モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebとコラボしてお届けするweb版『Racing on』。
このweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、サード MC8Rです。
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1995年からグループCカーに代わり、ル・マンの主流となった“初期”の『GT1』において、ホンダはNSX、日産はGT-R、トヨタはスープラをベースにマシンを開発して参戦したことは、以前にもこの連載でお伝えしたことがある。
その3台に加え、もう1台、日本からGT1カテゴリーへとチャレンジしたマシンがあった。それが、トヨタ系の名門『SARD(サード)』がトヨタ MR2をベースに仕立てた『MC8R』である。
この、サード MC8Rは数々の苦戦を強いられることになるのだが、そのオリジナルマシンによる挑戦は、偉大なるものだった。
1994年までサードは、トヨタ系チームとしてグループCカーレースを戦っていたが、来るGT1カテゴリーを「会社の方向性をコンストラクターの方へ戻すためのいい機会」と捉え、オリジナルマシンの製作を画策していた。
開発当初はトヨタにも協力を仰いだものの、トヨタはGT1カテゴリーへスープラで参戦しようと考えていたことや、全日本GT選手権を優先した事情などもあり、オリジナルマシン『MC8R』プロジェクトは、サードが独自に進めることになった。
MC8Rのベース車は前述の通り、SW20型のトヨタMR2。MR2のモノコックを使用し、そのモノコックのうちのキャビン部分だけを残してロールケージで補強、前後オーバーハングにはパイプフレームを伸ばすかたちで、ある種シルエットフォーミュラ的な考えで、シャシーが製作された。
そのシャシーに組み合わされるサスペンションは、スペアとして保管されていたグループCカー用のものが流用されたという。
リヤミッドシップに搭載されるエンジンは、セルシオ用のV型8気筒エンジン、1UZ-FE型でそれをターボ過給して使用していた。
実は、このエンジンもトヨタからは供給されておらず、サード自ら開発を行ったものである。
ちなみにこのMC8R、併せてホモロゲーション取得用のロードバージョン『MC8』も製作されている。
エンジンがターボなしであるなどレースカーとの多少の違いはあったものの、ヒューランド製のドグミッションを搭載しているなど、ほぼレーシングカーといえる内容で、販売を望むユーザーの声もあったが、それが実現することはなかった。
こうしてホモロゲージョンも取得し、誕生したMC8Rはノガロやポールリカールといったヨーロッパでのサーキットにおけるテストを経て、1995年のル・マンにエントリー。
予選は32位という順位で終えたものの、決勝は設計ミスもあってクラッチにトラブルが発生。約10時間にもおよぶ修復の末にリタイアとほろ苦いデビュー戦となってしまった。
1996年はネックだった車重を大幅に軽量化、ポールリカールテストではマクラーレンF1 GTRよりも速い、総合2位のタイムをマークするなど、大幅なポテンシャルアップを果たした。
しかし、ライバル勢のレベルも向上していたため、予選順位は振るわず総合38番手に……。決勝では8気筒のうち1気筒が燃焼しないトラブルを抱えたものの、総合24位でフィニッシュ。ル・マンで初のチェッカーフラッグを受けたのだった。
1997年には、もはやMR2の原型を留めないほどのビッグモディファイを受け、さらに性能の向上を図る。
予選タイムは、前年より15秒以上も速くなっていたが、車両規定違反でベストタイムがキャンセルされてしまうという不運もあり、予備予選不通過となってしまった。
こうしてこの年、ル・マンの後に行われた鈴鹿1000kmを最後にサード MC8Rのプロジェクトは終焉を迎える。
このプロジェクト終焉の翌年、トヨタはTS020を生み出し、ル・マンへと挑むことになる。もちろんTS020とMC8Rはベースの市販車を持たない点からもまったく異なるクルマである。
だが、ロードバージョンが1台あれば、GT1として認めるというレギュレーションに着目したという点では一緒。もっと早くにトヨタの協力が得られていれば、サード MC8Rの戦績はもっと違ったものになっていたかもしれないし、サードにはGT1の潮流を読む、先見の明があったと言ってもいいのではないだろうか。