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人気漫画家からもリスペクトの嵐 田島列島『水は海に向かって流れる』が描く、繊細な人間関係

2021年01月25日 19:21  リアルサウンド

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 田島列島の生み出す作品が楽しみで仕方ない。


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 登場人物さえハッとするような感情の変化を見逃さず、その優しくも鋭い視線で、家族の不倫、トランスジェンダー、新興宗教……など、一見触れにくい題材を描いていく。複雑で、現実的で、シビアで、繊細で、その読み応えは小説にも近い。だが、フワッとした絵柄と随所に感じるギャグセンスによって、読んでいるときの肌触りは、軽やかで、なめらかで、温か。そんな絶妙なバランスが、田島列島作品の最大の魅力だ。


 現在連載中の作品『水は海に向かって流れる』1巻の帯には、多くの人気漫画家からの絶賛の声が寄せられている。「大人の絵本のようで……そんな作風に私は密かに憧れる」(一色まこと)、「私にないものを全部持ってるんですよ。すごいんですよ。嫉妬してますよ。正直」(山下和美)、「キャラクターの思考や言葉の柔らかさにすごく憧れます」(高野ひと深)など、その絶妙なバランス感覚にジェラシーにも近いリスペクトの嵐だ。


 ありそうでなさそうで、でも“もしかしたらあるのかも“と思わせる設定。そして、魅力的なキャラクターたちが織りなす小粋な会話劇に、「どうしたらこんな物語が作れるのか」と誰もが興味をそそられる。しかも、田島列島の経歴もまた好奇心を刺激されるのだ。


 2014年に初の長編『子供はわかってあげない』を発表すると、いきなり『この漫画がすごい!2015』をはじめ様々なマンガ賞にランクイン。だが、それ以降まったく作品を発表せず、担当編集とも音信不通に。すると4年後、突然『別冊少年マガジン』に1本の読み切りを掲載。そして、待望の『水は海に向かって流れる』の連載がスタートした。


 『水は海に向かって流れる』は、高校進学を機に叔父の家に居候することになった直達(なおたつ)を主人公に繰り広げられる、ラブコメっぽくもある家族の物語。叔父が迎えにくるはずだった駅には、見知らぬ26歳のOL・榊が。実は、叔父は家族に内緒で漫画家に転職しており、自宅は榊をはじめ、女装の占い師、陽気な大学教授らが暮らすシェアハウスになっていた。しかも榊は、直達の父が不倫した相手の娘で……と、あらすじだけを見ても、入り組んだ人間関係に「こんな設定をどうやって」と、ムズムズしてくる。


 一般的に連載作品は、編集との打ち合わせ→ネーム→下絵→原稿を繰り返していく。だが、『子供はわかってあげない』では全20話のネームを仕上げてからの連載スタートという異例の描き方をした田島列島。それが、こだわりのスタイルなのかと思いきや、今回の『水は海に向かって流れる』では1話のネームを描いたときには、登場人物たちの関係性もまだ見えてない状態だったというから驚きだ。(参照:マンバ通信『水は海に向かって流れる』 田島列島インタビュー)


 なぜ1話目で、直達と榊との間に居心地のよくない空気が流れているのか。田島列島自身もわからないまま、2話目、3話目と描き進め「ふたりの間に秘密があるのかなと考えていたら、駅の階段を昇っている時に“わかった“んですね。思いついたというよりも“わかった“んですね」とも。キャラクターが物語を“持ってくる“のだ、と振り返る。


 そんな作家らしい名言が飛び出したかと思えば、1話ずつのネームにしたのは「お金が全然ないから、1話分でも貰えるならもらいたい」とシビアな話題も。絵柄に通じるフワッとした部分と、現実への生きにくさにもがく部分とが、共存しているようなインタビューを読んで、時代を超えて愛される文豪たちのことを思い出した。作品に没頭するあまり人間関係を断ってしまったり、逆に人を愛さずにはいられなかったり、お金を無心するような生活になったり……そんな人間臭さと引き換えに名作が生まれてきたことを。


 田島列島の作品にも、そんな人間臭さが香るのだ。臭いものにフタをせず、シンプルにその臭さと向き合っていく。今はいろんなことがシステム化されて、波風立たないのが“正しい“と思い込んでしまうときがあるけれど、そうはいかないのが人生だ。


 大人になっても、結婚しても、親になっても、聖人君主のようになるわけではない。間違った方向に進んでしまったり、恋に落ちたり、傷つけたり傷ついたり、迷惑をかけたりかけられたり……その大きな波は、自分で起こさずともやってくることがある。


 人と生きるというのは、きっとそういうことの連続で、否が応でも面倒に巻き込まれるということなのだ。『子供はわかってあげない』も『水は海に向かって流れる』も「家族」というテーマが漂ってくるのは、家族=最小単位の社会であり、自分のルーツという逃れられないものだから。


 波風を立てず、温和に過ごそうとするあまり、自分の感情を見て見ぬふりをしてしまう人がいる。だが、許せないときには怒っていいし、苦しいときには誰かに背負ってもらっていい。荷を分かつことで気づくことがあるし、止まってしまった時計を動かすこともある。自分が何を思っていて、どうしたいのか。意外にも、私たちは自分のことを良くわかってない。だから、人を合わせ鏡にして知ろうとするのかもしれない。


「わがまますら言えない コドモのままじゃ 目の前のこの人が背負うモノを 半分も持つことも出来ない」


「知っててほしかった 怒りたかったこと 誰かが知っていてくれるだけで きっと 生きていけるんだろう」


 『水は海に向かって流れる』で、直達も榊を通して自分を理解していくのだが、その作業はそのまま読者と作品という関係性にも言えそうだ。何に心が震え、何に胸を熱くし、何に涙を流すのか。私たちは田島列島の描く作品を通して、自分について「思いついたというより“わかった“」という感覚になるのではないか。


 自分の感情を押し留め、主張をせずに受け入れようとしがちな現代人が背負っているモノを、そっと紐解いてくれる。だからこそ、田島列島の作品は多くの人を魅了してやまないのだろう。


(文=佐藤結衣)