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芥川賞候補5作に共通した「テーマ」とは? 円堂都司昭が読み解く、文芸の現在地

2021年02月02日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

芥川賞候補作品に共通したある「テーマ」

 第164回芥川賞は、宇佐見りん『推し、燃ゆ』に決定した。順当な結果だと思う。同作を含め候補作のうち、乗代雄介『旅する練習』、木崎みつ子『コンジュジ』、尾崎世界観『母影』の4作がすでに書籍化されたのに続き、砂川文次『小隊』は2月12日に単行本が発売予定となっている。今回の5作は、相互に共通した要素がみられ、同時に候補になったのは興味深かった。雑誌掲載時ではなく受賞作決定後に本で読む人のほうが多いだろうが、候補作にも手をのばし読み比べればいっそう楽しめるだろう。


 まず、対照的なみかけをもっているのが、砂川文次『小隊』と乗代雄介『旅する練習』である。『小隊』では北海道の釧路周辺で行われるロシア軍との戦闘を、自衛隊の小隊を率いる安達の視点から描く。元自衛官の作者の書きぶりには、現代の地上戦のリアルとはこういうものかと信じさせる迫力がある。一方、『旅する練習』は小説家の「私」が、中学受験を終えたばかりの姪・亜美(あび)と我孫子から鹿島まで歩いて旅する話。「私」はいくつもの風景を文章でスケッチし、サッカーに打ちこむ亜美はドリブルやリフティングを繰り返す「歩く、書く、蹴る」の道中である。


 緊迫した戦場とのんきな2人旅では正反対のようだが、2作とも日常と危険が隣りあわせであることを主題にしており、どちらの面に重点をおくかの違いだ。『小隊』において戦場にむかう隊員が知りたい外の情報は、政府の外交筋がどうこうではなくファイターズの試合とかだし、戦場から帰還する車でラジオをつけると普通に放送していた。とはいえ、住宅地にまで戦禍はおよんでいる。安達たちは戦闘前に避難誘導のため近隣住民を訪問したが、仕事、金、子どもをどうするのかと反問する態度で応じなかったシングルマザーは、逃げられなかったと示唆される。そうして戦時の不条理と過酷さが印象づけられる。


 これに対し、『旅する練習』の舞台は、日本でも新型コロナウイルスの不安が高まり始めた頃と設定され、旅の終了直後に緊急事態宣言が発令されたとされる。利根川沿いを行く道程では、亜美がカワウの死骸をみつける不吉な場面があり、物語は最後に急転する。作中では、小説家らしく「私」が、田山花袋、柳田國男など文学史に名を残す人たちに思いをめぐらせ、亜美がサッカー好きゆえにジーコなど鹿島アントラーズの話題も多い。たまたま出会った女子大学生と旅をともにする以外、特にドラマチックな出来事はない。だから、読む途中でやや冗漫さを覚えなくもない。


 ところが、ラストの急転により、それまでのどうということのない日々がかけがえのないものだったと思い知らされ、すべてが愛おしくなるのだ。文学史やアントラーズの過去のエピソードへの言及も、世界の時の積み重なりを感じさせるものとして効いている。


 『旅する練習』では小6の姪が登場したのに対し、尾崎世界観『母影』では小学校低学年の女子が主人公となる。その母親の仕事場であるマッサージ店に娘の「私」もいることが多い。隣のベッドからカーテン越しに母の働きぶりに接しているけれど、まだ幼い「私」はなにが行われているか、よく理解していない。だが、教室では「変タイマッサージ」とからかわれ、いじめられるし、なにか恥ずかしいことをしているとは察している。


 クラスメイトのなかでも「お前、死ねです」などといいながら特につっかかってくる男子がいる。「私」は母と一緒に行った銭湯で、その彼がやはり母親に連れられ女湯に入っているのに出くわす。お腹の下にあるものを両足の間にはさみこんでいたのを目撃してしまう。後にその男子とペアになって作文を書くように先生からいわれ、なりゆきで彼の家に行くが、男子と仲良くなるまでにはならない。彼は壁を作ったままだ。


 母は客の体に直接触ってなにかしているが、カーテンの影を見るだけの「私」には本当はどうしているのかわからない。「私」は男子の裸を見たうえ、彼の家に上がりこんでおかあさんやおじいちゃんとも接したものの、彼との壁はなくならない。この距離感の描写が絶妙。「私」の相手に近づきたい思いと、年齢ゆえの勘違いや思いこみがごっちゃになって、妙なやりとりになる。それが面白哀しい。


 作者の尾崎世界観は、クリープハイプで作詞作曲、ボーカル、ギターをつとめるバンドマンだが、木崎みつ子『コンジュジ』では架空のロックスターが設定され、彼に憧れる少女が大人になり変化していく様子を追う。主人公せれなは、母親が逃げ、続いて家にきたブラジル人女性も出ていって以後、父から性的虐待を受ける。同時に彼女は、イギリスのThe Cupsのボーカリスト、リアンと恋愛関係になる妄想を生きていく。同作は、父との悲惨な生活、リアンとの甘い夢、リアンの伝記というリアリティの異なる三層を行き来しながら進む。


 その物語の構造は、今回の受賞作である宇佐見りん『推し、燃ゆ』と近しい。高校生のあかりは、男女混成アイドルグループ・まざま座の上野真幸を推しており、彼に関するブログを更新している。彼女はアルバイトだけでなく、日常生活を人並みにこなせない。あかりは病気と診断されているそうだが、中退後は親から就活するようにいわれ、亡き祖母の家で一人暮らしすることになる。だが、熱中する推しは、ファンを殴り炎上騒動を起こした後、グループが解散にむかってしまう。


 同作で個人的にツボだったのは、あかりが上野真幸のファンになった最初が、12歳でピーターパンを演じた映像であり、成長した彼が自分で作詞したソロ曲が「ウンディーネの二枚舌」と題されていたこと。作者はソロ曲の歌詞全体の内容やウンディーネについての説明を書いていない。だが、ピーターパンが異世界のネバーランドに住む永遠の少年であり、ウンディーネが人間に恋する水の精であることを踏まえると、それらへの言及が上野真幸の変化を暗示していたとわかる。かつてファンタジーを生きていたアイドルは、妖精の二枚舌を指摘するような現実的な人間へと変わっていったのだ。推しが普通の人になってしまうことにあかりは動揺する。


 幸せではない日常と心の支えである推し。その図式を『コンジュジ』と『推し、燃ゆ』は共有しているが、推しの位置づけは違う。『コンジュジ』でせれなが1993年に11歳でリアンを知った時、彼はすでにこの世を去っていた。1970年代に活躍したThe Cupsのリアンは、1983年に32歳で死んでいたのだ。伝説のボーカリストとして有名な存在だが、せれなは図書室でリアンの評伝を級友に隠して読んでいた。上半身裸の写真が表紙に使われていたからである。彼女にとってリアンへの愛は密かなものであり、だから父がそこに踏みこんできた際には激しく混乱する。


 一方、『推し、燃ゆ』のあかりは、「推しを解釈してブログに残す」ことをしている。推しの炎上をめぐりネットで戸惑い、嘆き、怒りの声があがるなか、上野真幸のファンたちにそれなりに読まれている彼女の文章は、意外に冷静なものだ。日常生活では覚束ないが、彼女はネット上のファンの1人としては社会性をもったふるまいをしているようにみえる。あかりというキャラクターのこの不思議なバランスが、巧みに書かれている。推しの存在がサバイバル術になっていることが共通していても、自分だけの世界を作るせれなとファンの社会を認識しているあかりは、対照的だ。


 今回の芥川賞候補5作を読んで気づくのは、作中でなんらかの状況の圧や不条理がふりかかる対象として、少女を焦点化した作品が多かったことだ。女性作家が同性を主人公にした『推し、燃ゆ』、『コンジュジ』だけでなく男性作家による『母影』、『旅する練習』もそうだ。また、『小隊』では焦点化していないが、避難誘導に応じず戦禍に巻きこまれたシングルマザーの子に関して、自衛隊員訪問時に「リビングで昼寝をしている娘を女手一つで育てている」と、さらっと書きこまれていた。


 『推し、燃ゆ』には「携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う」という印象的な一節があった。それに対し、『コンジュジ』では、現在と過去にへだたりがあるから安心して妄想を育てられたところがある。せれなが後に評伝を読み進め、リアンの過去の時間経過を知ることで妄想は揺らぐ。


 バンドのフロントマンとしてステージと客席の関係を意識せざるをえない立場の尾崎世界観は、『母影』という小説を書くにあたってカーテン越しの母というへだたりをポイントにした。『小隊』、『旅する練習』は、日常と危険のへだたりが壊れる物語だった。


 今回の芥川賞候補5作からは、へだたりが現在の共通テーマになっていることがうかがえたのだった。


■円堂都司昭
文芸・音楽評論家。著書に『ディストピア・フィクション論』(作品社)、『意味も知らずにプログレを語るなかれ』(リットーミュージック)、『戦後サブカル年代記』(青土社)など。