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「うんこには、すべてをぶち壊しにするパワーがある」『うん古典』筆者が語る、日本人のうんこ観

2021年05月16日 12:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『うん古典―うんこで読み解く日本の歴史―』

 「うんこには、すべてをぶち壊しにするパワーがある」。そう語るのは、古典エッセイストの大塚ひかりさんだ。最新刊『うん古典:うんこで読み解く日本の歴史』(新潮社)では、古典文学で描かれるうんこに着目した。


 『うん古典』によれば日本最古の文学である『古事記』にはすでにうんこにまつわるエピソードが描かれている。ほぼ同時期に編纂された『常陸国風土記』には、神々が重い土を運ぶのと、うんこを我慢するのとで競争する場面があるという。


 日本人は古典のなかで、うんこをどのように捉えてきたのか。また、その「うんこ観」はどう変化してきたのだろうか。『うん古典』なる快作を世に送り出した経緯とあわせて話を聞いた。(土井大輔)


関連:【画像】古典エッセイスト・大塚ひかり


■好きな人のうんこを見る……古典で描かれた衝撃のうんこ話


ーーそもそも、なぜ古典のなかのうんこに着目したのですか?


大塚:私はずっと古典オタクなんですが、中学生のとき初めて原文で読んだ古典が『宇治拾遺物語』でした。そこで衝撃のうんこ話と出合ったんです。それは好きな人への想いを断ち切るために、その人のうんこを盗んで見るという話でした。


 当時、貴族は「おまる」みたいなものに用を足して、それを召使いの女性が捨てに行っていたんですね。そうした点も含めて衝撃をうけて、それ以来ずっと古典のなかのうんこには興味があり、いつかうんこ本を出したいなと思っていました。


ーー『古事記』から数えると千数百年におよぶ古典文学の歴史のなかで、「うんこ観」にはどのような変化が見られるのでしょうか。


大塚:基本的に、穢い(きたない)という感覚はあるわけです。同時に、すごくパワーを感じているふしがあります。これは本にも書きましたけれど、うんこから神が生まれたという話があったり、当時は祭祀施設とトイレのかたちが似ていたり。神武天皇の皇后の母親はうんこをしようとした時、神に見初められたという説話もありますね。古代はうんこに大きなパワーを感じていたんだと思います。


 それが仏教思想の伝来によって、穢れ(けがれ)の意識が強くなってうんこが罪悪視されてくる。一方で、鎌倉時代ぐらいから江戸時代にかけてリサイクルというか、うんこを肥(こえ=肥料)として積極的に使っていこうという意識が高まっていきます。


 あとは近現代になって水洗トイレの普及でうんこへの穢れの意識が少なくなり、ある意味、うんこがファンタジーになってきたところがあるように思います。


ーー古典文学のなかで、うんこの神秘的な部分が薄れていったのはなぜだと考えられますか?


大塚:コントロールできるようになったというか、うんこを自分たちの支配下に置けるようになったんですね。うんこってやっぱり圧倒的な存在じゃないですか。匂いとか、すべてをぶち壊しにするパワーがある。だから昔の人は魔除けとして、子供の名前に「糞(屎)」なんて字をつけたぐらいだけれど、だんだんとコントロールできるようになっていった。トイレとか下水をうまく処理できるようになって、神秘的な部分がなくなっていったというのがあると思います。古代には、うんこは制御できないマジカルなものという意識があったのが、肥として「利用する」という意識が出てきたときに、神秘性が薄らいでいった感じがありますね。


ーー『うん古典』を読んで、「こんなにうんこの話があるのか」と驚きました。古典といえば、ロマンチックな話が多いと思っていたので。


大塚:それはあまりにも教科書に寄った考え方ですね。教科書の作品のチョイスが良くないんです。『宇治拾遺物語』とか『今昔物語集』でも教科書では無難な話が載っていて、メインストリームの部分を避けているようにも思います。実際は、性やうんこにまつわる話がいっぱいあって。『万葉集』にもうんこの歌があるぐらいですし、『源氏物語』だって上品な話ばかりではないですからね。嫉妬して、汚物を撒き散らす話なんかもあります。


 古典は、ネットもテレビもない時代の最高のエンタメでした。今のマンガやYouTubeみたいなもので、やはり「人に受けるものを」という精神があるんですね。


■「古典文学はあまりに敷居が高くなっている」


ーー大塚さんが「古典オタク」になったきっかけを教えてください。


大塚:うちの母親は小さい頃、戦前のニューヨークで暮らしていたんです。終戦後の翌年、祖父が亡くなって生活が激変したこともあって、母親は日本に帰ってきてからも「アメリカはよかった」というのが口癖でした。あまりにも「アメリカはいい」とばかり言うので、私は小学生の頃から、日本ならではの良いものを意識的に探すようになっていたんです。


 日本ならではのものといえば、歴史や古典文学だなと思いまして、いわゆる歴ヲタ、古典オタクみたいな感じになったんですね。小学生のときから訳文で『竹取物語』は読んでいましたが、中学生になって「原文で読んでみたい」と思ったときに『宇治拾遺物語』は短編集だから「簡単に読めそうだな」と思って読み始めたんです。それが予想以上に面白くて、そこから本格的に「私は古典でいこう」となっていきました。


ーーそのなかで、性やうんこにまつわる話に注目してきたのはなぜですか?


大塚:古典文学はあまりに敷居が高く見られているんです。私のような古典オタクからすると、古典はほとんどが「エログロ」の世界なのに、なんかもったいないなって思うんです。読めば絶対に面白いのに、こんなに身近な話題がいっぱいあるのにって。


 古典というのは当たりはずれがないんですよ。1000年、1200年のあいだ残っていて、時の試練に耐えてきたわけですから。だけど、同じ古典でもたとえばギリシャ神話を原文で読もうと思ったら、研究者でもなければ難しい。だけども古語は、日本人であれば何とか読めるレベルだと思うと、宝の持ち腐れのように思うんです。古典の面白さを発信して共有できたらなあと。その気持ちが強いんです。


ーー古典にも英米文学のように、訳者によって違いはあるのでしょうか。


大塚:作家の町田康さんの『宇治拾遺物語』の訳(『日本霊異記/今昔物語/宇治拾遺物語/発心集』の一編)は面白かったですね。小学館の『日本古典文学全集』は本文の上に注釈が入っており、逐語訳の現代語訳があるので、そうしたものが先入観もなく楽しめるかなと思います。原文を読みながらもわからないところは、現代語訳で読めますから。でも古典に興味を持ってアプローチできるのであれば、マンガでも何でもいいかなと思います。


ーー古典文学にも、現代の作品のように心情や人の気持ちといったものは描かれているのでしょうか。


大塚:書かれています。例えば藤原道綱母(ふじはらみちつなのはは)の『蜻蛉日記』は、一夫多妻で自分の他にも妻が複数いる時代の話なんですが、他の女が産んだ子供が死んでしまうんです。すると「ざまあみろ」というようなことを書いているんですね。「いまぞ胸はあきたる」。つまり「今こそ胸がスッとした」と。


 たとえそう思ったとしても、普通書きませんよね。今の感覚ならその気持ちを隠すじゃないですか。なのに、ちゃんと自分の醜い部分を見すえて書いている。嫉妬していることに気づいたということ自体、まず偉いなあと思いますし、さらにはそれを書いて残している。すごく理性的な人だなと思いますね。そんな風な気持ちを書いた古典文学というのもあるんです。


ーー現代に通じる部分があるということですね。


大塚:『紫式部日記』だったら、宴会で酔っ払ったおっさんがパワハラとかセクハラみたいなことをしてきて嫌だとか、「逃げたい」みたいなことも書いてあるんです。今の働く女性の苦しみや苦悩に共通するものが、すでに1000年前に書かれているんですね。


 平安時代には女性の官僚がいたり、宮廷でバリバリ働いている人が多いから、働く女性が少ない時代だったらわからなかったようなことが、今の時代に読み直して初めてわかるみたいなことがあるんですよ。


 古典は未来へのメッセージが詰まっているから新しい発見があるんです。「パワハラ」という言葉がなかったからといってパワハラがなかったわけでもないし、「毒親」という言葉がなかったからといって毒親がいなかったわけでもない。そうしたものが古典文学には書かれていて、それを発見するのも古典の楽しみですね。