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かつて客室乗務員は「30歳定年」だった 下着の色も指定、差別と戦った女性たち

2021年03月15日 10:31  弁護士ドットコム

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華やかなキャビンアテンダント(CA/客室乗務員)の世界。しかし、かつて“スチュワーデス”と呼ばれた女性たちは、「結婚したら退職」「30歳で定年」という条件下で働いていた。1970年代のことである。


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今の私たちが「そんなのありえない」と思えるのは、当時の女性たちが差別と戦ってきたからだ。



どのようにして、女性が働く権利を勝ち取ってきたのか。JALの元客室乗務員で、日本航空客室乗務員組合の執行委員長も務めた内田妙子氏に聞いた。(ライター・梶塚美帆)



●30歳を超えると「延長願い」を1年ごとに提出

まずは簡単に、1960~70年代のJALの労働組合について振り返ってみよう。



日本航空客室乗務員組合(キャビンクルーユニオン、以後CCU)ができたのは1965年。当時は、「スチュワーデスは30歳が定年」「結婚・妊娠したら乗務はできない」という決まりがあった。組合はこれらの決まりを撤廃するよう、会社に働きかけ続けた。



そして、1974年には結婚後の乗務が可能になり、1977年には定年の年齢が30歳から40歳に引き上げられた。1979年には60歳まで乗務が可能になり、さらに妊娠退職制度も撤廃された。





内田氏は、1974年にJALに入社し、1975年から組合の活動に参加して権利拡大のため戦ってきた。その後、2010年にJALがパイロットや客室乗務員を整理解雇するまで勤め上げた。今も「JAL不当解雇撤回原告団」の客室乗務員団長として戦い続けている。



そもそもなぜ、当時は30歳定年制度があり、結婚後の乗務が認められていなかったのだろうか。




「70年代前半は、働く女性は“腰掛け程度”と言われていた時代でした。結婚したら辞めていく人がほとんどです。



30歳になった後も働きたい人は、延長願いを1年ごとに提出する必要があったのですが、それを提出するのはほんの数名だけ。



ですから、『結婚するか30歳になったら辞めるものだ』というのが当たり前になっていて、辞めていく人が多かったんです」




●乗客のほとんどが男性 下着の色も指定

さらに内田氏は、「この頃の客室乗務員は、女性としてもてなすことも仕事だった」と振り返る。




「JALでは1974年に結婚退職制度が撤廃になったものの、他社はさらに遅れての撤廃でした。日本エアシステム(現在日本航空)では機内では結婚指輪をしてはいけないと言われていました。つまり、独身に見えるようにするということです。



JALの制服は、膝上10cmぐらいの丈が短いワンピース。頭上の荷物棚を開けるときに背伸びをすると、スカートが上にあがってもっと足が見えてしまう。



加えて、当時のジャンボジェットのファーストクラスには螺旋階段で上がる2階席がありました。螺旋階段を上るときに下着が見えてしまいます。下着は黒か紺色と指定がありました。



また、当時のJALのポスターには、着物の客室乗務員が写っていました。狭い化粧室で着替えをしていたこともありました。そのための着付けの訓練もしていたんですよ。お客様の背広のボタン部分をお直ししているシーンもポスターにありましたね」




これらもサービスのうちだと暗黙の了解になっているということは、当時の乗客は男性が多かったのだろうか。




「圧倒的に男性が多かった。女性は、グループ旅行に混ざっている方か、ご夫妻か芸能関係者の方とか。ファーストクラスは役職に就かれているような男性が中心で、エコノミークラスもビジネスマンが中心でした」




内田氏は「乗客に男性が多いとしても、今では考えられないことですよね」と話す。



●男性ばかりの労組幹部に訴え続ける

そこから、内田氏が所属するCCUは、制度を変えるようにと会社に働きかけていく。時にはストライキ権をかけて、会社へ要求を出していった。



当時、組合に所属しているのは女性の方が多かったが、1974年当時の執行委員は16人で女性は3人だったそうだ。




「男性はもちろん、女性でも『子どもを産んでから乗務なんかできるの? 無理なんじゃない?』と考える人もいました。でも、もっと働きたい女性が声を上げることで、その考えは変わっていきました」




このように組合内で話し合いをしながら、会社と交渉を続けた。そして若年定年制や結婚妊娠制度を撤廃していったのだった。



●「仕事が好きだから」が原動力に

1970年代後半の短い間に、ここまで権利を広げることができたのはなぜなのだろうか。内田氏はこう分析する。




「まず、社会の追い風があったと思います。商社や銀行など他の大企業でも、若年定年制や結婚退職制の撤廃を求めていて、社会全体としての大きな動きがありました。1975年は国連が国際婦人年として定めた年でもあります。



そういった背景もあったため、私たちは諦めずに続けられました。労働組合としてまとまって会社に要求を出せば、権利を獲得できるという自信もついていきます。要求へのこだわりを持ち続けて、諦めなかったことが、権利を獲得できた大きな理由だと思います」




そして何より、仕事に対しても強いやりがいを感じていたからこそ頑張れた。




「やはり、仕事が好きだからやれたと思います。先輩にも後輩にも素晴らしい人がいて、仕事のことだけでなく生き方についてもたくさん教わりました。そういう人たちと仕事をする楽しさは、人生の大きな財産になりましたし、魅力的な職場でした。



また、整備士やパイロットなどの他の職種の方と関わりを持つことで、自分の仕事の重要性を改めて感じることができ、やりがいを感じていました。



乗客の方とは一期一会ですが、感謝の言葉をいただいた時には、『無事に到着できて、皆様を笑顔でお見送りできてよかった』と思います。この仕事の喜びを感じる瞬間ですね」




こうした労働者たちの粘り強いアクションが男女雇用機会均等法(1986年施行)にもつながっていた。



●声をあげてきた女性も整理解雇の対象に

会社としては、声をあげる組合は疎ましい。時には組合の切り崩しなども行なわれたが、CCUはその都度、耐えてきた。



しかし、2010年の経営破綻を受けて行われた整理解雇では、対象になった約80人の客室乗務員のうち9割がCCUに残った人たちだった。権利獲得のため戦ってきた女性たちが年齢や病歴などを理由に排除されてしまったのだ。



内田氏はこれを不当解雇だと主張し、今もJAL不当解雇撤回原告団の客室乗務員団長として会社と交渉を続けている。





●「諦めずに一歩ずつ前へ進んでいくことが環境を変える」

内田氏は、明治大学で仕事上の権利の大切さを教えるゲスト講師として年1回の講義を6年間行なってきた。受講者は20歳前後の男女約80名。労働組合の大切さや、法律を知ることの必要性が分かったという感想がとても多いという。



最後に、これから就職するのに不安を抱える人や、会社で理不尽な思いをしている人たちにメッセージを送ってもらった。




「今は非正規社員も増えて、労働組合について知らない人もいると思います。でも、一人でも入れる組合やセンターが全国にたくさんあります。もし今、自分の権利が弱いと感じるなら、まずはそういったところに相談してみるのが一歩だと思います。



そして、アドバイスを受けてできることからやっていく。諦めずに一歩ずつ前へ進んでいくことが、自分の環境を変えることに繋がる。私は自分の経験から、そんな風に思っています」