2021年03月31日 10:21 弁護士ドットコム
横浜市の路上でトラブルとなり、70代男性から先に殴られたために、殴り返した60代男性が傷害の罪に問われた裁判で、横浜地裁(景山太郎裁判長)は3月19日、正当防衛の成立を認めて無罪(求刑1年6月)を言い渡した。
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この裁判では、70代男性が先に1回殴ったものの、60代男性が2回殴り返したため、70代男性が転倒し、外傷性くも膜下出血などの傷害を負わせたという罪が問われた。なお、70代男性はのちに亡くなっている。
どうして60代男性は「無罪」となったのだろうか。「正当防衛」だと判断されたポイントとともに、判決要旨から事件を読み解く。(弁護士ドットコムニュース編集部・猪谷千香)
まず、裁判所が認めた事実はこうだ。
2020年2月午後6時ごろ、60代男性のAさんは、仕事を終えて自宅に帰ろうと、上着のポケットに両手を突っ込み、横浜市内の歩道を歩いていた。
一方の70代男性のBさんは、直前まで飲酒していたため、ゆっくりと小さな歩幅でやや左右に揺れながら、反対方向から歩いてきた。
2人はお互いに進路を変えることなく、道路上でお互いの体が触れそうになるほどの距離まで近づいた。
現場の歩道は、交通量の多い繁華街の車道に並設されたもの。幅は1.6メートルと狭かったうえ、対面した場所では、車道と歩道の間に道路標識も立っていた。
AさんはBさんと道路標識の間に体を滑り込ませ、無言で通り過ぎた。その直後だった。BさんはAさんに「何だてめえ、このやろう」と怒鳴った。2人に面識はない。
少しむっとしたAさんは、Bさんに向き直り、「何」と言い返した。語尾を下げるような言い方だった。
その1秒後、Bさんは突然、右のこぶしでAさんの右ほほあたりを殴った。Aさんの顔は左に振れ、体も後ろに下がった。あとから気づいたところ、鼻血も出ていた。
罪に問われたのは、このあとの行為だった。
Aさんは上着のポケットから両手を出すと、すぐさまBさんの顔を狙って、利き手の左こぶしで下から殴った。間髪入れず、その場に転倒し始めたBさんに右こぶしも突き出し、顔に当てた。
Bさんは路上に体を打ち付け、歩道と車道にかけて倒れた。AさんはBさんの体を抱きかかえるようにして歩道に移動させ、自分の携帯から110番通報した。
Aさんのこの行為が「正当防衛」にあたるかどうかが、裁判の争点となった。刑法36条1項には、こう定められている。
「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」
つまり、正当防衛が成立するには、「侵害の急迫性」「防衛の意思」「防衛行為の相当性」という3つの要件が求められる。これら3つのうち、どれかが欠いていれば、Aさんの正当防衛は認められず、有罪ということになる。
裁判所はどう判断したのだろうか。
判決要旨には、BさんがAさんを最初に殴ったあと、Bさんの「攻撃意欲や攻撃可能性がなくなったとまではいえない」などとして、「侵害の急迫性」を認めた。検察側による、AさんがBさんの殴打を予期していたという主張は、「偶然歩道ですれ違ったに過ぎない関係であった」という事情などから、「無理がある」と否定した。
「防衛の意思」については、検察側はAさんがBさんに殴られ、憤慨してBさんへの暴行に及んだと主張していたが、前提となる「侵害の急迫性」がある以上、「憤激や怒りの気持ちから出た攻撃意思を伴っていても、正当防衛の要件である防衛の意思に欠けるものではない」と断じた。
なお、BさんはAさんから殴られたあとに直立状態のまま、受け身をとることなく転倒した。検察側は、Aさんの暴行が非常に強烈だったからとしたが、防犯カメラに映ったBさんの歩きや、病院に搬送された際の血中アルコール濃度の高さが「相当影響」した疑いがあると指摘している。
最後に「防衛行為の相当性」についても、裁判所は認めている。BさんがAさんを最初に殴った際、体も後退して鼻血が出ていることから、「程度は決して軽いものではなかった」とした。一方、Aさんは2回にわたって殴打しているが、あくまで瞬間的に殴ったものであり、「その程度は大きく異にするものとはいえない」とした。
つまり、3つの要件を裁判所は認めたのだ。
「これを正当防衛と言わずして、何を正当防衛というのか、というほどの事件でした。なぜ検察がAさんを起訴したのか、疑問です」
そう話すのは、Aさんの弁護人である南竹要(みなみたけ・かなめ)弁護士だ。
「正当防衛に必要な基本的要件を一つ一つ判断して、それぞれが認められれば正当防衛になります、という案件でした。しかし、検察側は要件を緩めた判断の枠組みを主張してきました。
つまり、一つ一つの要件の存否ではなく、一つ一つの要件を見て正当防衛の要件を満たしていても、全体としてみれば正当防衛の成立を妨げる余地があるという理論を展開していました。これは、裁判所に厳しく批判されています」
裁判所は、判決で「正当防衛の判断枠組みに関する検察官の主張について」という一項をわざわざ割き、「各要件の区別まで曖昧にすることを許容する趣旨を含んでいると解するのは行き過ぎ」「法の文理や一連の判例にもそぐわない」などと検察側を批判している。
「判決は、従前の判例理論に沿って丁寧かつ常識的に判断しました。見通し甘く起訴した結果、公判検事の主張予定書面は、終始短めで、曖昧な表現に終始していました」と南竹弁護士は説明する。
南竹弁護士によると、Bさんが亡くなっていることを重視した検察は、起訴後に罪を「傷害」ではなく、より重い「傷害致死」に切り替えようとしたという。
しかし、南竹弁護士がBさんのカルテ等の医療記録を検察側に証拠開示請求したところ、心肺停止の直接的な原因は、嘔吐物を気道に詰まらせたことによる窒息だった。
「Bさんは酔っていたので、倒れた際に直前に食べていたものをのどにつまらせ、窒息状態になっていました。公判前整理手続にむけた期日において、因果関係を争う姿勢を見せたところ、検察は傷害致死への訴因変更を断念した、という経緯がありました」
さらに、南竹弁護士は厳しく指摘する。
「この事件の客観的な証拠は、防犯カメラしかありませんでした。Bさんも亡くなっています。そんな乏しい証拠しかない中、立証が困難となり、検察は判断の枠組み自体をいじろうとしたのでしょう。
しかし、画像を見れば、殴り返した事案ですので、正当防衛を主張されることは同じ法律家の目からみれば、事件の当初から明白でした。従前の理論に照らすと、正当防衛が成立する余地がそれなりにあることは検察側は容易に予測できたし、しなければならない。
本来起訴の段階で、公判維持困難として、不起訴処分にすべきでした。公判検事の対応を見ていると、公判で新たな判例理論を打ち立てようという気概も見受けられませんでしたので、起訴検事の見通しの甘さがあったと見られてもやむを得ない。
検察権の行使が、やり過ぎて独善に陥るのではなく、やるべきことを怠りすぎて独善に陥ったと評価できる。一人の市民の人生がこの独善で翻弄されたことを思えば、組織としての統率ができているのか猛省すべき」
検察側が控訴できる期限は4月2日。控訴されなければ、Aさんの無罪判決は確定する。