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児童虐待、介護、毒親……本屋大賞受賞作『52ヘルツのクジラたち』は“誰にも届かない声”を拾う

2021年04月27日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

“誰にも届かない声”を拾い本屋大賞受賞

 先日、「本屋大賞」の2021年受賞作が発表された。本屋大賞とは、全国の新刊書店に勤務する全ての書店員が投票資格を持ち、一年間に出た本の中から「いちばん!売りたい本」を選ぶ賞である。多くの書店員にとってコロナ禍の一年は、不安と共にあった。それは今も変わらない。だが、先の見えない日々を過ごすたくさんの人々が、紙の本を求めて書店を訪れてくれることを実感できる喜びもまた、ひとしおだったように思う。そんな彼・彼女たちが今年、心から「売りたい本」として選んだのは、福岡県在住の著者、町田そのこが描く『52ヘルツのクジラたち』(中央公論新社)だった。


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 タイトルの「52ヘルツのクジラ」とは「世界で一番孤独と言われているクジラ」のことを言う。クジラは海中で歌うようにして仲間に呼びかける。だが、中には高音すぎて、普通のクジラと声の高さ(周波数)が全く違うために、懸命に歌っていても、仲間に気づかれず、孤独にさまようクジラがいる。それを「52ヘルツのクジラ」と言うそうだ。


 この物語は、そんな届かない声をあげるクジラのように、絶望の淵で、誰にも気づかれずに苦しんで生きてきた人々を描いた。そして、彼らに手を差し伸べると同時に、どうやったらちゃんと彼らの現状から救いだすことができるのかを問う物語である。


 主人公・貴瑚は、誰とも関わらず、ひとりでそっと生きていきたいと、大分県の小さな海辺の町に引っ越してきた。とはいえ田舎の老人たちの好奇心は彼女をそっとしておいてはくれない。冒頭から、地元の人々による下世話な詮索に心底彼女はうんざりしている。だが、終盤に近付くにつれ、その行き過ぎた干渉が彼女にとっては良かったのかもしれないと思えてくるから不思議である。彼女を傷つけ苦しめたのも人である一方で、彼女を救ったのも人であるからだ。一人でいようとする彼女の心の扉を、バタンと閉められる寸前に食い止めたのは、彼女を慕う男、村中だった。


 物語全体もそうだ。ネグレクトを受けていた貴瑚は、21歳で義父の介護を押し付けられ、精神的にも肉体的にもボロボロになり、死を決意して道を歩いていたところを、通りすがりの「アンさん」と同級生の美晴に助け出される。彼らが、何度も閉じそうになる貴瑚の心の扉をノックし続けたことによって、彼女の心は未来へと向かうことができた。そして、大分で暮らし始めた彼女の前に現れた、母親に虐待され「ムシ」と呼ばれる、孤独な少年に、かつての自分の姿を重ね、今度は自分が手を差し伸べることができたのである。


 貴瑚はかつての自分と少年の声を「52ヘルツのクジラ」の声に例えた。そして彼女は、少年を救おうとすることをかつて「聞き逃した声に対する贖罪」だと言う。


 少年のルーツを探す旅が描かれると共に、親の元からやっとの思いで救い出され、再生を遂げた貴瑚が、どうして再び一人になろうと田舎町に引っ越してきたのかという謎の全貌が明らかになっていく。


 主な舞台である大分県の小さな海辺の町だけでなく、北九州市小倉駅近郊、大分県別府市といった地名が登場するのも、福岡県在住作家である町田ならである。少年の数少ない幸せな記憶の象徴である、チャチャタウン小倉の大観覧車を貴瑚たちが訪ねる場面など、九州在住者にとっては新鮮であると共に嬉しい場面も多い。また、遠出の旅行が困難になってしまっている現在、本を通した九州探訪も一興である。


 町田は、2016年、『カメルーンの青い魚』が「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞しデビューする。本作『52ヘルツのクジラたち』は、その『カメルーンの青い魚』を含む連作短編集『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』(新潮文庫)の5編を執筆中に構想され、数年の時を経て、4冊目になる初の長編小説として執筆されたものである。そのため、物語としては連なってはいないが、小さな街で、あまりにも過酷な過去と心の傷を負いつつも、日々を一生懸命に生きる人たちの人間模様が、美しい海の情景と共に描かれる様は共通しており、それらは見事にひとつながりになっているように感じる。


 児童虐待、介護、毒親、トランスジェンダーと家族の不理解といった、現代社会を取り巻く様々な問題が描かれると共に、貴瑚や母親が囚われる、祖母から続く女三代の血と業を巡る物語もまた濃厚に描かれる。


 人というのは時折、どうしようもなく愚かになってしまう時がある。一度アンさんはじめ複数の人の無償の愛の力を借りてなんとか浮上したにも関らず貴瑚は、自らその手を拒んでしまう。純粋な愛と真実が、必ずしもその人を救うとは限らず、彼らが求め続ける「魂の番」を見つけることはそうそう容易くない。期待することを諦めたような少年の顔。一度浮上してもまた沈みを繰り返す貴瑚の人生。


 深い、深い海の底に沈んでいくようなヘビーな物語の先に、どうしても辿りついてほしい1ページがある。238ページ目に広がる、あまりにも美しいワンシーン。全てはこの場面のためにあったと思えるような瞬間である。この物語が、多くの「52ヘルツのクジラ」たちに届きますように。


(文=藤原奈緒)