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西條奈加『心淋し川』が激戦の直木賞を制した理由は? 細谷正充が作品の魅力を紐解く

2021年01月29日 17:02  リアルサウンド

リアルサウンド

西條奈加『心淋し川』(集英社)

 第164回直木賞は、ノミネート作品が決まった時点で、大きな話題となった。理由は、加藤シゲアキの『オルタネート』だ。周知のように加藤シゲアキは、男性アイドルグループ・NEWSのメンバーとして活躍している。その一方で作家活動も続けており、青春小説『オルタネート』で、直木賞にノミネートされたのである。この発表があった後、あちこちのニュースになったので、ご存じの人も多いだろう。


関連:加藤シゲアキ、作家としての実力示した『オルタネート』がランクイン 文芸書ランキング


 その他にも、今回の直木賞は話題があった。この点を説明するために、ノミネート作品を見て見てみよう。


芦沢央『汚れた手をそこで拭かない』(文藝春秋)
伊与原新『八月の銀の月』(新潮社)
加藤シゲアキ『オルタネート』(新潮社)
西條奈加『心淋し川』(集英社)
坂上泉『インビジブル』(文藝春秋)
長浦京『アンダードッグス』(KADOKAWA)


 うん、この作家と作品のセレクトは興味深い。まず作家だが、6人すべてが直木賞初ノミネートである。さらに作品の傾向がバラバラ。青春小説から時代小説まで、ジャンルは多彩だ。ミステリーが複数あるが、物語のタイプは違っている。よくぞこれだけバラエティ豊かに並べたものである。おそらくこれは、近年の直木賞の方向性を反映したものであろう。


 日本の文学賞でもっとも有名なものは、芥川賞・直木賞だ。芥川賞が純文学、直木賞が大衆小説を対象としている。受賞が決定するとすぐにニュースになり、受賞した本は帯が付け替えられ、書店に平積みされる。この受賞を切っかけにして飛躍した作家も少なくない。


 そんな直木賞だが、昔は話題になるのが、受賞が決定してからだった。しかし近年は、ノミネート作品が発表された時点で話題になるようになった。ネット時代になり、情報の拡散力がけた違いになった結果であろう。また、長引く出版不況により、主催側や出版社が、話題の長期化を歓迎しているのかもしれない。多分に私の想像が入っているが、このような状況を踏まえ、今回のノミネート作品が決められたと思っているのである。


 ただ誤解しないで欲しいのは、単なる話題性だけで選ばれたわけではないことだ。読めば分かるが、どの作品も実に面白い。よくぞこれだけの作品を揃えたと、感心してしまったほどだ。それだけに予想はお手上げ。いったい誰が受賞するのかとワクワクしていたら、西條奈加の『心淋し川』に決定したのである。


 この作品は連作短篇集であり、「心淋し川」から「灰の男」まで、六作が収録されている。物語の舞台は、江戸は千駄木町の近くにある心町(うらまち)。小さな川が流れていて、その両側に立ち腐れたような長屋が四つ五つ固まっている、人生の吹き溜まりのような場所だ。しかし、そんな所でも人は、懸命に生きている。作者は、そんな人々の人生を見つめている。


 冒頭の「心淋し川」の主人公は、19歳のちほ。父親は酒好きで仕事が長続きせず、一緒に針仕事をしている母親は、愚痴を零しまくっている。かつて姉がいたが、鮨売りをしていた男の女房になり家を出た。どん詰まりで燻るような日々に不満を抱いているちほ。だが、針仕事の出入り先で知り合った男と、付き合うようになる。男と一緒になって、家を出ることを夢見るのだが……。


 ストーリーは、ちほの心の動きを丹念に追いながら、ある理由から男との恋が終わるまでが描かれている。その瞬間の文章が秀逸。“焦れたり浮ついたりと忙しかったものに、すとんと収まりがついて、大人しくなった。収まったのは、恋心か――”と書いてあるのだ。ここで使われている“大人しくなった”という文章に留意したい。もちろん意味は違う。だが、ひとつの恋が終わったことで、ちほが大人になったことを、読者に印象づけるのだ。言葉ひとつにしろ、ここまで考え抜いてセレクトし、人の心を鮮やかに表現しているのである。


 以後、旦那に死なれた妾が、意外な生き甲斐で次の人生に向かう「閨仏」、飯屋の主人と少女の交誼が小さな幸せに繋がっていく「はじめましょ」など、どれも読みごたえあり。そしてラストの「灰の男」では、各話の主人公たちのその後に触れながら、心町の差配をしている茂十の抱えていた秘密が明らかになる。この話、西條版「恩讐の彼方に」というべきか。作者の人間に対する眼差しが、優しいだけでなく、厳しいものも含んでいることが、強く伝わってくる。連作短篇集であるが、作品の読後感は、重厚な長篇のそれと変わらない。なるほど激戦を制して、直木賞を受賞したのも納得の名作である。


(文=細谷正充)