トップへ

成馬零一 × 西森路代が語る、ドラマ評論の現在地【前半】:批評する人は本当のオタクではないのか?

2021年05月22日 11:01  リアルサウンド

リアルサウンド

成馬零一×西森路代 評論家対談 前半

 コロナ禍で迎える2度目の春、テレビコンテンツに主題をとった2つの書籍が刊行された。成馬零一氏による『テレビドラマクロニクル 1990→2020』(PLANETS/第二次惑星開発委員会)と西森路代氏が執筆者として参加した『「テレビは見ない」というけれど エンタメコンテンツをフェミニズム・ジェンダーから読む』(青弓社)だ。そこで今回はリアルサウンド映画部でのドラマ評などでもおなじみのふたりに、ドラマ批評そのものについて自由に語り合ってもらった。(宮田文郎)


関連:【画像】話題に上った書籍を画像でチェック


■批評の必要性、批評をする動機


西森:『テレビドラマクロニクル 1990→2020』はいつから書いてたんですか?


成馬:ベースになったメルマガでの連載は2018年から2年程続けて、終わったのがコロナ禍の広がりと同時期の2020年4月でした。単行本にするための構成や加筆修正について話し合ったのが7月頃ですね。野島伸司、堤幸彦、宮藤官九郎の3人の作家を中心に書くことが決まり、第四章となる「2010年代の宮藤官九郎」を追加しました。


西森:時期的なものとしたら、私は杉田俊介さんの著書『人志とたけし』(晶文社)での対談がそんな感じでした。対談を収録したあとでコロナ禍になって一旦ストップして。その時点で語ったことのままで出すとすごく前の話になるので、もう一回追加で対談させてもらって、半分ぐらいはコロナ禍の中での実感をしゃべったものになりました。


成馬:『テレビドラマクロニクル』で大きく扱っているのは、2019年までの出来事ですが、本にする際に、東京オリンピックが1年延期になると同時に、世の中がコロナ禍に変わっていく中での心境を書いた「はじめに」を加筆しました。先行販売した電子書籍版ではコロナ禍でのテレビドラマについて書いているのですが、僕のなかでは『はじめに』から分岐した別ルートという感じで、セットで1冊なんですよね。この本を2020年に書いたことは僕にとって重要で、まずはその前提を読者と共有したかった。2019年までとそれ以降の世界はコロナによって大きく変わってしまったわけですよね。そうなった時に、世に打ち出そうと考えていた本の内容と現実が切断されてしまったわけで、その溝をどうやって埋めるかが一番大変でした。最終的に「クロニクル」(年代記)という原点に戻り、テレビドラマが時代とどう向き合ってきたのかを記述することを第一に考えたのですが、連載の時から90~00年代のドラマについて、2010年代に書く意味って何なんだろうと悩みながら書いていたので、書く上での動機付けに悩んだまま、最後まで書いたという感じですね。


 おそらく、その辺りは西森さんとは真逆ではないかと思います。西森さんは書く動機をちゃんと持ってる人だと思うんですよ。どの本でも西森さんは、テレビドラマやお笑いには「批評が必要である」とはっきりと書いていて、その考え方の根幹にはフェミニズムという思想がある。本で書かれている内容も面白かったのですが、「批評が必要だ」と言い切ることができる西森さんのスタンスが興味深いなぁと思って読みました。それは自分には欠けていることだったので、誤解を恐れずに言えば、書き手として羨ましかったです。


西森:なぜ批評が必要と思うようになったかというと、確実に2010年代の韓国映画を見てきたことの影響ですね。何度もこの話をしてますが、去年、映画『パラサイト 半地下の家族』でポン・ジュノ監督が米アカデミーで受賞をしたとき、プロデューサーがスピーチで「良い批評があったからこそである」という意味のことをスピーチしていて。日本の作品を見るときにもそういう視線を持ってしまうということが大きかったと思います。そこは、ハン・トンヒョンさんとの『韓国映画・ドラマ:わたしたちのおしゃべりの記録2014~2020』でけっこうしゃべったかもしれません。


成馬:『人志とたけし』で「政治的スタンス」が決まったのが2011年以降と言ってますが、何か転機となることがあったのですか?


西森:私はライターを始めたのも上京したのも遅かったし、最初は自分の思ったことなんてひとつも書かないライターだったんです。2011年は初めて『K-POPがアジアを制覇する』という本を出した年で、初めて自分が「こう見た」というものを書き始めた年だったんです。その出版のすぐ後に韓流デモがあったので、考えざるを得ない感じになって。でもそれって、たぶん私だけじゃなかったんじゃないかと思います。


成馬:共著の本が続いてますが、西森さんが書かれたものを順番に読んでいくと、西森さんが言葉を獲得していく経緯がはっきりとわかるんですよね。


西森:そうなんですよ。ハンさんからそういう指摘を受けたときは、けっこう自分は以前からちゃんとしてると思ってたんですけど、読み返してみると、本当に自分の成長期みたいになっていて。けっこう恥ずかしい気持ちもありましたが、それも隠さずに記しておくべきかなと思いまして。だからこそ、追記をして今の視点を書いたりもしましたし、実は追記をしっかり読むと面白いんです。


■批評は「推し」と「私」を繋ぐのか


成馬:『ユリイカ』2020年9月号(青土社)の「特集=女オタクの現在」に寄稿した「批評――オタクと推しを繋ぐ言葉。」の冒頭で、「推し」と「私」の間をつなぐものとして、常に存在しているものに、批評があると思っている。と書いてるじゃないですか。この意見は僕の中からは出てこないので「凄い」と思いました。自分の考える批評って、客観的な視点から状況を冷静に分析する手段なので「推し」とオタクが繋がれる上では邪魔になるんじゃないかと思ってしまうんですよね。僕もアイドルや俳優を好きになることはあるけど、批評的な醒めた視点があることで、ハマりきれないことが多いので、批評性がない状態で熱狂的にハマっている人に対して、軽いコンプレックスがあるんですよね。


西森:わかります。私も以前は没入のない自分にコンプレックスがあったんですけど、今は適度な没入が続くことのほうがいいなと思ってて。今は私は誰にもはまりたくないという気持ちが強くなりました。もちろん20代でこの仕事をしていなかった頃は、香港映画やスターに没入してて、すべてのことをちゃんと見てなきゃ、来日したらちゃんと追わなきゃって思ってたんですよ。でも、それができないとしんどいからもう全部やめようとなって、それからはあんまり激しく没入したくないのかもしれない。だから、『推し、燃ゆ』(宇佐美りん)のような世界が存在していることは理解していても遠くなってしまって。たぶん、20代の経験があるからこそなんだと思うんですが。


成馬:俺が考える推しとオタクの関係ってまさに『推し、燃ゆ』の世界なんですよ。あの世界に批評が入る余地はない。


西森:私はジャンル全体を長くゆるやかに応援し続けたいという気持ちが強くなっていて。激しい没入は、エネルギーを注ぐからこそ短距離走みたいなところがあるのではないかなって。でも、それは理屈とかではないし、誰にも止められないことで。自分の場合は年齢とか、仕事柄ということもあってかもしれないんですけど、わりとそういう人も増えているなという印象もあります。


成馬:「好き」という気持ちこそが、絶対だとみんな思っているわけですよね。批評は「好き」という気持ちの背景にあるものを分析して言語化する行為だから「野暮」だと嫌われてきたし「愛がない」とか「批評する人は本当のオタクじゃない」みたいな言い方を、ずっとされてきたわけです。でも、西森さんのあの文章はその境界を越えると同時に「批評は必要なのだ」と宣言している。そこに衝撃を受けたんですよね。


西森:それはやっぱりさっきも言った通り韓国の影響だと思いますよ。たとえばアイドルが何か問題発言をしたら、その物事自体に怒るファンも多い。「そんなことをしていたら、アイドルも私たちとの関係性も消えてなくなってしまう」みたいな危機感で、自分だけではなくアイドルの持続性のためにダメなところはダメと言おうみたいな感じがあると思いますね。日本にもそういう文化ってないことはないと思うんですよ。「推し」には、倫理的な意味で見て賛同できないような作品には出てほしくないという気持ちもあると思うんです。


■悪魔の所業? 批評に対する罪悪感


成馬:僕の単著デビュー作が『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)っていう新書でした。今はリアルサウンド等のウェブサイトが隆盛なので状況はだいぶ代わりましたが、以前はドラマ評論を書ける場所がほとんどなかったので、女性アイドルやジャニーズアイドルをメインにしたドラマ記事を書くことで、自分が書ける領域を広げていったという感じです。はじまりが、ジャニーズアイドル関連の新書だったので、本人や事務所サイド、あるいはファンの人がどういう思うかを意識したら、筆が鈍るというか書きたいことが書けなくなると思って書いてきたのですが、軽い後ろめたさみたいなものは今もありますね。批評って褒めるだけでなく苦言を呈する行為でもあるので、書いたことで関係者に恨まれることもあると思うんですよ。でも、その可能性を引き受けているからこそ、書きたいことが書けるという側面もある。そもそも、批評という行為自体に罪悪感がないですか? 基本的に悪魔の所業というか、やってはいけないことをやってるんじゃないかという思いが常にあります。


西森:その罪悪感は常に持ってます。だいたいが、本人にインタビューしながら批評をするって難しいことなんですよね。例えば、批評を書く中で、俳優やアイドルの名前を敬称略にすること自体にも勇気がいりました。まずは、そこが批評としての第一歩って感じで。本人を目の前にしたことがあることと、批評をすることをきっちり分けることが、敬称略、つまり一線を引くことだと思って。私も前は関係者には文章を読まれたくなかったし、批評をするのは引け目があって。ただ、それが割とだんだん変わって、むしろ当人のサイドが批評というか評価を受け入れる感じになってきてて。ネットのPV数とかも本人のインタビューよりレビューのほうが多いということもある状態になってくるんですよね。例えば、ひとつの作品に関して、たくさんのインタビューを受け手も本人が語ることには限界があるし、もしも新たな言葉を引き出そうとしたら、インタビュアーがかなり工夫しないといけない。でも、作品評とか俳優の演技評だとそれを拡張してくれる感じがきっとあるんじゃないかと。


 あと、少し前にライターの柳樂光隆さんが「インタビューは批評性がモロに出る印象ある」とツイートされていて、それは本当にそうだなって思いました。批評性なく何かを聞きにいっても、聞けることの限界があるんじゃないかなと。


成馬:『人志とたけし』の杉田俊介さんとの対談の中で西森さんは「今回の杉田さんの松本人志についての批評って、松本人志本人には届かないものじゃないかと思うんですよ」と言ってますが、逆に批評が本人に届いて、なんらかの影響を与えてしまうことに対しては、どう思いますか?


 先に答えると、僕はあまり考えないようにしています。仮に読んでいたとしても読んでないと言って欲しいくらいで、場合によっては、届かない方が良いと思う時もある。たとえば『テレビドラマクロニクル』を宮藤官九郎に読まれたいかといったら、全身全霊を込めて書いたからこそ、あまり読まれたくないという気持ちの方が大きい。


西森:そうですね。それもわかります。なんか、本人に読まれるのが、こっぱずかしいというのもあるんですよね。読まれることを意識して書くのも嫌なんだけど、最近はそれを意識して書くしかなくなってる感じもありますね。


成馬:それはわかります。「Yahoo!ニュース個人」で書くようになってから、作り手の方から「読んでます」と言われる機会が増えて「こりゃ、逃げられないな」と腹をくくるようになりました。でも、知ってる人を批判できる程、心臓が強くないので、できるだけ交流は避けて、仮に読まれているとしても、気づかないフリをしてます(笑)。 個人的には、作り手と評論家は作品を通してのみ対話をしている方が良いと思っていて、そっちの方が、お互いにやりやすいんじゃないかと思うんですよね。


西森:私も最近、俳優さんや女性芸人さんに「読んでます」って言われることが多くて。ただ、自分のことを書いてるから「読んでます」というのではなく、割と興味が似ているのでツイートがRTされて流れてくるから「読んでます」ということもあるんだなと。あとは、リアルサウンドって、誰が書いたとかは覚えてないけど、「読んでます」ってことは多そうな気がしますね。


成馬:こちらが思っている以上に「批評に慣れてきた」ってことですかね。語られることや自分が読むことに。


西森:それと、やっぱりさっきのポン・ジュノの話じゃないですけど、監督って自分の手を離れたものがなんと言われようがかまわないし、それが自分の作品にもフィードバックされる的なことを言ってる人もいるわけじゃないですか。もちろん、レビューを気にして合わせるとかそういう次元ではなくですけど。


成馬:アニメでは新海誠がそういう感じですよね。『天気の子』は『君の名は。』で批評家や観客から浴びた酷評をフィードバックしたうえで作られていた。たしかにクリエイターには、そういう人が増えている印象がありますね。逆に『シン・エヴァンゲリオン劇場版:II』のように、みんながネタバレを気にして、SNSで黙りすぎたことで失速してしまう事例も出てきている。


西森:確かに、作品について語ってくれることが口コミにつながるからこそ、その始まりとなる批評が欲しいということもあるかもしれないですね。公式側もそれを知ってるんじゃないかって感じがするんですよね。ちゃんと批評されることが盛り上がりにつながる。もちろん、今でも誰でも書けるようななんの面白味もないレビューを書いて欲しがる宣伝とかもあるわけですけど、そんな文章、今どき誰にも読まれないんですよね……。


成馬:誰かに健全な燃料を投下してほしいってことですかね。その点に関してはポジティブな気持ちで書いているかも。リアルサウンド映画部で毎年のドラマベスト10について年末に書いているのですが、基本的に1位の作品は、自分が推したいものに光を当てたいという目的で挙げています。たとえば2019年は『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』(NHK総合)と並んで『本気のしるし』(メ~テレ)を1位に挙げたんです。2020年に映画化されて以降は、多くの媒体で取り上げられるようになりましたが、当時はまだあまり知られていなかったので、1位にすることでより多くの人に知ってもらいたいと思ったんですよね。これは批評の役割だと思ってます。


西森:深田晃司監督は、批評を批評として受け取ってくれてる印象がありますよね。私も批評のポジティブさってそういうことだと思います。だけど、国内の大きな映画賞は、海外の評価とすごく離れてるじゃないですか。海外で評価された邦画と、国内で評価される邦画がぜんぜん違うラインナップになってしまう。韓国の映画賞はそれがけっこう同じなんですよ。韓国の最大の映画賞である青龍映画賞の作品賞を振り返っても、『弁護人』『タクシー運転手 約束は海を越えて』『1987、ある闘いの真実』『パラサイト 半地下の家族』などがあって。国内のしっかりした評価があったからこそ『パラサイト』の世界的な評価につながったんだなって実感しますね。視聴率や興行成績にかかわらず批評的な視点で選評をすることって重要なのではないかなと。いい映画が埋もれてしまうのは、業界のためにもならないんじゃないかなって。


■ドラマの見られ方は「断片的」に


成馬:ドラマはそのあたりが難しいところに来てますよね。基本的に昔のドラマの評価軸は視聴率だったんですよ。それに対して『踊る大捜査線』(1997年/フジテレビ系)や『ケイゾク』(1999年/TBS系)のような、視聴率はそれほど高くないけど、何度も繰り返し見て楽しむことができることから、マニアックなファンがついて最終的に劇場版がヒットするような作品が存在し、それが視聴率という評価軸に対するカウンターとなっていた。そういったソフト消費の流れが宮藤官九郎のブレイクにもつながっていたのですが、視聴率が高くてリアルタイムのイベントとして消費されるドラマと、熱心なファンがつくマニアックなドラマ、2000年代まではこの両輪で考えればよかったので、価値基準もわかりやすかった。それが2010年代以降は視聴率も下がり、コンテンツの過剰供給によって繰り返し同じ作品を見るという文化も廃れ、現在は「SNSでバズったものがとりあえず一番偉い」みたいな状況になりつつある。こういう状況で、何を基準に作品を評価するかは難しいと思うんですよ。


西森:一方で、SNSでバズったというものって、ツイート数の多いものもあれば、SNSでたくさん批評されたというものも出てきていて。最近のいい作品って後者も増えてきてるんじゃないかと思うんですよね。例えば今期であれば『今ここにある危機とぼくの好感度について』なんかがそうじゃないかと。


――成馬さんの本にも書かれていましたが、消費のされ方の変化がドラマ自体に与えてる影響も感じられますか。


成馬:SNSが主戦場となった時に、宮藤官九郎や堤幸彦のドラマにあった固有名詞を散りばめることでフックをいっぱい作って話を進めてくやり方が主流になったように思います。坂元裕二や野木亜紀子と言った脚本家のドラマはもちろんのこと、本来はそういう書き手ではなかった北川悦吏子も『ウチの娘は彼氏ができない!!』(2021年/日本テレビ系)では固有名詞を散りばめることでSNSでの話題を集める手法を取り入れようとしていた。ただ、ハッシュタグで視聴者が繋がることが目的化してしまうと、固有名詞に紐付けされた情報が、いかにネタとして消費するかということばかりが話題になってしまう。もしくは出演俳優のスクショを撮りまくったり、台詞を部分的に抜き出されて名言集的に楽しむといった人が増えていて、ドラマが断片的にしか観られなくなっているようにも感じます。


西森:物語やテーマをしっかり書いて、人から注目される固有名詞を扱い、人気俳優をちゃんと魅力的に見えるように書く。作家だったら、その3つを成立させないといけない時代になってますよね、今。


成馬:昔はなんだかんだ言っても、ストーリーが楽しまれていたと思うんですよね。今はドラマなのに、物語を最終話まで見てもらうこと自体が一番、難しくなっている。宮藤官九郎の『俺の家の話』(2021年/TBS系)みたいに最終話で意味をひっくり返すような見せ方は一種の賭けで、あの見せ方が許される脚本家はなかなかいない。一話一話で結果を出さなければいけないので、そうなると、バズりそうなキーワードを劇中に散りばめて、奇抜なキャラクターで注目を集める手法に頼らざるを得ない。


西森:全話を1話完結にみたいにすることもしなきゃいけないし。


成馬:野木亜紀子の作品も基本的には一話完結ですよね。


西森:あれも意識してのことだと思いますよね。


成馬:坂元裕二の『カルテット』(2017年/TBS系)を最近見直したんですけど、リアルタイムの時とは印象が変わりましたね。当時は、SNSの反応とセットで見ていたところがあったので、作品単体としてちゃんと内容が見えてなかった。でも、今見ると純粋な物語として最後まで楽しめる。


西森:今期の『大豆田とわ子と三人の元夫』(フジテレビ系)は、リアルタイムで見てるときには、一話一話で反応してしまうストーリー展開もあるんだけど、最後まで終わって、改めて全話みたら、違う何かがあるんだろうなあって思いますね。


■ドラマ評論の主戦場


成馬:放送クールに作品の評価が決まってしまうのがドラマの難しいところですよね。どんなに素晴らしい作品でも、放送が終わると記事として取り上げることが難しい。雑誌と違ってタイムラグがないウェブメディアだからこそ、放送後にすぐドラマ評を出すということが成立していて、それは利点ではあるのですが。


西森:雑誌というかテレビ誌だと、だいたい放送が始まる前に、まだ撮影が始まる前の俳優にインタビューするしかなかったですからね。最近は、放送後もDVD発売もあるので、変わりつつありますが。


成馬:ドラマの評論って、放送中にリアルタイムで語る評価と、放送が終わった後で何を語るかっていう2種類ありますよね。僕や西森さんの本は、放送が終わった作品について書かれたものですが、僕にとってドラマ評論の主戦場はウェブメディアなので、リアルタイムで追いかけながら書くことが第一だと思ってます。ただ、ウェブだと過去の名作みたいなものに言及する機会がなかなかないんですよね。だから書籍の役割はそういう過去作の位置付けを定義することなのかなぁと、今回は思いました。


西森:私も後で書く重要性を感じますし、書籍ってありがたいなと思いました。


――リアルタイムで書くときと振り返って書くときだと時代や社会が変化してることもありますけど、批評のスタンスも変わるんでしょうか。


成馬:あとで書くと、どうしてもバイアスがかかるので、気持ちとしてはリアルタイムにおける初見の印象を一番大事にしたいです。ドラマ評論家としては放送当時に適切な評価を下せたかどうかに「勝ち負け」を感じることがあるんですよ。だから、高く評価した作品が後に名作として扱われていると嬉しく思うのですが、最近は少し複雑な気持ちになります。


 例えば坂元裕二の『問題のあるレストラン』(フジテレビ系)は2015年の作品です。『テレビドラマクロニクル』でも『「テレビは見ない」と言うけれど』の西森さんの論考でも先駆的な作品として高く評価されていますが、だったら6年前に本作を中心とした坂元裕二論の本を出せてもよかったのにと考えてしまうんですよね。そういう本を当時出せなかった自分の力不足を実感します。今年『花束みたいな恋をした』が上映されたことで坂元裕二の特集がいろいろな所で組まれるようになったけど、どうしてもウェブと紙媒体の間にあるタイムラグを感じますよね。


西森:ドラマを批評するという文化も今のようには盛んじゃなかったですからね。それこそ、成馬さんはその頃からやっていたわけだし、今、特集できるようになってよかったと思うし、これからも増えていけばと思いますね。


成馬:僕と西森さんの本も含めて、いまってカルチャー評論の書籍が増えている印象があるんですよね。2010年代ってカルチャー評論受難の時代だったと思っていて、僕と同世代の書き手もどんどんカルチャー評論から離れていったという記憶があります。だから、テレビドラマを筆頭とするフィクションの評論はどんどん先細りするんだろうなと思いながら、何とか続けてきたのですが、今考えると、こういった10年代の状況が評論に対する後ろめたさを生んでいたのかもしれません。


西森:じゃあ、これからは多少後ろめたさは減っていくのでは。


成馬:タイトルに「クロニクル」と付いている評論が立て続けに出版されてるんですよ(笑)もしかしたら今はクロニクルブームなのかな。コロナ禍で世の中が停滞しているからこそ、評論を通して過去を振り返ることで、次の時代について考える糧にしたいと、多くの人が思っている時期なのかもしれないですね。



後半(明日5月23日公開予定)では、2人が“いま”求められるテレビドラマ・物語のあり方を徹底討論。乞うご期待!


(取材・文=宮田文郎)