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安野モヨコがいなければ『シン・エヴァ』は生まれなかった? 『監督不行届』から読み解くオタク夫婦の絆

2021年04月08日 10:21  リアルサウンド

リアルサウンド

安野モヨコ『監督不行届』オタク夫婦の絆

 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の大ヒットで、総監督の庵野秀明氏に改めて注目が集まっている。3月22日にはNHK総合『プロフェッショナル 仕事の流儀』で庵野氏の密着取材番組が放送された。そこで庵野氏とともに注目を集めたのが妻の安野モヨコ氏の存在だった。庵野氏の特異な生活実態は、ファンの間では知られていたが、この番組での安野氏の証言を聞いて、彼女がいなかったら、今頃庵野氏は生きていなかったのではないかと思った人は多いだろう。


関連:【画像】安野モヨコ『美人画報』


 そんな2人の生活を綴ったコミックエッセイが『監督不行届』だ。本書を読むと、庵野氏との生活は本当に大変だと思わされると同時に、ものすごく刺激に満ちていて退屈とは無縁だろうと感じる。そして、庵野氏のオタクぶりもすごいが、安野モヨコ自身もかなりのオタクであり、オタク夫婦としての絆の強さが見えてくるのだ。


■オタクを隠して生きていた安野モヨコ


 本書は、日本のオタク四天王の1人と言われる「カントクくん」と結婚した漫画家「ロンパース」の夫婦生活をコミカルに描いた作品だ。巻頭1ページ目には、「このマンガはフィクションであり、実在の人物・団体とは関係ありません」と書かれているが、巻末の庵野秀明氏によると「嫁さんが夫婦の実話をベースに、よりおもしろおかしくアレンジしてる」そうだ。


 本書の見どころは、カントクくんのとてつもないオタクぶりとそれに振り回されるロンパースのやり取りだ。そして、カントクくんの信じがたいほどの生活力の低さも笑いどころとなっている。


 例えば、2人で結婚式の衣装を試着しに行ったとき、ウェディングドレスを着るロンパースを尻目に、カントクくんは仮面ライダーのスーツを着るから試着は必要ないと主張して、店員を困惑させる。部屋の中は玩具のおまけが散乱し、大量のDVDやレーザーディスクでいっぱいとなってしまう。そして、カントクくんは放っておくと着替えもせず、5日間も同じ服を着続け、風呂にも入らないことなどが描かれている。ロンパースは、そんなカントクくんの生態に振り回されながら、自分にオタクの嫁が務まるのかと自問する。


 本書の最も重要なポイントは、そんなロンパースが自分も結局オタクであると気が付く過程が描かれているところだ。カントクくんが振るネタに、ロンパースはそれなりに的確に突っ込みを入れることができてしまう。ロンパースは「オタクは伝染するのかも」と思うが、カントクくんは「お前はもともとオタクなのだよ」と指摘する。


 ロンパースはカントクくんと付き合うまでは、オタクであることを隠し、同業者やオタク男性とは付き合ってこなかったという。「普通の人と付き合っていれば、いつか自分も中和されてオタク度の低い女(モテ)になれるんじゃないか」と思って生きてきたのだそうだ。


 本書は一応フィクションと銘打っているが、この点については安野モヨコ自身を反映していると思われる。彼女の代表作には、恰好よくて綺麗でたくましい女性が数多く描かれていて、オタクとは程遠いキャラクターばかりである。実際、彼女の作品は世の非オタクの女性たちにもたくさん支持されていた。だが、同時に彼女の作品には、昔のドラマやマンガ、アニメを引用した数々の小ネタが仕込まれていたりする。


 そんなオタクを隠していた彼女が、それを隠そうともしない夫に影響されて、本来の自分らしくオタクとして生きられるようになっていく過程が描かれている。夫婦でドライブ中にアニソンを熱唱しているときに、ロンパースは「抵抗してストレスためるより、なじんだ方がラク」と悟る。


 安野モヨコ氏が庵野氏と結婚したのは2002年。この頃の安野氏は、月刊美容雑誌『VoCE』で美しくなることをテーマにしたエッセイ『美人画報』を連載していた。そこには綺麗でイケてる女性になるための日々の努力が綴られていて、オタクの入り込む余地はなさそうに見える。『美人画報』では、美しいものが好きと繰り返し書いていて、それは本音であることは間違いない。だが、一方でずっと風呂に入らないオタクとも付き合えるというのはすごいふり幅である。


 『美人画報』は全3冊で刊行されているが、最終刊の『美人画報ワンダー』では、綺麗になるための努力の過程で「ブス」という言葉にさんざん傷つけられ、落ち込み、3カ月ほど仕事が手に着かなかったことも明かしている。綺麗になるために努力する姿が彼女らしくなかったわけではないだろうが、どこか無理をしている面もあったのだろう。そんなときに、オタク心を全肯定してくれるような存在に出会ったとしたら、それは大きな救いだったのではないだろうか。


 ロンパースも、明らかにカントクくんとのオタク生活に刺激を得ているし、心地よいとも感じている。それどころか、オーストラリアに旅行した際に、ボディケアに目覚めたカントクくんにロンパースは「フツーの男になってしまう!!」と危機感を感じてしまうようになる。普通の男になってもらった方が生活は楽になると思うが、それでは結局物足りないのだろう。


 本書は、カントクくんこと庵野秀明氏の生活実態に驚かされるが、それと同じくらい、ロンパースこと安野モヨコ氏の馴染みっぷりにも驚かされる。2人は似た者同士で、出会うべくして出会い、結婚するべくして結婚したのだと納得するだろう。


■安野モヨコは漫画を読者の避難場所にしない


 本書は漫画本編も面白いが、巻末の庵野秀明氏によるあとがき「庵野監督 カントクくんを語る」も読み応えがある。そこで庵野氏は安野モヨコ氏の作品を、「マンガを現実からの避難場所にしていない」と絶賛している。庵野氏いわく、漫画の大半は読者を現実から避難させて満足させるだけになってしまっているという。そんな中において、安野モヨコ氏の作品は、一貫して「現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガ」なのだと評している。


 それは、庵野氏にとって『新世紀エヴァンゲリオン』でやろうとしたが、できなかったことだそうだ。筆者は、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』でそれがようやく達成されたのではないかと思っている。現実に還る観客に向けて、前向きに生きていくための力がみなぎっていたと思う。


 そういう意味でも、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、安野モヨコ氏がいなければ生まれなかったのかもしれない。安野モヨコと庵野秀明は互いにとってなくてはならない存在なのだ。本書を読むとそれがよくわかる。


(文=杉本穂高)