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乗代雄介、岸政彦、李琴峰……三島由紀夫賞を受賞するのは? 5月14日発表前にノミネート作品をおさらい

2021年05月13日 11:31  リアルサウンド

リアルサウンド

第34回三島由紀夫賞ノミネート作品をおさらい!

 多数の芥川賞受賞作家も輩出している、三島由紀夫賞。「第34回 三島由紀夫賞」にノミネートされた5作品はどのような魅力を持っているのか、それぞれ解説していこうと思う。


・藤原無雨『水と礫』(河出書房新社)
・乗代雄介『旅する練習』(講談社)
・岸政彦『リリアン』(新潮社)
・李琴峰『彼岸花が咲く島』(文藝春秋)
・佐藤厚志『象の皮膚』(新潮社)


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 藤原無雨の『水と礫』は、第57回文藝賞を受賞している。藤原は、ライトノベル作家としての顔も持つが、穂村弘との対談の中で、文学とライトノベルは別の役割を持つものと述べている。


 『水と礫』は、クザーノという人物の物語から始まり、コイーバ、ラモン、ホヨー、ロメオなど、クザーノに関わる人間たちの物語も語られるようになるが、その語りには反復が用いられる。1、2、3と連なる章は、語りが始まるたびに少し時間が巻き戻されてまた、1、2、3と始まる。そうやって読み進めていくうちに、読者は長い歴史の連なりを知ることになるのだ。


 クザーノの弟分として登場する甲一の存在は、一見奇妙に思える。甲一は、一定の方向で流れている歴史の中に、あらゆる立ち位置で現れる。ある時は先に旅立ち、ある時は残って見送る。まるで甲一だけが、歴史というものから逃れているように。1つの歴史の中にいるクザーノと、あらゆる歴史を背負っていないように見える甲一。この2人がいることで、『水と礫』は多面的な作品になっているように思われる。


 乗代雄介の『旅する練習』は、第164回芥川龍之介賞の候補作にもなった。今作の特徴は、ノミネートされた5作品の中で唯一、コロナ禍を描いているということが挙げられる。


 小説家のおじである「私」と姪の亜美は、鹿島アントラーズの本拠地である茨城県鹿嶋市へ、試合観戦も兼ねた旅に出る予定を立てていた。ところが、すべての計画が狂うことになる。新型コロナウイルスの感染拡大である。休校措置が出て、卒業式もなくなった亜美を思いやってか、「私」は徒歩で鹿島を目指すことを提案する。全国的に休校措置が出たのが、2月末であり、作中にはトイレットペーパーが不足している様子が描かれている。読者も、だいたいあの頃か、と思い出すことができるだろう。


 旅の中で「私」が書き物をしている様子は、まるでデッサンをしているように見える。そんな「私」を待つ間、亜美はリフティングに励んでいる。まさしく『旅する練習』なのである。そんな旅に付き物なのが出会いと別れだが、今作の中でもあらゆる形で描かれている。「私」と亜美もとある形で別れることとなる。コロナ禍の旅でだからこそ、より濃く浮かび上がってくるものもあるのだと思わされた。


 『リリアン』がノミネートされた、社会学者である岸政彦は、2017年に『ビニール傘』、2019年に『図書室』でも三島由紀夫賞候補になっている。


 『リリアン』は、大阪を舞台に、音楽で「飯が食え」てしまっている「俺」と、「俺」が好きなバーで働く美沙さんを中心に物語が構成されている。今作の1つの特徴として、会話文の表記が挙げられる。「俺」が周りの音楽仲間たちと会話をするときは、「」がつけられているが、美沙さんと会話をするときは、「」がなく、シームレスに会話が繰り広げられる。何気ない会話の連なりは、互いの言葉を編み込んでいくように感じる。さらに、彼らの言葉は、打ち寄せる波のように、繰り返し風景の中に挟み込まれていく。


 「俺」と美沙さんに共通して感じられることは、秘められた寂寞さである。音楽で「飯が食え」てしまっているが、自分自身の限界を感じ、音楽から離れようとしている「俺」と、娘を水の事故(あるいは事件)で亡くした過去を持つ美沙さん。各々の事情を抱えながら生きてきた2人は、丁寧に交流を深めていくが、言葉の端々からうら寂しさが見える。その寂しさは、まるで人気のない海のように思えるが、それは、作品の冒頭に描かれているシュノーケルの場面が作用しているのであろう。その漂う寂しさを悪しきものとせず、寂しさを寂しさのまま肯定しているのが『リリアン』という作品の持つある種の優しさではないだろうか。


 『五つ数えれば三日月が』が第161回芥川龍之介賞の候補となった、李琴峰。2021年には『ポラリスが降り注ぐ夜』で、芸術選奨新人賞を受賞している。


 今回候補作となった『彼岸花が咲く島』は、<島>にどこからか流れ着いた記憶のない少女・宇実(うみ)と、<島>で生まれ育ってきた少女・游娜(よな)、そしてその2人の少女を気にかける少年・拓慈(たつ)の3人が、<島>の言葉や歴史を巡って葛藤しながらも向き合っていく姿が描かれている。


 <島>の詳細は、作中で<島>の指導者とされているノロによって明かされる部分もあるものの、現代に照らし合わせると、沖縄の文化(ニライカナイ、御嶽、ミルク神と思われるミロ神)と、中国の言葉(「北月浜(べユエはま)」、「彼岸花(ビアンバナー)」)が混ざった生活様式であることが伺える。


 宇実と游娜は<島>の全てを知ることになるのだが、その全てを知りたがっている拓慈に伝えるかどうか迷いが生じるシーンは、彼女たちが歴史を背負い始めた瞬間であると感じた。血が流されながら重ねられてきた<島>の歴史を語り継ぎ、そして未来を変化させていこうとする宇実と游娜の覚悟が垣間見える会話はあまりにもさり気ないが、その軽さこそが<島>の転換点となりうるのかもしれない。


 『蛇沼』で第49回新潮新人賞を受賞した佐藤厚志による『象の皮膚』は、身体性を強く感じる文学である。


 アトピー性皮膚炎を持つ五十嵐凛は、自身の身体と長年向き合い続けている。過去と現在が入れ替わり立ち代わり現れる構成は、凛の人生に厚みをつける。「カビ」「象女」と呼ぶ同級生や、「気合が足りない」と叱責する親からは、大人になることで逃れられた一方、夏でも長袖を着られるということを理由に契約社員として働いている書店では、問題を抱えた客や職場内での人間関係に巻き込まれる。その渦は、東日本大震災によってより加速したように見えた。


 凛が炎症により肌を掻きむしってしまうシーンの描写の緻密さは、この作品の持つ身体性の部分に寄与している。皮膚が剥けて血が滲み出ている身体が、ここにあるように感じた。そんな凛の身体性は、職場では意図的に隠されている。仕事をこなす中で、凛は繰り返し「自動販売機に徹しなければならない」と言う。


 その身体性がマックスになるのが、今作のラストシーンである。凛は夜風に素肌を晒しながら、幼少期から感じているもう1人の自分と対峙する。ままならない身体を抱えて生きるのは、己や世界と戦い続けることでもあるのだが、小さな折り合いを重ねていくことで、いつか和解できるのではないかと思わせる作品である。


 三島由紀夫賞受賞作品が発表されるのは、5月14日。どの作品も強い魅力があるが、個人的には岸政彦の『リリアン』と、李琴峰の『彼岸花が咲く島』を推しながら、発表を待とうと思う。


(文=ねむえみり)