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『SFマガジン』編集長・塩澤快浩が語る、SFが多様性を獲得するまで 「生き延びることしか考えてきませんでした」

2020年10月09日 10:01  リアルサウンド

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 2020年2月号が創刊60周年記念号となった「SFマガジン」を発行する早川書房は今年、ハヤカワ文庫創刊50周年を迎え、「ミステリマガジン」9月号、「SFマガジン」10月号でそれぞれ記念特集を組んだ。


 長年、SFにかかわり、現在では国内と翻訳の編集部全体を統括する立場の塩澤快浩氏(早川書房事業本部副本部長兼編集統括部長兼SFマガジン編集長)にジャンルの専門誌である「SFマガジン」の歩み、SFの過去と現在について訊いた。(9月15日取材/円堂都司昭)


関連:【画像】クズSF論争の舞台となった「本の雑誌」


■「SFマガジン」の仕事を始めてからSFを読み始める


――早川書房へ入社する前は、SFに興味がなかったそうですね。


塩澤:高校の頃から翻訳もののハードボイルド、冒険小説を読み始めました。大学時代もそういうものばかり読んで就職活動はほとんどせず、試験を受けたのは早川書房と出版取次のトーハンと日販だけ。社会人になるという意識がまったくなく、趣味の延長で翻訳のハードボイルドの編集がしたくて、これだけ好きなんだから当然、早川書房に入るものだと思っていました。


――ところが、1991年に入社したら「ミステリマガジン」ではなく「SFマガジン」配属に。


塩澤:ミステリは人員が足りていたみたいです。また、一緒に内定をもらったライターの方が卒業できず、彼が配属予定だった「SFマガジン」へ僕がいくことになりました。


――それ以前に触れていたSFは。


塩澤:星新一さんや筒井康隆さんの文庫は何冊か、小松左京さんの『復活の日』と『さよならジュピター』の上巻(笑)。サイバーパンクで話題になったウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』は冒頭10数ページで挫折。それが僕のSFのすべてでした。


――「SFマガジン」の仕事を始めてからSFを学ぶ状態だったんですね。


塩澤:1日1冊、翻訳SFを読んでいきました。SFファンの集まりは苦手で、1991年夏に金沢市で開かれたSF大会「i-Con」はトラウマ。SFファン同士が楽しんでいるなか、仕事で来たのは僕1人。あの孤絶感……。ただ、編集の仕事は楽しかった。


 でも4人体制から編集長だった今岡清さんが辞めて阿部毅が編集長になり、もう1人が辞めて僕と阿部の2人体制になった。93年春、SF文庫が通巻1,000点になったんですが、「SFマガジン」では大特集はやらず、巻頭の数ページでお茶をにごしたんです。それに対し、翻訳家の伊藤典夫さん、評論家の高橋良平さんに僕と阿部編集長が歌舞伎町に呼び出され、一晩中説教されました。雑誌を2人で毎月作るのは大変で、長めの翻訳小説1本と定例の連載、コラムなどで1号を作るのがパターン化していた。内容が貧弱だと批判され、なんとかしたいと思い始めました。それをきっかけに翻訳家など外部の方と月1回、編集会議を開いて企画を提案してもらい、特集を決めていった。1994年くらいから毎号特集を組むという今に続く体制ができました。


■SFが冷遇された冬の時代


――ほかのSF雑誌は「奇想天外」が1990年に休刊、「SFアドベンチャー」が1992年に月刊から季刊になるなど潮目が変わった時期でした。


塩澤:SFが一番ブームになったのは小松左京『日本沈没』や映画『スター・ウォーズ』の1970年代で「SFマガジン」の部数も最も出ていた。1980年代のサイバーパンクの頃は、サブカル的なブームもありましたし、ハヤカワ文庫SFからはギブスン、グレッグ・ベア、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアなどがどんどん出て質的に凄かった。反動かもしれないですけど、1990年代はSF冬の時代といわれてもしかたがない状況でした。


――1990年代は、SF要素を盛りこんだ小説でもSFと銘打たないケースが多かった。


塩澤:本の帯にSFと記さないとか、差別されていました。今は差別されないから夢のよう(笑)。当時はミステリ、ホラー、ファンタジー、みんな元気なのにSFだけがダメ。早川書房の責任は大きかったと思います。SFを盛り上げるための出版戦略をとらなかった。SFっぽいものもほかのジャンルに回収されてしまう。日本ホラー小説大賞を受賞した瀬名秀明さんの『パラサイト・イヴ』など完全にSFだったのに。


――コアなSFは難解で一部のマニアにしか届かず、わかりやすいSFは映画やアニメに持っていかれたという見方がありました。


塩澤:1980年代にはサイバーパンクが目立つ一方、今でいうライトノベルの『ロードス島戦記』(水野良)などが出始めて読みやすいSF的なエンタメはそちらへ、ファンタジーものは大陸書房(1992年自己破産)へ流れた。架空戦記も売れていました。


――塩澤さんが「SFマガジン」編集長になった翌年、いわゆるクズSF論争が起きました。


塩澤:1996年11月号から28歳で編集長になりました。事前にまったく知らず、出先から帰ったら「編集長が戻ってきた」と茶化されました。入社してまだ5年半。その時には現「ミステリマガジン」編集長の清水直樹が入り3人体制でしたが、阿部が離れてまた2人に。恐ろしいことに翻訳SFの主要作は読んだけど、日本のSFは読んでいない。伝統的に編集長が国内、部下が翻訳をやってきたのに、僕にはさかのぼって読む余裕がない。だから、ホラー小説大賞の小林泰三さん、ファンタジーノベル大賞の最終候補だった高野史緒さんなどに声をかけ、他ジャンルのデビューでSFを書けそうな人に執筆を依頼して、誌面を作りました。


 そして、1997年頭にクズSF論争が起きました。「この10年のSFはみんなクズだ!」と題した対談が「本の雑誌」に載り、それを受けて取材にきた日経新聞が、「日本SF、『氷河期』の様相」なるネガティブな記事を書いた。僕の発言も都合のいいようにつかわれました。当時の編集部長に反論しないとまずいといわれて「SFマガジン」に原稿を書き、シリーズ企画で識者の方々に意見表明してもらいました。そうしても状況がよくなるはずはない。でも、論争になって多少部数が伸びた。雑誌編集者のいやらしいところで、それが狙いでした。


■ゼロ年代、SFの逆襲


――2000年代になると早川書房によるSFの逆襲が始まります。まず、2000年に『このミステリーがすごい!』のSF版といえる『SFが読みたい!』を立ち上げた。


塩澤:順序を踏んでやろうと戦略的に考えていました。「SFマガジン」は1998年2月号が500号記念でしたが、僕の入社直前の400号記念は約800ページもある号で巻末に創刊号の復刻版が付いていた。500号1冊でそれを超えるのは無理だから、国内編と海外編で1月号と2月号、約500ページずつで出しました。雑誌単体でやれることはやりつくし、燃え尽きて一区切りついた。専門誌のなかでSFを盛り上げようとしても限界はあるし、パクリですけど、SF版『このミス』的なムックが必要だと思い『SFが読みたい!』を出しました。


――2002年には「ハヤカワSFシリーズ Jコレクション」がスタートしました。


塩澤:社命ではなく、自主的に書籍もやることにしました。最初は1999年5月に神林長平さんの『グッドラック 戦闘妖精・雪風』で、人気シリーズだからすぐ重版になりました。結果が出れば、嬉しい。2冊目は、菅浩江さんの『永遠の森 博物館惑星』。『アルジャーノンに花束を』で有名なダニエル・キイスに推薦文をもらったのですが、小説を日本語で読んでもらえるはずはない。でも、菅さんの別の短編が英訳されていたからキイスに読んでもらい、菅浩江という作家への推薦をお願いしました(笑)。それが国内ベストSFの1位になって星雲賞も受賞し、日本推理作家協会賞もいただけた。とはいえ、単発で書籍を出してもなかなかSF全体のイメージアップにつながらない。その頃にはもう、将来、叢書を始めるため「SFマガジン」で原稿を集めていました。牧野修さんに長編『傀儡后』の連載を、小林泰三さんに定期的に短編を、野尻抱介さんや林譲治さんに連作で宇宙ものを書いてもらった。それでJコレクションを始めたんです。


――2003年には現実とフィクションが感覚的に等価である若い世代を起用して、ハヤカワ文庫JA内のレーベル「次世代型作家のリアル・フィクション」をスタートさせました。


塩澤:Jコレクションの創刊ラインナップが、牧野修さん、野尻抱介さん、北野勇作さん、その後は、佐藤哲也さん、林譲治さんなど。いずれも1960年代生まれで1990年代頭に他ジャンルからデビューしていた。本来なら、10年前にSFでデビューしているべき作家たちだったかもしれない。そういう意識もあったから、矢継ぎ早に次の世代を続けてと思い、2003年に冲方丁さん、小川一水さんなどをリアル・フィクションとして文庫で出しました。


――同年には講談社が、西尾維新、舞城王太郎、佐藤友哉といった新鋭作家を中心に「ファウスト」を創刊しましたね。新本格ミステリやライトノベル、ゲームなどの影響下から出発した雑誌で、新たなエンタテインメント小説像を打ち出しました。


塩澤:そこは意識して、「ファウスト」より先に出そうと思いました。ただ、太田克史編集長の「ファウスト」のインパクトは凄かったから、とてもそのレベルではなかったです。とはいえ、冲方さんの『マルドゥック・スクランブル』は評価されたし、最年少でSF大賞をとりました。SFの枠に限らず新世代のエンタメとして広く受け入れられた。リアル・フィクションの売上はJコレクションよりよかったです。2005年くらいまでに桜庭一樹さん、桜坂洋さん、新城カズマさんなどの作品を出していきました。


――難解な方向に進みがちなSFのコアと大衆性のバランスは、過去にも議論になってきました。リアル・フィクションのラインナップをみると、ラノベ的なものを受け入れ、他のジャンルも呑みこんでエンタメ性を確保した印象でしたが。


塩澤:冲方さんの場合、角川スニーカー大賞出身ですけど、金賞を受賞したデビュー作『黒い季節』はヤクザ小説だった(笑)。だからラノベのスニーカー文庫では出せず単行本になった。次に短編を頼まれて書いた『ばいばい、アース』は約2000枚(笑)あって、それも文庫ではなく分厚い単行本2冊で出したという。


――最初から変わった作家ではありました。


塩澤:元早川書房でスニーカー文庫の編集長だった野崎岳彦さんが、冲方さんが次に書いた『マルドゥック・スクランブル』を紹介してくれたんです。最初のタイトルは『事件屋稼業』でしたが。同作も15歳の少女が娼婦の設定だからラノベのレーベルでは出せません。早川書房のSFという特殊な立ち位置のせいで、他では出せないものを紹介してもらえたのかもしれません。僕はもともとSFファンではないから、自分の好きなSF、理想のSFは一切ありません。変な話、自分の好みはないけど負けん気は強いというか、自分がやることは評価されたい。端的にいうと、生き延びることしか考えてきませんでした。1990年代のみじめな感じにはもうなりたくない。バカ売れはしなくても、読者から求められるものとして自分の編集するものを出し続けたい。だからなにかしら話題は作っていこうという意識は強いんです。


 そうしてJコレクションもリアル・フィクションも2005年くらいに一段落したあと、2006年の小松左京賞(角川春樹事務所主催)の最終候補だった円城塔さんの『Self-reference ENGINE』、伊藤計劃さんの『虐殺器官』をJコレクションから出したんです。大森望さんの紹介で原稿を読みました。世紀末に思春期を過ごしたあの世代(円城は1972年生まれ、伊藤は1974年生まれ)の現実=フィクションを、リアル・フィクションと銘打たなくても、Jコレクションという本格SFの器から出して勝負できる作品が現れた。そういう印象でした。他社の最終選考で落ちたものを叢書の目玉にするなんてともいわれましたが、あの内容ですから。これはもらったと思って2007年の5月、6月に連続して出しました。


――2000年代の「SFマガジン」では日本SF作家クラブ主催で塩澤さんも選考委員を務めた日本SF評論賞(2006~2014年)の入選作を掲載し、藤田直哉、岡和田晃などを送り出しました。それとは別に話題を呼んだ評論が、2007年から始まった宇野常寛の連載『ゼロ年代の想像力』でした。


塩澤:某社のNさんという編集者が、他社で出すより早川書房で出すほうがよさそうな作家やライターを紹介してくれます。宇野さんもその紹介で会った時に『ゼロ年代の想像力』のレジュメを持ってきた。1990年代の反省から、僕はSFを閉じたものにしたくない。広げられるチャンネルがあれば接続していきたいんです。『ゼロ年代の想像力』は、SFというよりはドラマから映画、アニメなど、メディアやジャンルに関係なくゼロ年代の文化はどういうものだったか、見通す内容になっていました。SFを開かれたものにするうえでいい連載だと考えました。それに、いきなり東浩紀批判から始まっていた。僕は歯向かってくるような人が好きで、なにかいってきてくれたら、それだけいうんだったらなにかやってよと頼むことに抵抗がない。それもあって執筆を依頼しました。


■月刊から隔月刊にシフトチェンジ


――そうしていろいろSFを活性化させた後、2015年に「SFマガジン」が月刊から隔月刊になり、cakesでWEB版も設けられました。


塩澤:2009年から、僕に社内的な立場の変化がありました。日本のSFの点数は増えた。でも、会社のメインであるミステリやSFの翻訳ものは売上げが下がってきている。国内のフィクションを強化しなければならない。そこで、かつての編集部はミステリ、SF、ノンフィクションの3つのジャンルに分かれていましたが、第一編集部は翻訳、第二編集部は国内、第三編集部はノンフィクションとした。その国内の責任者になったんです。相変わらず「SFマガジン」の編集長もやっていましたし、2012年からはようやくハヤカワSFコンテストを再開した。2013年から1年間くらい人事部長も兼任しました。その後、「SFマガジン」を隔月刊化したのは、私ではなくもっと上の判断です。


――同時に「ミステリマガジン」も隔月刊化されました。


塩澤:雑誌の売れ行きがどうというより、雑誌は手間がかかる。少しでも手間を減らして、利益のとれる書籍を担当するほうに人的資源を回そうということでした。


――かわりに1号1号は厚くなりました。


塩澤:書籍化できる連載を増やし、年6冊だから1回の原稿量を多くしたんです。2号で出すものを単純に1号で厚くして出すよりは、手間は減りました。雑誌担当者が、普通に単行本を出すサイクルができた。書籍と雑誌を有機的にからませながらできるのは大きいです。月刊誌を隔月刊や季刊にすると部数が落ちてジリ貧になるイメージがあります。でも、隔月刊にした2015年と今の部数は同じか、今のほうがちょっといいくらい。隔月刊化した最初は3号連続でSF文庫の総解説という企画でした。絶対部数を落とさない、保存版となるファン向けの鉄板の企画をやるのが一番いいだろうと判断して、逆に部数は少し伸びた。その後は、徐々に減り、2019年2月号の百合特集でまた伸びました。


――「SFマガジン」にはSFの歴史をその都度ふり返ると同時に、新しいSFを紹介する役割があります。最近は劉慈欣『三体』のヒットなど中国SFの波もあって、回顧と先端紹介がいいバランスになっていると思います。


塩澤:2000年代からの積み重ねだと思います。1990年代と違って、今はネタに困らず、読者の求めるもので毎号特集を組める感じがあります。入社してから完売した号は3つあるんですが、どれも僕は直接かかわっていません。資質としてバカ売れする号や書籍は作れないと認識しています。完売したのは僕が編集長になる直前のエヴァンゲリオン特集、次いで2012年に初音ミク特集で増刷したのは、編集部長になって一時期、編集長を離れていた間でした(2009~2014年)。3回目は百合特集で、2回増刷して通常号の倍ほど売れました。


■次世代への期待


――百合特集の担当は溝口力丸さんですね。


塩澤:彼はまだ29歳で世代が違います。コミック、ゲーム、アニメなどに目配りというか、小説と同じように普通に摂取してアウトプットしている。


――今年7月にハヤカワ文庫から出た伴名練編のアンソロジー『日本SFの臨界点』の表紙をめぐり、少女のイラストである点にツイッターで賛否の意見が交わされていました。小説のデザインにいわゆるアニメ絵、萌え絵を用いることは、昔から議論になってきました。


塩澤:私はまったく抵抗がありません。まず読者に届かなければ意味がない。あのアンソロジーも、収録されているのは、単体の作家短編集として出せずに埋もれていた作品が大半です。普通に考えたら、アンソロジーで出しても売れない。昨年、伴名練という作家が『なめらかな世界と、その敵』でブレイクしたので、これまでの活動からしても彼が選ぶものなら間違いないという信頼が、SFファンの間にできています。そんな作家が編者ならば、馴染みのない作家ばかりでもセールスできる。すごいことです。カバーについては当然、『なめらかな世界と、その敵』のカバーを意識しないといけない。だから、『日本SFの臨界点』のカバーがああなったのは自然な流れ。妥当な判断だと思います。


――「SFマガジン」の現状とこれからについて。


塩澤:今の編集部は、『三体』を担当した梅田麻莉絵、溝口、私の体制で、3人とも月1点くらい書籍を編集しつつ隔月刊の雑誌を出しています。梅田は『三体』をはじめ中国SFなど翻訳ものをやっています。溝口は伴名さんもそうですが、2010年代デビューの作家や新人が担当。8月号で特集した日本SF第七世代も彼の担当が多いです。僕は昨年から翻訳ものも統括し、編集部全体を管轄することになりました。以前からWEB版とは別にSFのニュースサイトをやれば絶対、いろんな人がみてくれるという話はあるんですが、余裕がない。『三体』がこれだけ注目されると、それにかかわることだけでも梅田は大変。溝口も、百合が注目されたおかげで百合文芸小説コンテストの審査員をやってくれと依頼されたり。ありがたい話ですが、「SFマガジン」と担当書籍を出すので精一杯なところはあります。


――最近、塩澤さんはツイッターで樋口恭介さん(2017年、『構造素子』でハヤカワSFコンテスト大賞を受賞しデビュー)発案の異常論文小説特集についてやりとりしたり、「文藝」の坂上陽子編集長とコラボの提案をされたりしていましたが。


塩澤:樋口さんは性格からして、やってみればといえば勝手に突っ走るのはわかっていたけど、つい乗っかってしまった。そうしたら10人ほどの作家に勝手に依頼してラインナップはもうできましたからって(笑)。面白そうなことは、タイミングが大事。去年の伴名さんもそうです。同人誌で発表された作品が東京創元社の『年刊日本SF傑作選』に毎年のように載って評価が高いのは、わかっていた。そのわりに話題になっていませんでしたが、例の百合特集に発表した短編「彼岸花」で注目され、今だと思って、すぐ短編集をまとめたほうがいいと溝口を焚きつけました。頼まれてもいないのに「2010年代、世界で最もSFを愛した作家。」というコピーを彼に渡したんです。いったほうがいい時は、躊躇せずいく。異常論文小説の時もそうですけど、「文藝」の坂上さんがちょっと反応してくれたし「なにかやりましょう」といったら乗ってくれたので、来年あたり実現したいですね。僕には、面白そうなことをみつけ、タイミングをみてなにか組みあわせる感覚はあると思います。それで乗りきってきました。


 今のSFには最先端の尖ったものもあれば、一般読者が軽く読めるものもあり、シリーズで長年読んでくれるものもある。SFのなかでもいろんなものがあるのが理想だし、それに近づいている感じはします。溝口が新しい作家を担当する一方、僕はJコレクション世代の作家を担当して、今年も北野勇作さんが久しぶりに『100文字SF』を出して重版がかかっています。林譲治さんのミリタリー寄りの『星系出雲の兵站』シリーズとか、経験を積んだ60歳近い作家も新しいことに踏みだせている。かと思えば、東京創元社の創元SF短編賞は当社のSFコンテストと比べてもっとコアな方面で酉島伝法さんなどを輩出し、「文藝」は女性の目線で多様性を意識した各国のSFを紹介している。状況はだいぶ豊かになっています。


――最後にベタな質問ですけど、今のSFを季節に喩えると。


塩澤:2000年代頭以後、春から初夏くらいの陽気がずっと続いているかなと感じています。僕はこのぐらいの陽気がちょうどいいんですが、梅田や溝口が真夏にしてくれるかもしれません。


(取材・文=円堂都司昭)