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カズオ・イシグロとロボット研究者・石黒浩、その共通点と差異は? 『クララとお日さま』から考察

2021年04月19日 12:01  リアルサウンド

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 カズオ・イシグロの最新小説『クララとお日さま』は少女のかたちをしたアンドロイド・クララが、ジョジーという少女の住む家で稼働する日々を、クララの視点から描いたものだ。


参考:鴻巣友季子が語る、マーガレット・アトウッド作品の魅力


 ヒト型のアンドロイドといえばマツコデラックスや桂米朝、勝新太郎、夏目漱石、立川談志などのアンドロイドを作った大阪大学のロボット研究者・石黒浩が想起されるが、石黒浩は『アンドロイドは人間になれるか』のなかでカズオ・イシグロ作品が好きだと語っている。


 イシグロが石黒のことを意識して『クララとお日さま』を書いたかは不明だが、ここでは石黒的な視点から『クララとお日さま』を読み解いてみたい。


■イシグロと石黒の共通点――アンドロイドが人間の死生観を問う/変える


 イシグロの代表作『わたしを離さないで』と『クララとお日さま』には相通ずる部分がある。『わたしを離さないで』は臓器提供を目的につくられたクローン人間の子供の視点から描かれたものだ。『クララとお日さま』のクララは、実はジョジーの両親が、病弱なジョジーがもし亡くなったときには、そのあとで代わりになるようにジョジーの振る舞いを「学習」させている。クローンもロボットも自己意識を持った存在だが、しかし、特定の目的のために作られた人間の模造品・代替品にすぎない。


 イシグロは「文學界」06年5月号に掲載されたインタビューでこう言っている。


「我々の体がいずれ動かなくなるという事実から逃げることはできません。概して我々はそれぞれ違った方法で死を逃れようとします。死後の世界を信じたり、もっとささいな方法としては、作品を残したり、我々自身の記憶や、人生で達成したものを残したり、我々を愛してくれた人や友人の思い出を残すようなことをするのです。何とかして、ある程度は死を克服することができます」


 クローンやアンドロイドはそういう「死から逃れる手段」だ。


 石黒浩も特定の人物そっくりのアンドロイドを作ることは、その存在が社会的に死ななくなることにつながる、ということを『人とは何か』などで書いている。


 米朝や談志のアンドロイドは、ビデオを元に彼らの動きを学習しており、高座を再現する。実空間に存在するアンドロイドは、ただの動画や音声データ、あるいは銅像や遺体などよりもはるかに存在感をもって私達の前に現れる。


 ディープフェイク技術を使えば、新規に何か言わせることさえできる(石黒の作品ではないが、AI美空ひばりではこれが行われたことが物議を醸した)。


 自分や肉親の死後も、完璧に同じではないにせよその似姿を持った存在があたかも「生ける墓」のようにあり続け、言葉や動きを再現し続けることができたとしたら、私達の死生観は変わるだろう。


 そもそも人間が機械、道具を作るのは、ひとの能力を補助・代用させるためであり、アンドロイドを人間の代わりにするという発想は、技術の本質からいって当然のものだ。


 また、『クララとお日さま』では、最後にクララは廃棄される。そこに読者は物悲しさを抱く。このように、ただのモノにすぎない機械に感情移入し、弔う必要があると考える人びとの姿もまた、石黒浩の著作『アンドロイドは人間になれるか』などに記述されている。


 老朽化したワカマルというヒト型ロボットを破棄することになり、檻に入れて鍵をかけて大学構内に置いていたところ、ある学生がその姿を写真に撮ってSNSにアップ。それが瞬く間に大量に拡散され「かわいそうだ」という苦情が殺到して廃棄を取りやめせざるをえなくなったという「ワカマル廃棄事件」だ。


 ほかにもソニーのアイボも「葬儀」が執り行われたことがあった。


 一方では特定の目的のために作られた「モノ」として処理しながら、もう一方では愛着を抱く生きものとして手厚く葬るべきだという感情が沸くのが人間の興味深いところだ。


■イシグロと石黒の差異――生身の人間は上位存在か?


 もちろん、アンドロイドと生前の人物は完全に同一のものではありえない。クララやジョジーの両親はその「違い」を自覚し、ジョジーのかけがえのなさを強く感じる。


 ただこれは「人間と機械だから違う」という話ではない。まったく同じ遺伝子を持った一卵性双生児であっても、後天的な環境要因、経験によって、同じ能力や記憶を持った存在にはなりえない。したがって『わたしを離さないで』のようにクローン人間を作っても、そのクローンは、オリジナルと同じように考え行動する個体にはならない。まったく別々の存在である。


 たんに「違う」のだが、しかし、イシグロ作品ではクローンやアンドロイドは悲哀の対象になる。つまり、劣位に置かれている。人間に対して優位に立つ存在ではなく、脅威にはならない。


 つまり結局のところ、イシグロは保守的である。アンドロイドやクローンは「人間とは何か」を考えさせる存在ではあるものの、生身の人間が上位存在であるという価値観は揺るがない。


 ここがふたりの決定的な相違点だ。


 『最後の講義』などで語っているように、石黒は、有機物であることの制約から解き放たれた無機生命体になるための、過渡的な存在として人間の身体がある、と考える。


 つまり生身の人間が上位で、アンドロイドが下位であるとは考えていない。将来的には意識を持ったアンドロイドこそが上位存在(未来の人類の姿)になる。有機生命体であるがゆえに寿命があり、睡眠しなければならないといった限界を持つ生身の人間は、限界をなくした機械生命体になるための技術開発を懸命にしている存在として位置づけられる。


 これはいわゆるAI・ロボット脅威論とは異なる。人間がAI・ロボットに「なる」のだ。


 言ってみれば、将来的にはクララのようなアンドロイドが棄てられるのではなく、死んだ生身の人間の身体こそが廃棄され、アンドロイド化した人類が子(のような存在の機械)をなし、家族を作ることを夢見ている、と言える。


 カズオ・イシグロは、前作『忘れられた巨人』のほうが読者に対してすぐれた問いかけをし、また、価値転倒を描いていたように思う。『忘れられた巨人』では、為政者が記憶を失わせる霧を発生させることで、覚えていたら深刻な対立に至る勢力同士の関係を保つということを描いていた。戦争や災害の記憶は「忘れてはいけない」と語られることが多いが、忘却にもそれはそれで価値がある、と示していた。


 それと比べると『クララとお日さま』は、型落ちしたアンドロイドが用済みになるまでを描いた物語であって、石黒浩が示すような「アンドロイドのほうが人間よりもほとんどあらゆる点で優れた存在になる日が来る」といった意外な結論には至らない。


 もっとも、それは『わたしを離さないで』も同様であり、そもそもイシグロは価値転倒を第一に置いた作家ではない。最盛期をすぎて終わりゆく、滅びゆくものに寄り添う作品を描く作家である。


 ただないものねだりだとわかったうえで言わせてもらえば、生身の人間を滅びゆくものとして描いてくれたら、ふたりのイシグロ/石黒がシンクロして、おもしろかったように思う。(飯田一史)