2021年01月15日 08:01 リアルサウンド
ネット小説の女性向け作品から生まれ、拡大し続けている「悪役令嬢」というジャンルが、意外なところに飛び火した。『怪奇警察サイポリス』『機獣新世紀ZOIDS』『ツマヌダ格闘街』などの少年・青年漫画で知られる上山道郎の新作が、「悪役令嬢」ものだったのだ。タイトルは『悪役令嬢転生おじさん』である。
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上山道郎、いったいどうしたんだと思ったが、単行本第1巻の「あとがきまんが」に執筆の理由が描いてあった。直近の連載が2作続けて打ち切りになったことで危機感を覚え、現在の漫画界のトレンドを学ぶべく、興隆を極めている「異世界」ものの漫画を片っ端から読み漁る。そして「悪役令嬢」ものに出会い、面白い作品が多く嵌ってしまう。次はこんな感じのやつが読みたいと思いついた「悪役令嬢」ものの漫画を、自分で描いてネットにアップしたら人生最大のバズり。ここから、あれよあれよと商業誌での連載が決まったそうだ。まったく世の中、何が起こるか分からない。でも作品が面白いから問題なしである。
「悪役令嬢」もの概要は説明すると長くなるので、ここでは控える。興味のある人は検索してほしい。ただ大別すると、異世界生まれの現地人を主人公にした作品と、地球人が異世界に転生(もしくは憑依)した作品に分けることができる。本作は後者である。
魔法がある中世ヨーロッパ風の世界で生きていた公爵家の令嬢グレイス・オーヴェルヌ。ある日、落馬して頭を打った彼女は、別人の記憶を思い出す。現代の日本で公務員をしていた屯田林憲三郎(52歳)だ。車道に飛び出した子供を助けようとしてトラックに撥ねられた(らしい)彼は、気がついたらグレイスの身体になっていたのだ。しかもここは、憲三郎の娘がプレイしていた乙女ゲーム「マジカル学園ラブ&ピース」の世界で、グレイスは悪役令嬢ではないか。オタクである憲三郎は、異世界転生をすんなりと受け入れると、悪役令嬢の役割を果たそうとするのだった。
男性が異世界に転生したら女性だったという作品は、それなりにある。男性が中年という例も、ないわけではない。だが、そうした先行作品を知っていても、本作は楽しく読める。憲三郎が“ザ・一般人”だからだ。52歳でオタクというのは、今では普通のこと。長年にわたり公務員として真面目に働く。今のところ奥さんは出てこないが、娘との関係も問題なく、家庭生活も良好。特技もなく、ユニークな性格でもない。実に平々凡々な人間といっていい。グレイス=憲三郎になっても特殊能力は、社会人生活で身についた言動が、上流階級の淑女にふさわしい所作へ自動的に変換される「優雅変換」があるだけだ。
しかし、だからこそ面白い。王立魔法学園に入学したグレイス=憲三郎は、校門で転んだゲームのヒロインに、つい親目線で話しかけてしまう。これでヒロインのアンナ・ドールに慕われ、それまでのグレイスの高慢なイメージが変わっていく。さらにゲームの攻略対象である、ヴィルジール王太子殿下を始めとする生徒会の面々にも認められていくのだ。食堂・教室・自宅……。さまざまな場所で、普通の家庭を持っていた中年公務員の言動が、否応なくグレイスの評価を高める。これが可笑しくてたまらないのである。
さらにそれを表現する“絵”がいい。金髪縦ロールのゴージャスな令嬢グレイスの横に、バーコード頭で黒メガネの憲三郎がいる。まるで荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』のスタンド状態。この対比が笑いを誘うのだ。
また、「悪役令嬢」もの、「異世界転生」もののフォーマットを、きっちり守っている点にも注目したい。たとえば魔法の実技授業では、魔法陣に漢字を書き加えることで威力が高まる。これは「異世界転生」もので、使い倒されたアイデアだ。それを踏襲しながら漫画ならではのオチをつける。ベテラン漫画家の確かな手腕が感じられる部分だ。
もうひとつ書いておこう。グレイス=憲三郎は、公爵家お抱えの鍛冶屋に頼んで、そろばんを作ってもらうのだ。地球の道具を異世界で再現するというのも、この手の作品のパターンである。ただし作者は、それだけで終わらせない。
生徒会の予算チェックでそろばんを使いながら、数字が合わないときは「9で割る」という確認方法を披露するのだ。もちろんパソコンがなかったころの、憲三郎の経験があればこそである。このように憲三郎の存在を常に活用しているからこそ、独自の面白さが生まれているのである。
なお、そろばんが使用される第五話のタイトル「9で割る!」は、『釣りキチ三平』で知られる矢口高雄が、自身の銀行員時代を描いた漫画『9で割れ!』を意識したものであろう。こういうお遊びも愉快である。
物語はまだ始まったばかりであり、この先がどうなるかは分からない。だが、上山道郎なら大丈夫なはず。「悪役令嬢」もののフォーマットを守りながら、どこまで弾けてくれるのか、今後の展開を大いに期待しているのだ。
(文=細谷正充)