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九死に一生を得た「事故」きっかけで「困っている人を助けたい」 第一線を走り続ける神尾尊礼弁護士

2020年12月20日 08:41  弁護士ドットコム

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かつて、「誰かが困っているとき、助けられる人でありたい」と思った少年は今、弁護士として活躍している。


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その少年こと、神尾尊礼弁護士が交通事故に遭ったのは小学生のころだった。奇跡的に生きのびることができたものの、一時的に後遺症が残った。そのときに手を差し伸べ、支えてくれたのが、弁護士だったという。



その後、弁護士を目指して、司法試験に合格。大手法律事務所や法テラスを経て、裁判員裁判や社会的に注目を集めた刑事裁判などに関わった。現在はさいたま市内の法律事務所で働きながら、メディアでもさまざまな事件にコメントするなど幅広く活躍している。



しかし、社会的な弱者のためにあろうとする姿勢は、変わることはない。常に第一線を走り続ける神尾弁護士にインタビューした。(弁護士ドットコムニュース・猪谷千香)



●突然、車が背中から衝突…

最初に弁護士になろうと思ったのは、小学校低学年のころだった。



ある日、青信号の横断歩道を歩いていたら、交差点を曲がってきた車に背後から衝突された。衝撃で吹き飛ばされたが、運良く背負っていたランドセルにぶつかり、さらに道路に叩きつけられたときもランドセルがクッションとなり、九死に一生を得た。



「もし、ランドセルがなかったら、死んでいたと思います。生きのびることができてよかったのですが、後遺症がとてもしんどかったです」



安全なはずの青信号だったにもかかわらず、事故に遭ったことで、恐怖から道路や車に近づくことができなくなった。



「1年くらいは、横断歩道も渡るのが怖かったです。さらに数年は、助手席に乗ることができませんでした。今では大丈夫になっているのですが、当時は、はっきりとした怪我がなかっただけに、車を怖がる自分が余計不思議で怖かったです」



そんな中、話を聞いて励ましたり、支えてくれたのが、弁護士や警察の人たちだった。事故のショックから抜け出すことができたのは、そうした救いの手があったからという。



「あまり記憶にないのですが、後から、いろいろやってくれたのが弁護士さんだったと聞いて、漠然と『自分も弁護士になりたい』と考えるになりました。誰かに何かあったとき、助けられる人になりたいなと思ったのが、最初のきっかけですね」



●弁護士か検察官か

その後、神奈川県内でもトップクラスの進学校として知られる栄光学園に進学した神尾弁護士。大学を受験する際に進路に悩んだ。



「もともと理系でした。そちらのほうが成績がよかったので、学校の先生からはずっと理系で受験するように言われていて…。でも、弁護士や検察官の仕事に興味があったので、そのためには法学部を受験しなければならないと思って、文系に進みました」



2000年に東京大学文科1類に進学して法学部へ。2004年には東京大学法科大学院に一期生として入学した。そのころも、神尾弁護士は悩んでいた。



「ロースクールでは、周囲のみんなが弁護士志望だったので、私も弁護士を志望していました。でも、正直にいうと、検察官の仕事にも惹かれていました」



きっかけは、大学4年のときに受けた司法試験。論文試験で順調に回答できていたものの、最後の問題だった刑事訴訟法で「やらかしてしまった」という。



「まだ授業で扱っていない範囲が出題されました。まったく知らない問題が出て、『なんだこれは』と失敗に打ちひしがれて、刑事関係の授業を真面目に受けて勉強するようになりました。



そうしたらとても面白くて、検察官もいいなあと…。でも、ロースクールでは9割ぐらいがみんな大手事務所に入って企業法務をやるために勉強しているので、私も同じように勉強していました」



●法テラスや裁判員裁判の最前線へ

弁護士か、検察官か。心の中では逡巡していたものの、自分が決めていた軸にブレはなかった。



「弁護士だけでなく、検察官も被害者や正義のために働く職業ですので、自分にとってあまり違和感はありませんでした。



ロースクール時代も、社会保障法などの弱者を救済できるための法律を中心に授業を受けていました。どちらの道に進むかは、司法試験に受かって、司法修習に行ってから決めようと」



2006年、司法試験に合格。司法修習先での出会いが、神尾弁護士の背中を押すことになる。



「そのときの検察教官がすごく良い方で、私は検察官になる気満々だったんですけど、その教官の奥さまで、たまたま検察から法テラス(日本司法支援センター)に出向されていた方にお会いしたことが、決定的でした。



もともと、経済的弱者、社会的弱者を支援のために設置された法テラスが気になっていたのですが、制度が始まって1、2年目のころで、その奥さまから『新しい組織で裁判員裁判にも関わるよ』と言われて興味を覚えました。



検察教官からも『自分の道は自分で決めていいよ』と言われて、じゃあと弁護士になりました」



法テラスは2006年4月、裁判員裁判は2009年5月から、それぞれ始まった。いずれも、司法制度改革の要だ。弁護士になると同時に、その渦中へ自ら飛び込んでいった。



●森・濱田松本法律事務所で仕事を学ぶ

しかし、法テラスを志望したものの、まずは厳しい「修行」が待っていた。いわゆる「四大法律事務所」の一つに数えられる「森・濱田松本法律事務所」での研修である。法テラスで働くための即戦力として、1年間の養成期間が設けられていた。



「この養成期間で、受け入れてくれる事務所がいくつかある中、森・濱田松本法律事務所では1名採用されるとのことで、修行させてもらいました。



今後、法テラスで働くうえで、企業など比較的強い立場から事件に関わり、その論理も見てみたいと思ったからです」



この1年間は、とにかく貪欲に、がむしゃらに働いた。



「働き過ぎると呼び出しをくらって、『もう働いちゃダメだぞ』って言われるんですけど、『1年しかいないんで大丈夫です』とか言って、やらせてもらっていました。



あらゆる分野のトップの先生方に鍛えられたり、可愛がりを受けてたり(笑)、渉外法務や知財法務、大企業がクライアントの事件など、幅広くやりましたね。今も幅広く仕事をしていますが、あのときの経験が激しくいきていると思います」



森・濱田松本法律事務所で扱うことが少ない事件は、別の事務所に「里子」に出され学んだ。



「ほぼ休みの取れない日々でしたが、不思議と疲れませんでした。とにかく吸収したいものがたくさんあって…。私は法テラスでは三期生になるのですが、すぐに実力を示すことが求められていました。立ち上がったばかりの組織を潰すわけにはいかないと必死でした」



●刑事事件をやりたいと法テラス埼玉事務所へ

ついに2009年2月、法テラス埼玉事務所へ入所する。



「『刑事事件をやらせてくれ』と言ったら、埼玉に行けと言われました(笑)。埼玉は事件が多いので…。



ただ、最初はとにかくお金のない依頼者の民事事件が大量にありました。依頼者が経済的に困窮しているということだけでも処理が難しくなるのですが、全ての案件がそのような事件でした。法テラス埼玉は、基本的には資力がある方の事件をやってはいけないという縛りがありますので。



刑事事件は、一つ一つが裁判員裁判になるような大きい事件だったうえ、その合間にそうした大量の民事事件をこなさなければならないので、結構大変でしたね」



忙しく働く毎日だったが、2011年3月11日、東日本大震災が発生し、仕事にも変化が訪れる。



「当時、主に東北で被災した方々の避難先が、県内にありました。廃校になった高校に避難してもらったり、さいたまスーパーアリーナも使われました。私はそうした震避難所をめぐり、法律相談をしたりしました。法律相談というより、人生相談も多くありました。



弁護士になろうと思ったとき、困っている方たちを助けたいという思いからスタートしていたのですが、まさに目の前で震災が起きてしまった。当時は弁護士会についていくだけで必死でしたが、私は実働部隊となって動きました」



●離婚事件からDV問題に取り組む

法テラス埼玉事務所では、裁判員裁判も多かったという。立ち上がったばかりの制度で、何もかもが手探りの中、一つ一つ先例を積み上げていったという。



「検察官や裁判官と話しながら、法曹三者みんなでつくっているような感覚でした。誰も経験したことのない制度なので、一つ成果が上がるとすぐにほかの地域にも広まっていきました」



その結果、ほかには例のないほどの数の裁判員裁判を経験できた。やがて、3年の任期を経て退任。独立して自ら法律事務所を構えた。このときには、ほとんどが民事事件だったが、中でも注力していたのが、DV(ドメスティック・バイオレンス)の問題だ。



「もともと離婚事件をよく受けていたのですが、8割、9割が女性の依頼者で、DVが絡むことが多かったんです。それで、1年間ぐらいは集中して取り組んでいました」



弱者のために動く姿勢は、ここでも変わらなかった。



1人で7年間、実績を積み上げてきたが、あるとき、自分の事務所を閉じる決断をする。二人三脚で頼りにしていた事務員が家族の都合で退職することになったためだ。そこで、2019年7月、刑事事件をメインに扱っている現在の法律事務所に参画した。



●スクールロイヤーに手を挙げる

今、神尾弁護士は何に取り組んでいるのだろうか。



「私のメインは民事事件なのですが、ここ数年は学校問題や子どもの問題に取り組み始めました。埼玉県が初めて設置したスクールロイヤーも担当しています」



特に注力するようになったきっかけは、昨年担当したネグレクトによる児童虐待死事件だった。



「離婚事件は家庭内の問題を解決できますが、そこで止まってしまう。もっと広い視点で子どもを守りたいと思っていたところ、今年から埼玉県がスクールロイヤーの事業をスタートさせたので、手を挙げました。



基本的には、学校からの相談です。非常に難問が多いです」



今年は教師に対して、「いじめ」の防止や解消をするにはどうしたらよいのか、法的な視点からの研修もおこなっているという。



「ただ、学校側の意識はいじめ問題に偏りがちですが、たとえば、年配の先生が体罰したりとか、体罰でないにしても、度を過ぎた厳しい指導をしたりとか、教師の側にも問題は少なくない。そうしたところを改善していくのも、今後の課題だと思っています。



さらには、教員の労働環境のようなところまで目を配りたいのですが、スクールロイヤーの立場からは難しいです。個別に依頼を受けて対応しています」



●被害者の救済と加害者の弁護は対立しない

「とにかく、弱っている人側に立ちたい」という神尾弁護士だが、弁護士である以上、いつも被害者側に立っているとは限らない。被害者への救済と加害者の弁護という間で、いかに公平性を保っているのだろうか。



「なかなか難しいですね。ただ、裁判員裁判をやっていると、加害者側に全力で立つことは、必ずしも被害者の救済と矛盾はしないのかなって思います。



たとえば、性暴力の被害者に対して、被告人が『そんな格好しているから、襲われるんだ』みたいなことを言ったら、昔は袋叩きにあって、むしろ刑が重くなっていたわけです。



今は、被害者が悪いということはありえない、それは被告人の認知が歪んでいると、弁護人として伝えていくわけです。これは、被告人のためでもあり、被害者を傷つけることも意味しません。刑事事件は、単純な二項対立ではないと思っています」



加害者の真の更生は、被害者の救済につながる。神尾弁護士の言葉には、一線で活躍し続けてきた経験に裏打ちされている。



【神尾尊礼弁護士略歴】



2004年3月、東京大学法学部卒業後、東京大学法科大学院に入学。2006年3月、東京大学法科大学院卒業、同年12月に司法試験合格。2007年12月から森・濱田松本法律事務所入所、研修期間を経て、2009年2に月法テラス埼玉法律事務所入所。裁判員裁判などに携わる。2012年2月、彩の街法律事務所設立(埼玉弁護士会)、2019年7月に現在の弁護士法人ルミナス法律事務所に参画。刑事事件から家事事件、一般民事事件や企業法務まで幅広く担当し、「何かあったら何でもとりあえず相談できる」弁護士を目指している。