖の霊などは憑いた人間にとってプラスの存在になるだろうが、悪魔や妖怪、呪いの感情を持った生霊や、術師が放った動物霊などは破滅をもたらす場合が多いだろう。ただし後者の中には、なんらかの“縛り”により、主人公の側について正義のために戦う者もいないわけではない。


 そしてもうひとつ。“人外の者”が主人公の体内に宿っている場合と、独立した“個体”として(つまり、主人公の体から離れて)存在している場合とがあるだろう。パターンとしては前者のほうが多いと思うが(あらためていうまでもないことだが、狭義の憑依とは、人体に霊などが乗り移ることである)、どちらの設定を選ぶかによって、主人公たちの「戦い方」は大きく変わってくるはずだ。


 と、だらだらとここまで憑依の種類や型について書いてきたが――要は、ひと口に「憑く/憑かれる」といってもさまざまなパターンがある、ということさえわかっていただければいいのだが、そのうえで、90年代以降の『少年ジャンプ』にどういう「憑依系漫画」のヒット作が載っていたかを挙げてみたい。


 具体的にいえば、それは、高橋和希『遊☆戯☆王』(古代エジプトのファラオの魂)、武井宏之『SHAMAN KING』(侍の霊など)、久保帯人『BLEACH』(死神)、藤本タツキ『チェンソーマン』(悪魔)……ということになるのだが(注)、なんといっても現在大ヒット中の『呪術廻戦』を忘れるわけにはいかないだろう。


注……タイトルの後のカッコ内に明記しているのは、それぞれの作品の主人公に憑依する“人外の者”の種類。なお、厳密にいえば、『BLEACH』で描かれているのは(憑依というよりは)死神の力の注入、また、『チェンソーマン』は、悪魔との一体化である。


■『呪術廻戦』ふたりの主人公に取り憑いた強力な呪物と怨霊


※以下、ネタバレあり


 芥見下々の『呪術廻戦』は、人間の負の感情が生み出した「呪霊」と、それを祓うために命を賭して戦う呪術師たちの物語である。主人公は、呪術高専1年生の虎杖悠仁。この虎杖が、ある強烈な“人外の者”に憑かれている。


 憑いているのは、特級呪物の「両面宿儺」。作中の用語に従えば、憑依ではなく「受肉」ということになるが、とにかくこの宿儺、一筋縄ではいかないというか、「器」である虎杖の言うことをまったく聞かない。それどころか、場合によっては、物語のクライマックスで主人公たちの前に立ちはだかるラスボスにさえなるのではないかと思われる悪(あ)しき存在だが、そんな宿儺に対抗できるのは、(現時点での“正義”側では)自ら「最強」と豪語する五条悟を除けば、「もう1人の主人公」ともいうべき、乙骨憂太くらいだろう。


 なぜ乙骨が「もう1人の主人公」なのかといえば、それは彼が、『呪術廻戦』のプリクエル(前日譚)『東京都立呪術高等専門学校』(=『呪術廻戦』0巻)では、主役を務めているからだ。なお、学年でいえば虎杖の1年先輩であるこの乙骨にもまた、ある“人外の者”が憑いている。こちらは特級過呪怨霊の「祈本里香」。幼くして死んだ乙骨の幼なじみの怨霊であるが、この里香がまた、宿儺とは異なるタイプの破格の強さを秘めている。


 『呪術廻戦 公式ファンブック』に載っているQ&Aでは、作者の芥見下々は覚醒した里香と全盛期の宿儺では、宿儺のほうが強いと答えているが、仮にこの2体が本気でぶつかることがあったとして、単なる力比べでなく、そこに「乙骨を守るため」という「理由」が加わった時、果たしてどちらに軍配が上がるかは定かではない(里香の強さの原動力は「純愛」である)。


 ちなみに、『東京都立呪術高等専門学校』のラストで、里香は乙骨によって「解呪」されているのだが、『呪術廻戦』本編では、再び「リカちゃん」なる怨霊(?)が乙骨とともに登場、これがあの「祈本里香」と同じ存在かどうかはいまのところ不明である。


 いずれにせよ、虎杖悠仁と乙骨憂太は崩壊した瓦礫の街で一度死闘を繰り広げているのだが、彼らに憑いている特級呪物と特級過呪怨霊はまだ本気で対決しておらず、いつかそのバトルが見られる時が来るかもしれない。


■「憑依」を描き続ける漫画家・小畑健


 また、ここまであえて触れてこなかったのだが、『ジャンプ』系の人気作家の中にひとり、まさに「『憑依』というネタに取り憑かれている」としかいいようのない漫画家がいる。


 小畑健だ。


 ご存じのように、小畑は物語作りを他の原作者に任せることが多いのだが、企画段階で提示された物語(やキャラクター)を「描きたい」と思わなければそもそもペンを執ることはないだろうから、彼がこれまで描いてきた一連の作品を振り返ってみれば、おのずとその「漫画の好み」は見えてくるだろう。


 そう、小畑がほったゆみと組んだ『ヒカルの碁』も、大場つぐみと組んだ『DEATH NOTE』、『プラチナエンド』も、いってみれば「“人外の者”に憑かれた少年の物語」という点では共通しているのだ(タイトルを挙げた順にいえば、平安時代の天才棋士の霊、死神、特級天使がそれぞれの作品の主人公に憑き、知恵や力を与えている)。


 興味深いのは、ある物語では、憑依という現象を少年がより高い次元へいくための儀式のようなものとして描いているのだが、別の物語では、破滅へ向かうきっかけとして描いているところだろうか。そういうところに、この作者(たち)の「強大な力を得る」ということに対する考え方の多様性が垣間見えておもしろい。また、この観点からすれば、一見憑依とはなんの関係もない『バクマン。』(大場つぐみ・原作)でさえも、高い画力を持った主人公に、野心を持ったストーリーテラーが取り憑いた物語、という風に読めないこともないし、『人形草紙 あやつり左近』(写楽麿・原作)にいたっては、主人公が憑依されるどころか、逆に“相棒”の童人形に憑依して事件を解決していくミステリーだといえなくもない。いずれにせよ、小畑健という現代(いま)の日本の漫画界を代表する“絵師”のひとりが、「憑依」というテーマに繰り返し挑んでいることに、注目してもいいだろう。


■なぜ憑依系漫画はおもしろいのか


 さて、こうした『少年ジャンプ』の「憑依系漫画」のいくつかから見えてくるのは、まず、憑依という現象が、多くの場合、主人公である少年の“成長”を促すための装置として機能しているということだ。つまり、主人公にとって、自分に憑いている“人外の者”はメンター(導き手)に等しい存在であり、それゆえに、物語の最終局面で少年が何かを成し遂げた暁には、彼らはどこかへ去っていく。


 そしてもうひとつ。「憑依系漫画」がおもしろいのは、ある種の痛快な「バディ物」としても読めるからだろう。本来は肌が合わないようなふたり、あるいは絶対に心が通じるはずのない人間と異類とが、強大な敵を倒すために共闘する。そんな熱い物語にカタルシスがないはずはないだろう。


 そう――つまり、少年に憑く“人外の者”とはメンターであると同時にバディであり、ある種の『少年ジャンプ』の漫画は、「友情、努力、勝利」ならぬ、「憑依、努力、勝利」の3大原則のもとに描かれているからおもしろいのだ――というのはいささか強引な結論だろうか。


(文=島田一志)