トップへ

渡辺謙と宮沢氷魚、世代を超えた俳優同士の化学反応 奇跡の“復活劇”『ピサロ』を観て

2021年05月30日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

宮沢氷魚

 主演に渡辺謙、共演に宮沢氷魚を迎え、渋谷・PARCO劇場にて上演中の舞台『ピサロ』。本作は、2020年に生まれ変わったPARCO劇場の「オープニング・シリーズ第1弾公演」として45回の上演を予定して幕を開けたものの、コロナ禍によってわずか10回だけの上演で幕を下ろすことになってしまった幻の作品の再演だ。激動の時代のはじまりとともに産声をあげ、一部の観客のみの記憶にだけ生き続けていた演劇作品が、早くも復活を果たしたのである。


【動画】ゲネプロの舞台に立つ渡辺謙と宮沢氷魚


 筆者も2020年に観劇することができなかった観客のひとりだ。昨年は(今年もだが)本作と時を同じくして、いくつもの舞台が公演中止となり、陽の目を見ることが叶わなかった作品は相当数にのぼる。上演されなかったからといって、その作品が無かったことになるわけではない。しかし演劇というものは、やはり観客の前で立ち上がってみせてこそ“誕生した”といえるのだろう。この『ピサロ』再演の報が入ってきてからというもの、実際に劇場の席につき、眼前に立ち上がる劇世界を目撃することを鼻息荒く待っていたものである。観劇前に思わず武者震いしてしまったのは、さながら、旅立ち前の貪欲な探検家フランシスコ・ピサロのようだったかもしれない。


 本作は、たった167人の兵士を率いるスペインの将軍・ピサロ(渡辺謙)が、2400万人のインカ帝国を征服する物語だ。未開の地に足を踏み入れるピサロ軍の者たちの過酷な道中と、その先で彼らを待ち受ける恐怖、約3000人ものインディオ虐殺、ピサロ軍に生け捕りにされたインカ王・アタウアルパ(宮沢氷魚)とピサロの間に芽生える“情”、そして、“信仰”や“愛”の揺らぎというものが重層的に描かれる。これらが、かつてピサロと道中をともにしたマルティン(外山誠二)が回顧するかたちで進行していくのだ。


 この物語の中心に立つのは、タイトルロールのピサロを演じる渡辺謙であり、彼と対峙するアタウアルパを演じる宮沢氷魚だ。本作を先導する立場にありながら、たったの10公演だけで中止となってしまった彼らの胸中は計り知れない。そしてその無念を晴らす機会が早くもやってきた彼らの心情も、もちろん分からない。しかし、開演時間になって客電が落ち、一度幕が上がると、舞台上からは異様なまでの熱気が伝わってきた。本作に懸けるふたりの想いは大きいだろう。英国の劇作家ピーター・シェーファーによる『ピサロ』が日本で初演されたのは1985年のこと。そのときに渡辺がインカ王・アタウアルパを演じたのだという。それが36年の時を経て、かつて山崎努が演じたタイトルロールを自身が演じる立場になったのだ。そして宮沢はそんな渡辺を前に、彼がかつて演じたアタウアルパを演じるのである。世代の異なるふたりだが、ともに超えなければならない壁というものがあるのだろう。その上での、いまだ続くコロナ禍での、再演なのだ。異様な熱気が生まれて当然である。


 もちろんこの熱気は、渡辺と宮沢のふたりだけが生み出しているものではない。狂言回しを務める外山誠二に、大鶴佐助、栗原英雄、長谷川初範ら脇を固める俳優たちはもちろんのこと、本作の指揮を執る演出家ウィル・タケットの存在や、観客を劇世界に誘う音響に照明など、各部署のスタッフの力が結実してこそのもの。これらが有機的にはたらくことで、“ナマモノ”である演劇は凄まじい熱気を帯びるのだ。


 さて、かつてアタウアルパを演じた渡辺を前にして、“同じ役”を演じるという難題に挑む宮沢氷魚。前置きが長くなったが、本稿では彼にフォーカスしてみたい。2018年にマームとジプシーの『BOAT』で初舞台を踏んでからというもの、筆者は舞台上の宮沢を追いかけてきた。『豊饒の海』(2018年)、『CITY』(2019年)、『ボクの穴、彼の穴。』(2020年)と主に舞台作品で彼は“進化”を続け、技術は“深化”。それは、朝ドラ『エール』(2020年/NHK総合)などの映像作品にも反映され、演技者としての“真価”を発揮しつつある。それが今作では“神化”するまでにいたっているのだ。そう、宮沢が演じるアタウアルパとは、インカ帝国の王であり、自身を“太陽の子”だと謳う神なのである。


 本作は二幕の構成となっている。第一幕では、ピサロ軍によるインカ帝国の制圧までが描かれ、第二幕では、ピサロとアタウアルパの交流と、軍の破綻、果ては“王(神)の死”までが描かれる。この二幕構成における“アタウアルパ=宮沢氷魚”の変化が興味深い。第一幕においてはアタウアルパが誰かとセリフのやり取りをする瞬間はかぎられている。彼は王であり、神という絶対的な存在としてピサロ軍の前に立ちはだかる。ここで宮沢は、“佇まいだけで魅せること”が徹底的に求められていると思う。これは、俳優であれば誰にでもできるというものではもちろんないし、モデルでもある宮沢だからできるというものでもないはずだ。舞台上の床を踏みしめる一歩一歩の足の運び、一陣の風を巻き起こしそうな腕の振り、ひとたび立ち止まれば、自身の意志以外では動かすことができないような真っ直ぐに伸びた体幹。これらを得るには、そうとうな訓練が必要なはずだ。劇場で目にした方ならうなずいていただけることだろう。一方の第二幕で宮沢は、ピサロとの交流によってより“人間”となっていくアタウアルパの変化を演じる。ここからが渡辺謙との本格的な“対決”のはじまりだ。


 ピサロとアタウアルパには、互いに「私生子」だという共通点がある。このような出自を背景にピサロは成り上がっていまの地位についたが、アタウアルパはこれこそが「偉大な者である証」だと口にし、彼に親愛の情を示す。その“力”によって認められてきた粗暴なピサロにとって、はじめて芽生えた感情があるのだろう。親子ほど年の離れたふたりは、特別な関係となっていく。ここで垣間見えるのが、人間・アタウアルパの姿だ。演じる宮沢は、まだあどけなさを残した少年のようである。無邪気に笑みを浮かべてみせ、舞台上を歩む姿は“舞い”のように軽やか。しかし、ひとたび王であり神の子・アタウアルパに戻れば、セリフの調子にも身のこなしにも荘厳さが宿る。アタウアルパの身に染み付いた“王の資質”までも、宮沢は体現しているのだ。


 もちろんアタウアルパの変化は、粗暴なピサロの変化があってこそ。つまりは、対峙する渡辺の変化があってこそ、宮沢も変化するのだ。本作ではピサロとアタウアルパという不動の存在の間に親愛の情が生まれ、渡辺と宮沢の間にも世代を超えた俳優同士の化学反応が生まれているようである。


 物語は、人々の“信仰”や“愛”の揺らぎへと帰結する。私たちの生きる現実世界においても、各々の信ずるものが違うことによって、すれ違い、衝突が起きる。けれどもそこに“対話”が実現すれば、“愛”が生まれるかもしれない。史実では、ピサロはアタウアルパを処刑したとある。しかし本作はフィクションであり、史実とは異なる結末をみせる。ここに、いまを生き、異なる文化の壁を超えてみせようという私たちの希望が垣間見えるように思う。


 たとえ同じ演目であっても、時代の変化によって見え方も変化するはずだが、1985年に上演されたものはもちろんのこと、2020年に上演されたものともまた異なっているのであろう『ピサロ』。俳優たちと観客、そしてこの関係を支える多くの人々の力によって、まさに奇跡の“復活劇”が渋谷で起きている。


※山崎努の「崎」は、正式には「たつさき」


(折田侑駿)