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地下鉄サリン事件、同じ京大出身の二人を分けたものは? 被害者の監督があばく「加害者」の真実

2021年03月20日 08:31  弁護士ドットコム

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1995年から始まったアニメシリーズが"結末"をむかえる中、同じ年に実際起きた事件をあつかったドキュメンタリー映画が3月20日から公開される。オウム真理教による無差別テロの被害者、さかはらあつしさんの初監督作品『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』だ。


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日本中を震撼させた「地下鉄サリン事件」は、今から26年前の1995年3月20日に発生した。朝の通勤ラッシュで混雑する東京の地下鉄に、猛毒の化学兵器「サリン」がまかれて、乗客・駅員など13人が死亡(のちにもう1人死亡)、6000人あまりが負傷した。



当時、さかはらさんは広告代理店の社員で、その日、サリンのまかれた車両に乗り合わせていた。事件で命を落とさずにすんだが、今も後遺症に悩まされている。それでも、亡き友との「米アカデミー賞をとる」という約束を守ろうと生きぬいてきた。



ドキュメンタリー映画は、事件から20年のときを経て、被害者のさかはらさんが、オウムの後継団体「アレフ」の幹部、荒木浩氏に密着するというものだ。



「被害者」と「教団幹部」(加害者)という立場の違いはあるが、同じ丹波地方の出身で、同じころ京都大学に在籍していたなど、2人には多くの共通点がある。ときに厳しい対話もしながら、「ゆかりの地」を旅する過程で「加害者」の内面に迫っていく。



一連のオウム事件は急速に風化してきている。「政治もメディアも、被害者のことなんて興味ないんですよ」。満身創痍のさかはらさんはそう語る。はたして、どんな"結末"にたどりついたのか。さかはらさんに聞いた。(弁護士ドットコムニュース・山下真史)





●今でもサリン事件の後遺症で苦しむ人たちがいる

――どうして地下鉄サリン事件の映画を撮ろうと思ったのか?



被害者の中には、今でも後遺症で苦しんでいる人がいます。しかし、ほとんど知られていません。誰も興味がないからです。まだまだ被害者の声を届けて、足りていない救済プログラムの改善を考えてもらう必要があるのに。そのためにはどうしたらいいか。それで、素晴らしい映画をつくったら、僕の声は無視されないだろうと考えたんです。



――さかはらさんの声は無視されているのか?



サリン被害者の救済プログラムの改善をしないといけないと考えて、被害者団体にコンタクトをとったけれど「活動していない」と入れてもらえませんでした。ある自民党の政治家に相談に行っても「被害者の団体に入らないとむずかしい」と言われました。



その後、被害者のケア団体の理事になって、民主党の政治家に相談に行ったのですが、NPO法人に意見を聞いてもらえず、理事をやめさせられました。さらに、かつての警察庁長官に手紙を書いても「政治に訴えろ」と返事がきてしまう。



どうしようもないと思いませんか。何も解決していません。サリンの後遺症のケア制度について見直しはないかもしれないけれど、原発の被害者のケアなどに役立ててもらえれば、救われるもしれないと思っています。



――映画のテーマに直接しなかったのはなぜ?



そうは言っても、素晴らしい映画にする必要がありました。しかも無視されない。被害者の話をしても社会は興味ない。無視されないことを考えないといけない。映画は、真夜中の夜食をつくるのと同じです。冷蔵庫の中にある材料をどう料理するかです。キャベツはあるのか。卵はあるのか。じゃあ、材料は少ないけど、小麦粉があるから、お好み焼きをつくろうか。そんなイメージです。その材料がオウム真理教だったんです。





●初めから「荒木氏」を撮りたいわけではなかった

――荒木氏にスポットライトを当てることになった経緯は?



映画をつくり始める前、「ひかりの輪」(オウム真理教元幹部の上祐史浩氏がアレフから分派した団体)にもコンタクトをとりました。ところが、当時、上祐は、団体規制法による「観察処分」を外したいと考えていた可能性があります。万一にもそれに利用されるのは嫌だったんです。



しかも、彼は「麻原彰晃を捨てた」と言っています。そんな人を追いかけても、あまり意味がありません。だから、アレフを取材することにしました。アレフは合議制なので、取材の承諾をもらえるまで、約1年かけて交渉しました。



――すぐに荒木氏と旅することに?



いえ、初めは「アレフの施設に住む」という案を考えました。人間は疲れているところを他人に隠そうとする習性がありますが、3カ月もすれば、僕も隠しきれず、信者たちも、僕のしんどそうな姿を嫌でも見ることになります。しかし、この案は、アレフに断られました。しかも顔出しできるのは、荒木だけということなので、彼のドキュメンタリーを撮ることになりました。



つぎは、車でアメリカ大陸を横断するという計画です。僕が運転していたら、交通事故を起こしそうになるはず。荒木も「やっぱり大変な後遺症が残ってるんだ」と思うかもしれない。ところが、アレフは、IS(イスラム国)と同じテロリストの分類なので、アメリカに入国できません。この計画もつぶれました。



どうしようかと考えあぐねていたところ、あるテレビ番組に紹介されたときのことを思い出しました。その番組で、ある出演者から「さかはらさんは、実は、オウムのメンバーにいそうなプロフィールですよね」と言われたんです。



たしかに僕と荒木は似ています。一方で、同じ丹波出身でも、京都側と兵庫側です。また、同じころに京都大学で学びましたが、僕は経済学部で、彼は文学部です。二人を比較すれば、いろいろ浮き彫りになるんじゃないか。最終的に、このアイデアに落ち着きました。



――旅の中で、荒木氏の心の中が見えたか?



映画では、これまで彼が語ってこなかったことが明らかになります。撮影前、アレフの施設に何度も足を運んで、弟子たちに話を聞いたところ、そのうちの1人が入信したプロセスをこと細かく話してくれた。あのとき、荒木も「自分もこれくらい」と覚悟したと思います。



あと、僕が、取材者としてアマチュアだったということも大きい。(撮影中)僕はいろんな話題について話します。それに荒木は呼応する。同じように語ろうとしてくるんです。これが二人の対話の特徴です。もし僕がプロフェッショナルだったら、彼の話を聞くことに徹してしまい、逆にうまくいかなかっただろうと思います。





●荒木氏が改心するラストにしたかった

――撮影から完成まで6年近くかかったのはどうしてか?



最初の映画編集者(編集マン)と意見が合わず、途中から、自分で編集作業をしていたからです。



実は、2015年に一度完成したけれど、その編集者は、僕のかみさん(元妻)の話を出すなという意見でした。しかし、僕の結婚と離婚を踏まえて「オウムはダメだ」と言うのと、意味が変わってしまいます。それで、表現の問題としてではなく、社会的な責任として、自分で編集することにしました。



でも、編集をしていると、身体がしびれるんですよ。「この映画を誰に見せたいか?」と聞かれたら、いろいろ答えはあるんですけど、「誰に見せたくないか?」と聞かれたら、絶対に自分です。PTSD(心的外傷後ストレス障害)が発動するからです。やっぱり身体が逃げるんですよ。そういうのもあって、時間がかかりました。



――編集のときにどういうことを考えていたか?



こんな重たい題材を扱うので、作品として、妥協があるものはできない、僕には責任があるという思いが強くありました。



2019年5月、父が他界しました。僕の初監督作品を楽しみにしていたと思います。亡くなる少し前、2019年1月ごろですが、「これで出すか」というタイミングがありました。ところが、父は何も言わなかった。僕が納得していなかったからです。妥協せずに再編集することにしました。



ただ、もうこれ以上はしんどい。ほんとうに身体が動かない。それで、新しい編集者を探すことになって、フランス在住の映画編集者の渡辺純子さんを紹介してもらいました。ずいぶんディスカッションしていく中で、今のかたちになりました。



――どんなことに力点を置いたか?



真実を伝えるということです。ドキュメンタリー作家の森達也さんはよく「ドキュメンタリーは嘘をつく」と言います。もちろん間違っていません。一方で、僕にとっては、映画を観た人が、撮影時の僕と同じ感覚を得られるならば、それは「真実」だと思うんです。



だから、「これだ!」と思えるものを模索しましたよ。旅を終えて残念だと思うような感覚、なんだったんだろうなという感覚、良い時間もあったなあという感覚・・・そういうものが得られるようにしたい。そういう意味での「真実」です。



――荒木氏に期待するものはあったか?



映画としては、彼が改心するという「ラスト」にしたかった。よく冗談で言ってましたよ。「荒木さんがアレフをやめてくれたら素晴らしい映画になるよ。オレは命をかけて撮影しているんだから、映画のためにやめてくれないか」って。無視されましたけど(笑)。



逆に、荒木への誠実な向き合い方だったと思います。監督としても、一種の圧力をかけながら、荒木の反応・表情を出させていく必要があります。そして、容赦なく、その様子をカメラに収めていく。観る人も、彼がもがくところに「真実」を見出してくれると思いますよ。





――荒木氏とはその後どうなったのか?



再編集に入っていた2016年3月20日に会いました。そのときもカメラを回しましたが、結局使いませんでしたね。(麻原彰晃の)死刑前のクリスマス・イブ、京都で死刑反対集会が開かれて、そこでもばったり会いました。



今から2~3週間前も、電話をかけたらつながって、びっくりしたことがありましたけど。こちらの声が聞こえなかったようで、そのまま切れました。あとでかけ直しましたが、つながりませんでした。それからは連絡していません。



――彼にも映画を観てほしいか?



もちろん。京大文学部で(画家の)カンディンスキーの研究をしていた人です。美しく映りたいのか、撮影中、途中から、カメラを意識したように見える瞬間もありました。ぜひ観てほしい。(撮影の旅は)強烈な経験になったと思うし、(映画を観ることで)鏡のように自分を見つめ直してほしい。



●夢があったから生きてこられた

――今後どういう活動をしていくか?



映画の完成によって、やっと人生の再構築ができた気がしています。



米作家のJ・D・サリンジャーは、『ライ麦畑でつかまえて』を書いたあと、表舞台から消えましたが、僕も、東南アジアなんかに行って、一日中スコールを見ながら、ボーっと過ごしたいです。映画をつくるのは、しんどかったからね。



でも、やっぱり、これからも映画をつくっていきたいです。次の企画もすすんでいます。僕の著書『小さくても勝てます』の映画化で、サリンを吸わなかった、もう1人のさかはらあつしの話です。どこまで体力がつづくかわからないけれど。



――後遺症については訴えていかないのか?



もちろん、その気持ちはありますが、正直もうしんどいというのもありますよ。あまり思い出したくはないです。だけど、ほかにもサリンを吸って苦しんでいる人を知っています。そういう人がちゃんと救われることが必要です。できれば、一回訴えるだけで伝わってほしいけども。



――映画を観た人にはどういうことを考えてもらいたいか?



かつて、僕も荒木も同じように、たくさんの選択肢がありました。ところが、だんだんそれがなくなっていった。人生とは、生きるということは、そういうことです。そして、ちょっとした油断でころころと転げ落ちます。



荒木の落ちていくさまをうまく描けたかどうかわかりませんが、もし、そういう友だちがいたら、本気で向き合ってあげてほしい。逆に、自分が落ちていくときに、殴ってでも止めてくる友だちが現れたら、その人の話を真面目に聞いてほしいと思います。



作品から少しはなれますが、僕が19歳のとき、「アカデミー賞をとる」と約束した友だちが自殺しました。それから35年間、僕は夢を追いかけてきたわけです。映画監督にもなれました。サリンを吸わされて、苦しみましたが、夢があったから生きてこられました。



世の中には、サリンじゃなくても、ひどい目に合う人がいますが、困難を乗り越えるとき、夢は心の大きな支えになります。この映画は、そんな僕が格闘してつくりました。あとはオスカー(アカデミー賞)がとれるといいですね。亡くなった友だちも見守ってくれているんじゃないかと思っています。



●『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』公式サイト
https://www.aganai.net/



米アカデミー賞の前哨戦といわれる「国際ドキュメンタリー協会」(IDA)長編ドキュメンタリー賞ショートリストに選ばれた。2021年3月20日(土)より、シアター・イメージフォーラム(東京・渋谷)ほか全国で順次公開される。



シアター・イメージフォーラムでは20日、21日、22日、12:30の回上映後、さかはらあつし監督のトークイベントを実施する。
http://www.imageforum.co.jp/theatre/



●さかはらあつし監督プロフィール
1966年、京都府生まれ。浪人時代に予備校の同級生が自殺。「京都大学で学び、MBAをアメリカで取得し、アカデミー賞を取る」という、自殺した友人との約束を果たすため、4年の浪人の末、京都大学経済学部入学。卒業後に電通に入社。1995年3月20日、地下鉄サリン事件に遭遇し被害者となり、後遺症を患う。事件後、電通を退社。1996年渡米し、2000年、カリフォルニア大学バークレー校でMBA取得。2001年、カンヌ国際映画祭短編部門でアソシエート・プロデューサーとして参加した短編映画『おはぎ』(監督:デヴィッド・グリーンスパン)がパル ム・ドール受賞。帰国後、結婚、離婚を経験。2010年「サリンとおはぎ 扉は開くまで叩き続けろ」(講談社)出版。2012年、四国遍路の撮影を一年単独で行い映画の撮影を独学。2015年に『AGANAI 地下鉄サリン事件』撮影開始。