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元ニートの登山家・栗城史多はなぜ無謀な挑戦を止められなかったのか? 「冒険の共有」という言葉の代償

2021年01月31日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

栗城史多はなぜ無謀な挑戦を止められなかったのか?

 第18回開高健ノンフィクション賞を受賞した『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』は、2018年5月に8回目のエベレスト登頂の挑戦中に滑落死した故栗城史多をテレビディレクターである著者が追ったノンフィクションだ。


関連:【画像】『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』


 「冒険の共有」を掲げ、「元ニートの登山家」「単独無酸素」といった言葉でエベレスト登頂を続けた“登山家”。インターネットを通じて高所登山を現地から配信していた彼をご存知の方も多いだろう。彼の活動は有名になればなるほど批判の声も強くなっていった。“単独無酸素 七大陸最高峰登頂”を掲げた彼がなぜ批判や行き過ぎた「誹謗中傷」まで浴びるようになったのか。


 リアルタイムで彼の挑戦を知っていたものの、登山専門誌などで取り上げられることはほとんどなかったために登山界から距離を置いている人だと思っていた。またインターネットから得られる情報から「単独」、「無酸素」といった彼が掲げていた看板も眉唾であろうとも感じていた。そして泣きながら登山をする様子や、登山家特有のストイックさを感じられない無邪気な彼の雰囲気を見て、これは「周囲の悪い大人たちにそそのかされているのだろう」と勝手に同情をしていた。しかしそんな彼のイメージも本書でガラリと変わってしまった。正直なところ、彼も含めてその周囲を取り巻いていたグロテスクな様相に暗澹たる気持ちになったのが本書の感想だ。


〈山を劇場に変えたエンターテイナー。不況のさなかに億を超える遠征資金を集めるビジネスマンでもあった。しかし彼がセールスした商品は、彼自身だった。その商品には、若干の瑕疵があり、誇大広告を伴い、残酷なまでの賞味期限があった。(p.8)〉


 栗城史多を“登山家”と素直に呼ぶには些か躊躇してしまうことになるだろう。彼独学の栄養学では“重たい筋肉は登山家にとって妨げにしかならないので肉は食べない”と言うものの、実際は疲労回復に効果的なビタミンB1を豊富に含む肉(豚肉)はむしろ最適な食材だという。またトレーニングにおいて加圧トレーニングを行っているが、テレビで藤原紀香がやっていたのを見たからだという。これを愛嬌と見るか浅はかと見るかは人それぞれであるものの、やはり登山、しかもエベレスト登頂を「単独」「無酸素」で登ろうとする人物像としては首をかしげてしまう。


 中でも印象的だったのはマナスル登頂についてだ。彼はマナスル登頂を果たしたが、自身の口からその頂上が「認定ピークだ」という言葉が出る。つまり本当の頂上は別にあるのだが、この地点でも「頂上と言っていい」ということなのだが、本書で明かされるこのエピソードで彼の登山に対しての考え方が残酷なほどに明かにされている。


 また「無酸素」「単独」という看板がどれほどの難度なのか、支援や応援していた人たちが理解していたのかにも疑問が残る。登山という行為自体があまりに日常とかけ離れた行為であるため、その知識が一般には知られていない。エベレストでの彼の登山が登山界の常識から見れば「単独」「無酸素」に当てはまらないのは明白であるにもかかわらず、栗城史多自身や関係メディアは登山を知らないファンに向けていわゆるキャッチーな看板として掲げ続けていたにすぎない。某テレビディレクターが彼を「元ニートの登山家」として売り出したように(実際はニートではない)。


 「冒険の共有」を謳って登山の様子や登頂シーンの中継を目玉としていた彼は、実に8回もエベレストに挑戦し、その全てが失敗に終わった。「無酸素」「単独」や「否定という壁への挑戦」という言葉を掲げてしまったことによって自分を縛ったために、酸素を使用しサポート付きで初登頂することさえ事実上「不可能」になってしまった。そして未登頂のまま、より難度の高い(本人にとってではなく、登山界としての)ルートを挑戦するしかなくなった。つまり現実的に登頂が不可能であるならば、もはや挑戦する姿だけを支援者や視聴者に見せることが目的となっていたのではないか。


 彼が掲げた「冒険の共有」によって、彼が目を向けるべき対象が山から「共有者」へとすり変わり、山に登るという意味自体が彼の中で変わってしまったのではないだろうか。結果、彼はエベレスト挑戦中に命を落としてしまった。


 現在はクラウドファンディングなど支援者を募る仕組みが一般的になり、個人でも支援することが気軽になった。しかし支援するということは金額に関わらず挑戦する人間に責任を負わせることでもあると感じる。


 日本を代表する冒険家、植村直己でさえスポンサーや支援者がいたことによって、挑戦する冒険のハードルは上がっていった(冬期のマッキンリーにて遭難)。また探検家であり作家の角幡唯介はそうした支援者のプレッシャーを避けるため、カナダ北極圏1600Kmを徒歩踏破した著書『極夜行』の中で費用は自費であると書いている。


 本書では彼のこれまでの挑戦とその結果、そして数々の疑惑について公開されていない映像などからその真実を明るみにしているが、そこまでして山に登るパフォーマンスを繰り返すことで彼は何者になりたかったのだろうか。栗城史多という人物を通して、自己実現や承認欲求といった心の隙間に入り込んでくる「夢」や「挑戦」といった心地よい言葉の危うさについても考えさせる一冊だ。


(文=すずきたけし)