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田中純に聞く、デヴィッド・ボウイの思想と美学 なぜ彼の音楽は人々の心を動かし続ける?

2021年03月27日 12:01  リアルサウンド

リアルサウンド

思想史学者・田中純が語る、ボウイがもたらした社会的な影響

 デヴィッド・ボウイのグラム・ロック時代の初期代表作『The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars』(1972年。略称『Ziggy Stardust』)は、あと5年で世界は滅びると歌う「Five Years」から始まっていた。そして、2016年1月10日にボウイが亡くなってから5年後、田中純氏の『デヴィッド・ボウイ 無(ナシング)を歌った男』が刊行された。文字は2段組、600ページを越す労作である。


 「~はない」=「無はある」というパラドックスを歌い続けた人として彼をとらえ、変化、遅延、分身、わらべ歌、義兄との関係など多様なモチーフが作品ごとにどう表現されたかを追い、ボウイの美学や思想を精緻に読み解いた圧巻の「作家論」だ。表象文化論、近現代の思想史・文化史、ドイツ研究を専門とし、現在、東京大学大学院総合文化研究科教授である著者に、ボウイとの出会い、大著の「作家論」をまとめるに至った思いを聞いた。(3月10日取材/円堂都司昭)


関連:【画像】田中純が訳したサイモン・クリッチリー『ボウイ その生と死に』


■デヴィッド・ボウイとの出会い


――本の序によると、12歳の時にラジオで「Starman」(『Ziggy Stardust』収録)を耳にしたのがデヴィッド・ボウイとの出会いだそうですが、最初に聴いたアルバムはどれですか。


田中:『Low』(1977年)です。当時読んでいた「ロッキング・オン」(1972年創刊の洋楽誌)がプッシュしていたボウイに興味を持ち、画期的といわれていた『Low』を聴いたんです。そこからグラム・ロック時代へさかのぼり、アルバム・ジャケットを1つ1つ見てどんどん変化する彼のイメージに接した。『Alladin Sane』(1973年)や『Diamond Dogs』(1974年)は、グロテスクさを含んだ美しさが強烈でした。ただ、入口が『Low』だったから、ビジュアルとしてはあの頃のダンディズムに一番影響を受けました。彼がかぶっていた帽子とか。


――世界がまだ冷戦時代で東西に分断されていたドイツのベルリンでボウイは『Low』、『”Heroes”』(1977年)を制作した後、2度目の来日公演を行い(1度目は1973年)、その模様はNHKで放送されましたが……。


田中:NHKホールで観ました。初めて行く外タレのコンサートでした。


――体験してるんですね、うらやましい! 『Low』はアナログ盤でいうと歌詞のある曲はA面に集められ、B面は詞のないボーカルが少し入るだけでほぼインストゥルメンタル。片面ずつかなり色あいが違いましたが、すぐになじめましたか。


田中:抵抗感はなかったですね。『Low』は重い作品と思われているかもしれませんが、ジャケットの印象はポップでしょう。A面の曲は聴きこむと詞に病的なところがあるんですが、演奏に参加したギターのカルロス・アロマーは、ボウイがこのアルバムで求めたのは、明るくてバカげた世界だともいっているわけで、非常にポップでおもちゃ箱みたい。ある種の重いテーマを扱っているのは歌詞や岩谷宏さんのライナーノーツでわかりましたが、それも含め多種多様さが刺激的でA面とB面の違いをことさら意識しませんでした。


――同じ頃、ボウイ以外ではどんな音楽を聴いていましたか。


田中:ビートルズなど王道系のあと、自分で選んで聴くようになったのは、スパークス、ロキシー・ミュージック、ジェネシス、キング・クリムゾンとか。プログレッシブ・ロック、グラム・ロックなどのある種退廃的なものを一番聴いていました。


■岩谷宏のボウイ論から受けた刺激


――すでに名前が出ましたが、本のあとがき(「跋」)で岩谷宏氏の文章がボウイ作品に思想を見出すことに開眼させてくれたと書かれています。岩谷氏といえば「ロッキング・オン」を創刊した4人のメンバーの1人で社長の渋谷陽一氏、松村雄策氏、橘川幸夫氏とともに1970年代にはレギュラーで原稿を執筆していました。先に触れたNHKの日本公演放送では彼による訳詞が字幕で流れていましたが、創刊メンバーのなかで岩谷氏のインパクトが大きかったんですか。


田中:というか、岩谷さんだけです。僕は、渋谷さんの話は全然ついていけなくて共感できなかった。松村さんは愛すべき人だから面白く読みましたけど、橘川さんはそんなに……。


――岩谷氏のボウイ論はどんな点に興味を持ったんですか。


田中:『Low』のライナーで彼は、ボウイは一種の文化革命を行っていたと言おうとしていた。その感覚なんですよ。ロックを通じた文化革命が社会の変化にもつながるはずだという感覚を彼は持っていた。岩谷さんはすごく断定的に書くけど、断定的だからこそカリスマ性があって、そのへんがボウイのカリスマ性と重なってみえた。岩谷さんは京大仏文卒で卒論は詩人のアルチュール・ランボー。ランボーが20歳で詩を捨ててしまったように、批評と緊張関係を持っているところがあった。文学が、音楽が、ロック批評が、それでしかないことへの苛立ちが文体にもあらわれていた。そこが『Low』に通じる。ボウイは決してロックに安住しておらず、ロックから常に外部へ出ようとしていた。岩谷さんが一時期のボウイを推していたのは、そこが通じあっていたからだろうし、僕が魅かれた理由でもあります。


 僕はもともとドイツの社会や文化に興味があって、『Low』を聴いたのは次作の『”Heroes”』が出る頃だった。その1977年にはヨーロッパでテロが吹き荒れ、ドイツもそうだった。ドイツ赤軍が財界の要人を誘拐し、自分たちの幹部を刑務所から出せと要求した。連帯していたパレスチナ・ゲリラがハイジャックして西ドイツ政府に圧力をかけましたが、特殊部隊に制圧され、刑務所の赤軍幹部たちは自殺と称する死を遂げた。殺されたと推測されますが、報復で誘拐されていた財界人は殺された。「ドイツの秋」と呼ばれたそのテロ事件を報道で知り、僕も関心があった。もともと革命に興味があったんです。高校のはじめくらいからマルクスなどを読み、なぜ日本で革命が起こらないのか、ずっと考えていた。1960年には60年安保闘争があり、1970年には70年安保闘争があった(日米安全保障条約への反対運動)。1960年代後半には学園紛争があったわけです。


――68年革命と呼ばれ、先進諸国で若者の反政府運動が起こった状況と、同時代のロックの盛り上がりは結びついていましたね。


田中:高校生の自分と同じ世代が10年前に起こしたことだけど、1978年なんてなにも起こりそうになかったわけです。過去の闘争への憧れと1980年の闘争がないことへの苛立ち、革命への衝動みたいなところでたまたま『Low』、岩谷さんのライナー、「ロッキング・オン」と出会ってしまった(笑)。ボウイが持っていたポテンシャルに岩谷さんが開眼させてくれたというのは、そういうことです。


■文化と政治、芸術と政治を考えるうえで重要なボウイ


――その後、田中さんは研究者への道に入るわけですが、ロックは聴き続けていたんですか。


田中:大学に入るまでが一番聴いていました。パンクからニューウェイブへの動きが面白くて、セックス・ピストルズからパブリック・イメージ・リミテッドに至る流れや、ザ・ポップ・グループ、キャバレー・ヴォルテールとか。ただ、ロックを研究対象にしようとは思わなかった。自分がドイツ研究を選んだこととボウイはつながっているし、ボウイが憧れた1920~1930年代のドイツ、彼が一時期住んだベルリンを研究のフィールドにしたくてそうした。でも、当時はロック研究のモデルがなかった。昨年、ボブ・ディランの訳詩集(『The Lyrics 1961-1973』『The Lyrics 1974-2012』)を出した佐藤良明さんのような10歳くらい上の人たちはいましたけど、世代の違いを感じてモデルにはならなかった。ボウイやロックは自分の深層にあって基盤になっていますけど、研究するものではなく自分のフィールドで実践すべきものというか。そんなことをずっと考えてきた気がします。


 僕はアビ・ヴァールブルクというドイツの文化史家やジルベール・クラヴェルという変わったマイナーポエトについて評伝を書きましたが(『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』、『冥府の建築家 ジルベール・クラヴェル伝』)、ちょっとおかしな人たちなんです。文化的な奇人=oddityへの関心は、今回の本に通じるかもしれません(※最初にヒットしたボウイの曲の題は「Space Oddity」(『David Bowie(Space Oddity)』1969年に収録)。そういう意味の関心は持続していますが、時代ごとの音楽シーンへの関心はニューウェイブから後は薄れてしまいました。


――時代論、政体論、結社論、表象論の4部構成で政治的暴力が美化される論理を考察した田中さんの『政治の美学 権力と表象』(2008年)の第3章「自殺するロックンロール」は、デビューから『Low』までを主にとりあげたボウイ論でした。1996年にはその元となる原稿を発表していたそうですが、ボウイに関する文章を公に書いたのはそれが初めてですか。


田中:1990年くらいから友だちと作っていた同人誌や出版社のPR誌に短いものは書いていましたが、論文といえるものは1996年に大学の紀要に書いたものが初めてでした。『Let’s Dance』が大ヒットして以後の1980年代のボウイは我々を裏切ったと認識していましたし、どこかで総括しないといけないと考え、それまで書いていたことをまとめました。1996年の論文と『政治の美学』に入れた原稿は、基本的な主張は変わっていません。


 裏切ったと思った彼が『1.Outside』(1995年)からはっきり変わりつつあることは当時も感じてはいました。でも、1980年代末の低迷からティン・マシーンというバンドを数年間結成していた頃には、なんとかしようとはしているんだろうけど、ちょっとダメだな(笑)、この人はもう終わりかもしれないと思った。それで、1970年代から1980年代はじめまでのボウイがやろうとしたことについて、自分なりに落とし前をつけたいと論文にしたんです。『政治の美学』のように文化と政治、芸術と政治を考えるうえでボウイは非常に重要だと声高にいわないといけない。岩谷さんはもう音楽を論じることはやめていたし、彼以上に信じられる書き手はどこにもいませんでしたから、自分で書くしかないと思いました。


■ボウイの死「自分でも驚くくらいショックだった」


――1980年代以降のライブは観たんですか。


田中:1983年と1990年の来日公演は行きましたが、1992年のティン・マシーンは行きませんでした。1990年の「Sound + Vision Tour」は自分の過去を葬りたいんだなということがよくわかった(※同ツアーを最後に以前の曲は封印と伝えられた。後に封印は解かれた)。それも含めて自分にも区切りをつける感覚がありました。


――ボウイが亡くなった後、「ユリイカ」2016年4月号のボウイ特集に「★(Blackstar)の徴しのもとに デヴィッド・ボウイの「晩年様式(レイト・スタイル)」」を書かれましたね。エドワード・サイードやテオドール・アドルノの議論を踏まえ、円熟や調和とは無縁な緊張を持った生産性のある「晩年様式」をボウイの後期作品に見出していました。「自殺するロックンロール」では、ビートルズなどロックの英雄時代から遅れてボウイがデビューしたことに着目し、彼について「遅延」というテーマを論じたのに対し、「★の徴しのもとに」では「遅延性=晩年性」であると指摘されました。この2つの原稿が核となって今回の大著へ発展したのだと受けとめましたが、2017年にはイギリスの哲学者、サイモン・クリッチリーが書いた『ボウイ その生と死に』を訳されてもいます。田中さんが『デヴィッド・ボウイ 無を歌った男』の執筆に至った経緯を聞かせてください。


田中:ボウイの音楽活動を見直すきっかけになったのは、2004年の「A Reality Tour」を観たことでした。素晴らしいコンサートだったのでそれからの活動に期待したけど、彼は病気になって沈黙の期間に入ってしまった。2013年には久しぶりに『The Next Day』を発表して、良い作品だったけど、本を書こうと発想するまでではなかった。でも、2016年1月に傑作『Blackstar』をリリースした直後に亡くなったことは、自分でも驚くくらいショックだったんです。いくつか依頼されて文章を書きましたが、『Blackstar』をどう語れるかを考えた時、「晩年様式」の概念にいきついた。意味は違うけど「遅延」も「晩年」も「late」ですから。そもそも「Station to Station」(1976年の同名アルバムに収録)の「It’s Too Late」というフレーズをモチーフにして「自殺するロックンロール」を書き始めたんです。最晩年のボウイを語るにはボウイ全体をふり返らなければいけないと感じ、いくつかの出版社からボウイについて本を出さないかといわれ、2016年春くらいには書くと決めました。けれども、ずっと書けなくてたまたまクリッチリーの本を原書で読んでとても刺激を受けた。新曜社からの依頼で訳すことにもなりましたが、同書がアプローチのモデルになってくれました。


――自身の著書のサブタイトルになっている「無(ナシング)」は……。


田中:ヒントはクリッチリーからです。結果としてできあがった本は全然違うんですが、哲学や思想の研究者であるクリッチリーがどういう水準でボウイをとらえようとしたのかがみえたので、自分は書けた。イギリス人だから歌詞は聴けばわかっちゃうわけだし、彼はかなり端折って自分の人生と重ね、エッセイ的に書いている。でも、僕は日本語で書く以上、歌詞の問題やいろんな要素を含め、きちんとした作品論をやらないとダメだと思いました。


■「自分の遅れの意識をボウイに重ねた」


――「晩年様式」といえば、やはりサイードをふまえ『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』と題した短編小説集を執筆した大江健三郎氏が、初期には自分は兵士として死ぬはずだった戦争に遅れたとする意識から『遅れてきた青年』という長編を書いていました。田中さんの場合も、68年革命に遅れてきたという意識があるのではないですか。


田中:僕自身については、そうです。ボウイはビートルズの世代と年齢は大差ないんですが、かなり早くデビューしたのに彼自身が望むほど売れるまでには大変時間がかかった。そういうボウイの遅れの意識に対し、僕は彼より13歳下ですけど、1968年の兄の世代に対する憧れと遅れの意識、かつてのそれに相当する革命がなぜ起こらないのかという苛立ちがあった。自分の遅れの意識をボウイに重ねた面はあります。


――本では義兄との関係、分身(ドッペルゲンガー)、わらべ歌(ナーサリー・ライム)といったモチーフのほか、歯擦音や喃語など歌声について考察され、コード進行や楽器の演奏法など音楽的な部分にも触れられています。田中さんは、楽器は演奏するんですか。


田中:僕自身はしません。そのへんはいろんな分析を参照し裏付けをとったうえで書いています。ティン・マシーンの時期とか端折ったところはありますが、ある程度網羅的にとらえ、歌詞の意味、世界観はもとより、ビジュアルのことも必要なところで触れ、かなり総合的に書こうとしました。今度の本で僕としては、比喩的にいえば音楽家がカバー・バージョンを発表するように、ボウイの作品をカバーするつもりで書いたんです。英語の歌の発音をカタカナにして訳詞にルビを振ったのも、ボウイを聴いたことがない人にも日本語で伝えなくちゃいけないと考えたからです。


 絵画や映画のディスクリプション(言葉による説明)も難しいですが、音楽はもっと難しい。歌詞は引用できるし、だからネットの考察サイトなどはみな訳詞をやるけど、意味はとれても音は消えちゃう。本だと、聴けばわかるとはいかない。それを限界ととらえるのではなく、文字でどう伝えられるか考えた末が今回のルビですし、いろんな要素を動員して記述しました。シンセサイザー主体の『Low』B面を論じる時と初期のフォーク・ソング的な曲を論じる時では違いますし、曲ごとに適切なアプローチを選びました。「無」や異父兄のテリー・バーンズとの関係、わらべ歌といった観点は、作品分析を積み重ねるなかで浮かび上がってきた結果であって、最終段階で通読し、あまり偏ったものにならないよう調整しました。これは日本語ネイティブの自分がボウイをどう聴いたかを日本の読者向けに書いたものですが、クリッチリーから発している「無」の問題を論じたわけなので、分身、わらべ歌なども含め、結論で論じたことは近いうちに英語にしてクリッチリーに読んでもらいたいですね。


――本にする時、原稿の4分の1を削ったそうですが、残すかどうか迷った部分は。


田中:本質的な、必要なところは全部入れられたと思います。ただ、この本とは別に、ある観点からボウイのベスト・アルバムのようなものを想定して、それのリミックス・バージョンとしてのごく薄い本を書きたいと思っています。今度の本でボウイの曲のわらべ歌的な部分を論じましたが、子どもの頃から聴いていたという点で我々世代にとってボウイの曲はわらべ歌的なものになりつつある。その性格をエッセイ的な本として、ボウイ以外のものと曲単位でリミックスして1つの時代史を書けないかと思っています。


■未来でもボウイは「文化的、社会的な影響力を及ぼしうる」


――『政治の美学』のあとがきには、1977年の高校3年生の秋に『Low』、「ドイツの秋」、そして少女マンガで萩尾望都『トーマの心臓』など様々な知的衝撃が一挙に押し寄せたとありました。当時の少女マンガでは、ボウイなど海外のロック・スターがキャラクターのモデルになっていましたし、『トーマの心臓』など少女向けの男性同性愛もの、後にBLと呼ばれるジャンルが出始めた時期です。ボウイはそういう文化圏でも受容されていましたよね。


田中:『トーマの心臓』はたまたま同時期に同級生の女の子からすすめられ読んでショックを受けました(笑)。今考えると、セクシュアリティの揺らぎ、自分の存在感のゆらぎに関しては、ボウイを聴き始めたことと通底していた。ボウイの音楽に内在する少年たち(ボーイズ)への呼びかけ、兄弟というテーマと深くかかわっていると思います。彼の1970年代はじめの作品が英語圏のゲイ、トランスジェンダーの人々に解放的な作用をおよぼしたことともつながっていたでしょう。男性性の規範からの解放という感覚もあった気がしますし、『トーマの心臓』をきっかけに大島弓子や倉多江美などを読んだのもそういうことだったんでしょう。オルタナティブな成熟の可能性を示してくれる面があったと思います。


――ボウイについては昨年、NHKが「アナザーストーリーズ 運命の分岐点 「ロックが壊したベルリンの壁」」という番組で冷戦時代のその壁を歌った「”Heroes”」や1980年代のベルリンにおけるボウイのコンサートをとりあげ彼が時代を動かしたと紹介したほか、ナチス・ドイツの末期を舞台にした映画『ジョジョ・ラビット』(2019年)のエンディングでやはり「”Heroes”」が流れるなど、時代や社会と結びついた音楽として扱われています。


田中:「”Heroes”」はわかりやすい歌詞ではないですが、冒頭のロバート・フリップのギターがすでになにかの到来を予感させるように鳴り響いています。僕も1977年に革命を予感させる音楽と思ったわけで、変化の予感を与えてくれるボウイの作品群のなかでも特権的な曲でしょう。『ジョジョ・ラビット』もそうですが、エマ・ワトソンが出演した映画『ウォールフラワー』(2012年)でも重要な場面で「”Heroes”」が使われていました。


 この曲に限らず、ディストピア的な『Diamond Dogs』とか、直接的な政治的メッセージではないからこそ様々な解釈が可能で、含みのある歌詞、そしてサウンド、ボウイのボーカルの相互作用によって、時代や社会を変えたい、変えようとする人々の心を動かし影響を与えてきたのではないか。それがボウイの作品の特性であり価値だと思います。だから、直接的なメッセージを歌った詞よりも古びない。2010年代の映画に「”Heroes”」とはアナクロニックですよね。でも、『ジョジョ・ラビット』も『ウォールフラワー』も少年少女たちが主人公で、彼らが口ずさんだり踊る音楽としてこの曲が選ばれているのは象徴的だし、作品の力を表している。


 2016年のブリット・アワードでボウイのトリビュートが行われ、ロードが「Life on Mars?」(『Hunky Dory』1971年収録)を歌った。今年1月の没後5年のトリビュート番組ではヤングブラッドが同じ曲をカバーして素晴らしい出来だった。若い世代が傑出した解釈で音楽を受け継いでいることは、今後もボウイが文化的、社会的な影響力を及ぼしうると証明してくれている気がします。僕はそこにすごく期待を持っています。


(取材・文=円堂都司昭)